【考察】透明な器とは何か

※この考察は睦実、根地、織巻ルートの田中右の一部セリフバレ及び世長ルートの致命的なネタバレを含みます。
※2021.7.18 ふせったー再録。
※2021.7.28 参照記事追加。

※注意※
私は自分の知りたいこと、分からないことを解決したいからジャックジャンヌの考察をしているだけです。
正史を特定したいわけではありません。
正史論争に巻き込まれたり、推しが世長であるというだけで考察の意図を邪推されるのは迷惑です。
また人間である以上、どんなにチェックしても時にはミスを犯すことがあります。


先に結論から述べます。
作中で、希佐について主に田中右が口にする透明な器という言葉。
この元ネタは、実は最終公演のシシア・クリストフと同じくイエス・キリストが由来です(シシア=イエスについてはかなり簡易だが下記の補足参照)。
以下、一部キャラのセリフを引用しながら解説していきます。

(補足)シシア・クリストフとイエス・キリストについて
まず、希佐演じるシシア・クリストフの名前自体が救世主(メシア、キリスト)のもじりである。
最後にシシアが壁の上という高台で命を落とす展開も、イエスがゴルゴダの丘(=周りに比べて標高が高い場所)で処刑されることに由来する。
そもそもDeparture、Over the wallのPVにそれぞれ登場するアネモネとカーネーションはイエスの磔刑と関係が深い花である。
※伝承と色が異なること含めてきちんと意味があり、ギリシア神話などとも関連させて使われている。
その他、全てを記事化するには至っていないが、ジャックジャンヌの各公演内容がキリスト教と縁深いことは過去の考察でも一部解説済み(下記リンク先を参照)。
※秋公演と冬公演について https://note.com/snowblossom_jj/n/n2a79984397fb
※僅かだが夏公演について https://note.com/snowblossom_jj/n/n9d97a7b71149

なお、イエスが磔刑に処されるはずの部分が銃殺に変更されているのは、最終公演のベースとなっている物語がキリスト教のゴルゴダの丘の処刑だけではないため。
他にとある別の神話が組み込まれている影響が大きいのだが、これに関しては解説が長くなるため後日公開する別記事に任せることとする。


では最初に、作中で語られる透明な器の性質について。

※織巻ルート
田中右「あいつは透明な器だ。
器に入った人間の姿を奥深くまで映し出す……。」

さて、この映し出すという表現、器に対して使うには少し不自然。
しかし、この「人の姿を映す」性質をもつ何か、身近なもので思いあたるものがないだろうか。
毎日、身支度をしたりするのに使い、風呂場や洗面所など家のどこかには設置されているもの――そう、鏡である。
実はこの鏡、下記の聖書の内容などから西洋絵画などでイエス・キリストのシンボルとして用いられることがある。

「知恵は永遠の光の反映、
神の働きを映す曇りのない鏡」、
神の善の姿である。
(旧約聖書外典:知恵の書より抜粋)

「御子は、神の栄光の反映」であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高いところにおられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
(新約聖書:ヘブライ人への手紙より抜粋)

他にも論拠となる聖書の記述は存在するが挙げ出すとキリがないのと比較的分かりやすい文章は上記二つなので以上とする。
また、上記の内容を読むと気付くかもしれないが、キリスト教において右という方向は重要なものであり、おそらく作中で明かされている以外の田中右の名前の由来の一つにもなっている(後日解説)。

まだ突拍子もない解釈に思える人がいるかもしれないが、この透明な器=イエス・キリストの素質や性質という前提と、田中右は希佐を自分のアルジャンヌ=瀧姫にしたがっているということを念頭に置き、彼の言葉を改めて振り返るとより見えてくるものがある。

※睦実ルート
田中右「『瀧姫』が真に求めたものは『がしゃどくろ』ではない。
亡き父親だ。
彼女の信仰の先には『父親』の姿があるのだ。
祈りの本質に触れろ。信仰の対象を見誤るな。
そこに、答えがある」
キリスト教において神は父、イエスはその子と表現される。
そのため、ここでやや唐突に信仰や祈りといった宗教的な用語が登場している。
(補足)このあと希佐は自分の信仰対象は兄の継希ではないかと考える。
このことに関しては、世長の親愛イベント1のスチル、月の王の元ネタの考察記事の作成が必須となるため今回は割愛する。

※根地ルート
田中右「『瀧姫』は、誰かのために自分を捧げることができる人間だ。
同じ精神性を持つ人間でなければ演じられない。」
キリスト教において、イエスはアダムの原罪から積み重ねてきた人類の罪をその身で代わりに贖うために磔刑で命を落としたとされているから。

これらのことから、田中右の考える自分に相応しい瀧姫とは、本来はイエス・キリストのような人物であり、彼が希佐に対して使う透明な器という言葉には彼女はその素質(→イエス・キリスト≒田中右の理想の瀧姫)があるという意味が込められている。
(さらに探せば関連性を感じるセリフがもっと見つかると思う。)

では、なぜここで素直に元ネタの通りの鏡ではなく、器という表現を用いているのかというと、イエスとその死のシンボルの一つに聖杯(→器)が存在するためと考えられる。
この聖杯自体は最後の晩餐でイエスが使ったとされる杯が由来だが、西洋絵画などでは磔刑にされたイエスの尊い血を受け止めるものとして登場することがある。
器と華という概念があるジャックジャンヌにおいて、鏡よりも器(聖杯)という表現の方が親和性が高いというのが一因だろう。
その他、瀧姫=田中右のパートナーでありアルジャンヌということで、器の形に子宮といった女性器の形も重ねられていると考えられる。
(キリスト教で聖杯は子宮と結び付けられて考えられることがあり、これはユニヴェールの制服のデザインにも取り入れられている。)
※大伊達山信仰の元ネタを考慮するとこれより遙かに大きな理由が存在するが今回は割愛。

さて、この透明な器=イエス・キリストの素質だが、実は作中で希佐以外におそらくもう一人これを持つ人物がいる。
世長創司郎である。
作中で透明な器と直接表現されていないだけで、このことは以下の会話から分かる。

※世長ルート(1月25日)
世長「……イザクは器なんだ。」
希佐「カイさんのジャックエースみたいに?」
世長「ううん。
カイさんは、フミさんを引き立たせるための器だったでしょ?
僕のジャックエースは……クォーツの器なんだ。」

ここで登場するクォーツの器という言葉だが、宝石のクォーツはジャックジャンヌという作品そのものやクラスのシンボルともなっている。
そして、この石の色は物語序盤の
根地「『透明』なるクォーツへようこそおいでなすった!」
というセリフに代表されるように透明であることが作中では強調されている。

よって、
クォーツの器
→クォーツは透明な石
→クォーツの器は透明な石でできた器
=透明な器
ということであり、希佐と世長は同等の存在という証明である。
攻略キャラで唯一、世長がOPに歌われるクォーツのペンデュラム(型のネックレス)を所持しているのもこのためである。
※おそらく透明なクォーツ=イエスの穢れのなさと彼の死を悲しむ聖母マリアの涙が元ネタの一つ。
また、世長ルートで希佐と世長がアルジャンヌとジャックエースのペアとして舞台に上がることができないという展開も、作中で明かされている以外に最終公演が冒頭(と補足)で述べたとおりキリスト教のゴルゴダの丘の処刑を元ネタに組み込んでいることが原因の一つと考えられる。
人々の罪の贖いとして命を落とすイエス・キリストはただ一人であり、二人も必要ないためだ。
そもそも世長創司郎と彼演じるイザク・バズマーズの名前の由来の一つである旧約聖書のイサクの犠牲は、キリスト教ではイエスが現れる予型(予兆)として解釈されている物語である。
(ものすごく雑に記すとイサク≒イエスという発想が可能であり、イザクとシシアはこの元ネタと同じように同等の存在と言えるということ。)
※世長とイザクの名前については https://note.com/snowblossom_jj/n/n4aae5212c3da

そして、この世長がもう一人のイエス・キリストであるという設定は実は発売前のコンセプトSSにも反映されている。

想像力が豊かな世長にとってユニヴェールの自主性は、どこまでも広く続く高原の中、数百数千にも及ぶ羊の群れの面倒をたった一人で見るようなものかもしれない。
(希佐のコンセプトSSのscene04より抜粋)

この羊の群れの面倒を見るという変わった表現、新約聖書のヨハネによる福音書の中でイエスが「私は善い羊飼いである」と口にしたことなどから、キリスト教でイエスを指す言葉として善き羊飼いという表現が使われることに由来する。

その他、各キャラのプロフィールは、使用されている元ネタからのセレクトが見られるが、世長の好きな卵(料理)も実はイエス・キリストと縁深いものである。
※例:カイの誕生日9月23日は彼の初期モチーフであるオペラ座の怪人の小説の刊行日、など。
卵はキリスト教の復活祭(イースター)で使われるイエスの死と復活のシンボルだ。

なお、筆者の過去の考察を読んだことがある方はこれを読みながら世長の元ネタって悪魔だったはず……と考えているのではないかと思う。
※詳細 https://note.com/snowblossom_jj/n/n4aae5212c3da
ここでいきてくるのが世長のテーマBGMがスイ先生に二面性のあるものをというリクエストから作成(コンプリートコレクション参照)され、Heads Or Trails(=表か裏か)という意味深なタイトルが付いている事実である。
世長はキリスト教における神の子イエスとその敵である悪魔サタンという本来相容れることのない二つの側面を持つ存在だからこそ、二面性、表か裏かが彼を象徴するテーマになっていると推測できる。

では、なぜ希佐と世長にイエス・キリストがあてがわれ、さらに世長には悪魔という属性まで付与されているのかは、おそらく大伊達山信仰の正体に大きく関わっている。
これについては元ネタと合わせて現在検証中の段階のため、今回の考察はここまでとする。


今回の考察に流れの都合上入りきらなかった内容、世長では希佐と釣り合わないという意見に対する反証は後日別途まとめを作成する予定です。
一部冒頭の注意の繰り返しとなりますが、私の考察はジャックジャンヌの正史を特定するためのものではないし、ましてや世長が希佐と同等の存在であるという見解は役者や恋人としての優劣を決めるものではありません。
その他、透明の器に対するカイの黎明の器の意味は今後作成する彼の元ネタに関する考察で取り扱うつもりです。
※世長の才能について(2021.7.28作成) https://note.com/snowblossom_jj/n/n0408989b3106