狂感覚シンドローム
また朝から担任に怒鳴られている。
教室の片隅だが、担任との距離は50メートルはある。担任の口からは次々と群青色のヘドロの様な液体がドクドクと噴き出し、体全体からどす黒い湯気がユラユラと揺らめき立っている。「ああ、早く説教おわらないかな」。___
この目がおかしいと気がついたのは小学生の頃だった。
僕はずっと絵が下手だと言われていて、図工の先生から「見たまま描くのは嫌いかな?」とやんわり責られていた。そして、友達の似顔絵を描きましょうというお題が出た時、事件が起こった。
見たまま描けと先生に言われたから、僕はその通りにしたんだ。
そいつは結構仲のいい友達だった。全体が濡れるように赤く、黄色にキラキラしていた。鼻は無いが、目は大きく、口は更に大きく。そう、見たまま描いた。
結果は分かるだろうか。
餓鬼大将と大人が呼ぶだろう小学生男子だったそいつが僕の絵を見た瞬間、悲鳴をあげた。
イジメられる、なんて事は無かったがもうそいつとは友達では無くなってしまった。
中学に上がって僕は美術部に入ったが絵が上達する事はなかった。
正確に言えば、見た物をそのまま描く技術は上達していた。
オレンジ色と緑色の交じり合わないマーブルと、白い柔らかい雪。たまに青い虫が飛ぶ。細長い指達が忙しなく動き回って、黒目だけが同じ高さに並んでいる。
「これは、なぁに?」
雲の薄くかかった水色の空が僕の後ろから流れてくる。
「吹奏楽部」
針の様に細い鈍色が僕の口から飛び出すが、空には叶わず消えていく。
「ああ、サビの一番大事なところで間違えた子がいるのね」
クスクスと笑う度、空に桜が咲いていく。
「なんで、分かるんですか。先輩」
「だってキミ、左上から描いたでしょう?順番に音を塗りながら、人物を描いた。黒い点は雑音ね。そして、そうね。間違えたのはトロンボーンの子」
「それは僕には分かりません」
「この子だけ、しまったって顔してるもの」
僕の絵には顔はない。瞳が描いてあるだけだ。白目のない瞳だけ。それでも先輩は『表情』を言った。
……しまったって、こう言う顔なのか。
僕が絵を見つめていると、桜は満開になっていた。
「キミ、今朝先生に怒られたでしょう?」
僕の指先から紫煙が細く上がる。
「そんな、匂いがするわ」
「……嗅がないで下さい」
掌を振って湯気をとばして、僕はやっと先輩の方へ向いた。眉毛を頑張って寄せて不愉快を顔に出してみる。
「何をしたの?」
抗議は無駄だったかと、口を固く閉じてみてから、僕はどこまでも優しい空色に、鈍色を吐いた。
「クラスの女子に、錆のついたコンクリートみたいな声の奴がいて、どうしても我慢出来なくて」
「言っちゃったんだ」
「言っちゃいましたね。変に我慢した分、煩いって」
僕は諦めて溜め息を吐きながら笑って言った。
「それは、キミが悪いわね」
先輩が肩を震わす度に、桜が舞っていく。
「分かってますよ。だからちゃんと担任の説教を聞きました」
「そう。嘘か本当か分からないけど、とりあえずいつもの調子に戻ったみたいね」
満開の桜を包むように広がる空が本当に美しくて、僕は少し慌てた。
「それで、この絵はこれで完成?」
「そうですね。……いえ、やっぱりもう少し描きます」
「そう? じゃあ、私もいつものようにキミをスケッチさせて貰うわね」
僕の目は真実の姿を映しているわけでも、気持ちを表しているというスピリチュアルな物でも無い。ただ、音に色がついているだけだ。
だから、先輩がどんな姿をしていても気にしない。
「先輩、髪、どうしたんですか?」
「……」
ほら、先輩。もっと話して。空を咲かせて。
「また、クラスの人にですか?」
先輩の鼓動が速まると、身体からは少し濃くなった桜が飛び出してくる。
「そう言えば、背中も泥で汚れてますね。足跡がついてます」
「え……うそ」
はためく空に、震えながら桜が散る。
先輩は、根暗で不細工でねちっこくて嫌いだが、やっぱり先輩の声と鼓動の組み合わせが、一番
美しい。
それを見るためだけに、僕は先輩に優しくしている。
僕の目はおかしくて、多分、心も狂ってる。
【終】