【留学体験記③】早速アメリカ大学生活の洗練を受ける
前回の【留学体験記②】とにかく渡米してしまった では、ホストファミリーに見送られて寮に入ったところまで話した。
1995年9月、コロラド州のデュランゴという山に囲まれた小さな町で、いよいよ本格的に大学生活がスタートした。
人生初の寮生活
まずFreshman Dormという新1年生専用の寮に入らされた。
平屋造りコの字型の建て物で、手前半分が女子、奥半分が男子に分かれていて、男女各セクションに寮長の部屋がある。
コの字の両先端に共同のシャワー・トイレが3つずつあった。シャワーはプールにあるような上に固定されてるタイプで、カーテンで仕切られてるだけ。
そのすぐ隣にトイレもあって全く落ち着かない。校舎のトイレの方がゆっくりできた。笑
割り当てられた部屋に入ると、先にルームメイトが到着していた。
名前はレイチェルだったかな…出身地は忘れてしまったが、ネイティブアメリカンの女の子だった。
1部屋に2人。仕切りも何もなく、左右の壁にベッドと小さなクローゼットがあるだけの部屋。
学期が始まる前のサマープログラム中も寮生活だったが、ルームメイトが日本人だったし、すでに友達になっていたから、その時は何も問題なかった。
でも、本番の大学生活になって、アメリカ人のルームメイトと同じ部屋になるのはやはり全然勝手が違う。
彼女のクローゼットの引き出しからツヤツヤしたサテン生地のド派手な花柄のショーツがだらんとぶら下がっていたのを目にして、まず軽いカルチャーショックを受けた。
お互い名前を名乗り合い、どこから来たかくらいは話したと思うけど、私は人見知りもあったし、相手もまあまあシャイだった(アメリカ人皆がアウトゴーイングという訳ではない…)。
会話も続かないし、とにかく部屋に居づらくて、私はほぼ音楽学部の校舎の練習室に夜遅くまでこもっていた。
とはいえ、1年生のはじめの頃は、ピアノもまだそんなに根詰めて練習できなかったので、週末の夜などは、隣の棟で幸運にも一人部屋を割り当てられていた同期の日本人の部屋にほぼずっと逃げていた。
自分の部屋には寝るためだけに戻るような感じだった。
私が部屋にいないことが多いとわかると、そのルームメイトは私の机の上のラジカセを勝手に使い、私の持ってるCDを勝手にかけていたりした。
自分のものを勝手に触られるのは嫌だったけど、「そのアルバムイイね!」(ジャニス・ジョップリンのベスト盤だった)と気に入ってくれてたようだったから、まあいいか…と思って許した。(以前の記事 ♪超自己満足プレイリスト【大学時代聴いてた曲〜POP/ROCK/JAZZ編】で触れた通り)
週末の寮は基本煙たい
しばらく経つと、娯楽のない片田舎にある大学の未成年の1年生達はヒマを持て余してくる。週末の夜は寮の中がカオスだった。
まだほとんどがお酒を飲めない年齢だったと思うが、どこかからこっそり仕入れたお酒を飲んでは酔っ払い、ホームシックなのか(足元の開いた仕切りしかない共同の)トイレで泣いてる子が居たり、あとはおそらく乾燥大麻の煙で建物内がなんとなく煙たい。
部屋のドアの下枠の隙間から煙が漏れないように、バスタオルを丸めたものをガムテープで貼るというのが寮内ではデフォルトのスタイルなのだが、そんなことしても煙や臭いは漏れる。
寮長も駐在しているのだが、そこは見て見ぬふりなのだ。
コロラド州は2014年から(娯楽目的の)大麻が合法になっているが、それ以前から厳しく取り締まられてはいなかった。アルコールの方がよっぽど厳しかった印象だ。
(↑日本人留学生には日本の法律が適用されるので、注意されたし。)
同じ寮の男子達が住む部屋で生徒の1人がオーバードーズで亡くなる事故(?)があった。確か同期の日本人がルームメイトだったと思う。
その彼の様子を見に行った時、窓はまだブルーシートに覆われていたが、ドアは開け放されていたので、中を少しだけ覗かせてもらった。
故人のベッドの横には美しいガラスパイプがいくつも並んでいた。怖くて身の毛がよだつ思いだった。
ヒッピー文化再来中?!
ある天気の良い週末の昼さがり。
私は練習から部屋に一旦戻ると、ルームメイトが窓を全開にして、中庭に向けて(私のラジカセで)爆音でジャニス・ジョップリンを流し、セージの葉の束をもくもくと焚いていた。
ホワイトセージは今はパワーストーンの浄化アイテムとして知られているけれど、当時何も知らなかった私は、独特の香りに「なんかヤバいもん焚いてる…」と思って、内心ひやひやしていた。(今思うととんだ誤解で彼女に申し訳なかったが…。)
中庭ではよくヒッピースタイルの学生達が裸足でhackey sack(お手玉くらいの大きさのカラフルに編まれたボールを蹴る遊び)をして遊ぶのが流行っていた。
(↓こういうの)
リアルヒッピー文化は60年代のことなので、この1995年の時点では、まあみんなファッションヒッピーなのだが、なぜか学内外でヒッピースタイルが蔓延していた。
ドレッドヘア、ヘンプで作られたアクセサリー、タイダイのゆるT、女の子はインド綿のロングスカート、そして裸足。(アスファルトは熱いんじゃないかと思うけど、町でも素足民が多かった。。)
ダウンタウンのコーヒーショップの前には大体ラブラドールのような大型犬を連れたドレッドヘアの男の子がコンガのような太鼓を携えて入り口に鎮座していた。
部屋の移動を希望し別の寮に引っ越した
ある週末の夜、私がピアノの練習を終えて部屋に戻ると、ルームメイトが男を連れ込んでベッドに寝ていた(まだ行為に入る前だったとは思うが…)。
2人とも酔っ払っていたように見えたし、私は気が動転して、思わず日本の母に電話した(←今なら大したことないと思えるけど、当時の私には刺激が強すぎた…笑)。
留学機関でお世話になったアドバイザーの方に相談してみるから、また後で電話して、と一旦電話を切った。
後ほど、部屋の移動ができるかも知れないから、学校に聞いてみるように言われた。
私はその後どうやって部屋の変更を申し出たのか覚えていないのだが、幸運なことに偶然空いてた別棟の部屋に移れることになった。
寮にもランクがあるらしく、その棟は比較的新しく、部屋もキレイ。費用もちょっと上がるが、そこに住む生徒はそれが許容範囲である家庭の人たちが多いらしかった。
洗面・シャワーは2部屋の間に2つずつ(実質1部屋に1つ)、ルームメイトはいるが、タンスで仕切られておりまあまあプライベートも保たれる。最初の寮の部屋に比べたら天国だった。
ようやく心穏やかに生活できるようになった。
最初の学期が終わると人数がどっと減る
最初の学期が終わると生徒数が半分ほどに減ると噂で聞いていた。
半分は言い過ぎかもしれないが、3分の1は居なくなっていたと思う。
冬休みに私は成人式の写真だけ撮るのに一時帰国したのだが(その後卒業まで一度も帰らなかったな…)、日本から戻ると、学校はがらんと静かになっていた。
まあ、怖い人たち(大麻常習の人とか…)が一斉にいなくなったと思うと私的にはホッとした。
そんなこんなで、最初の1年間マストだった寮生活を無事(?)終えて、私は大学が始まってから急に仲良くなった留学機関の同期の女友達と2人で、町にアパートを探し、一緒に住むことになった。
その頃になるとファッションヒッピー達の姿も徐々に減り、2〜3年も経つと、土地柄アウトドアスポーツ、ウィンタースポーツが盛んなため、それ目的に都会からやってくる学生が増えた。
キャンパス内に小綺麗な生徒たちの姿をちらほら見かけるようになって、少し安心した。笑
町から大学へはしばらくバスを使っていたが、私は学部の練習室にすぐに行けないと困るので、まもなく車を持つことを考え始めた。
初めて免許を取るところから。
その話はこちらの「留学思い出話〜初めての愛車」に詳しく書いた。
次回は、大変だった一般教養の授業について書こうと思う。