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第167回芥川賞 受賞作予想してみた

 ごきげんよう。あわいゆきです。

 今回は7月20日に発表される芥川龍之介賞の受賞作を予想していきます。

 なお、あくまでも予想です。作品の内容評価とは離れた、外的要因も幾分か踏まえて予想をするのでその点はご理解ください。

 まずは候補作の確認から。

小砂川チト「家庭用安心坑夫」(群像6月号)
鈴木涼美「ギフテッド」(文學界6月号)
高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(群像1月号)
年森瑛「N/A」(文學界5月号)
山下紘加「あくてえ」(文藝夏季号)
日本文学振興会さんのツイートを引用

 以前に投稿した予想の的中率は 4 / 5。想定外の作品もなく、本命と目されている作品はすべて候補入りでした。順当なところが揃ったと思います。

 今回も簡単にですが一作ずつ紹介をして、受賞作の予想をしていきます。
 なお、作品内容そのものの評価ではなく、「賞を受賞できるか」を観点に書いていくので、ご了承ください。
 いちいち読むのが面倒くさい方は、目次から「私の予想」まで飛んでいただけると。

 作品のネタバレがあるので、未読の方は注意してください。


小砂川チト「家庭用安心坑夫」(群像6月号)

 群像新人文学賞受賞作。生まれ故郷の廃坑にいる人形のツトムを父親だと言われて育った主婦が、街の至るところでツトムを見かけるようになります。やがて恐怖から逃れるために地元に向かい……というあらすじ。

 全編を通して重要となっているのは妄想を拗らせたことで発現する〈恐怖〉とそれにともなう〈衝動性〉。語り手は常につきまとう恐怖から逃れて安堵を得るため、最初から最後まで衝動的に動いていきます。団地を出て、廃坑にいって、ツトムを盗んで、あるいはそれを置き去りにして。なにかをするたびに別の恐怖と遭遇して、逃げ惑っているうちに妄想と現実は混線していきます。
 それを象徴するように、物語中ではツトムのいる廃坑(妄想)と夫のいる家庭(現実)が対比されていました。語り手が衝動的に動く際は必ず、現実側から妄想に向かうか、あるいは妄想側から現実に引き返していきます。語り手は「ずっと走っている」と作中で形容しており、その行為自体に、逃れようのない恐怖を思わせます。

 そして物語の終盤、語り手はツトムではない本物の父親と遭遇する機会を得ました。入り乱れる現実と妄想のキーパーソンとなっていた〈父親〉という存在がはじめて一点で交錯することで、物語は収束に向かいます。このとき語り手がとったのは「ツトムを置き去りにする」行動。妄想の象徴だったツトムを置き去りにすることではじめて現実を見据えられた一方、「現実だと思っていた」家庭までが喪われるラストには、ほろ苦さを残していました。

 理性をもとに動くのではなく、ひたすら衝動的なムーヴを連打しているので、この作品の共感性はかなり低いです。突飛な語り手の言動に「うんうんわかる」となる人は少ないでしょう。
 ただ、その読者に対する突き放し方こそが魅力であって、全編通して漂っている薄気味悪さは、語り手自身が抱える得体のしれない恐怖にもつながっています。

 いわば、現実と妄想を衝動に任せて反復横跳びして、ひたすら恐怖から逃れようとした結果、境界線を見失ってしまった語り手が――最終的に現実に立ち戻ってくるまでの物語といえるでしょう。
 選評にもあった「マイナスからゼロに至る成長小説」はほんとうに的確です。

 読者に解釈を委ねさせている点は多く、今回の候補作のなかだと「芥川賞らしさ」みたいなものは強いです。小説でしか描けない虚構と現実の重ね合わせを好き放題やっているのも、個人的には印象がいいです。
 一方、昨年の「貝に続く場所にて」と比較すると一段落ちるイメージは否めず。癖も強く、あの作品ほどの支持を集めるイメージはあまりわきません。


鈴木涼美「ギフテッド」(文學界6月号)

 自社枠そのいち。接待飲食業に従事している女性が、大成できなかった母の最期をしずかに看取るお話。

 語り手の女性はどこか諦観した、冷めたまなざしで世界を見つめています。子どものころに無視をされて煙草で焼きまで入れられた母にも苛立ちを見せず、夏のあいだにいなくなった友人たちの回顧にもどこか距離を感じさせる。そんな彼女は自殺した友人のあとを追ってホストと関係を持ち、男性から金銭を受け取り、かつてつけられた傷跡をなぞるなかで、人が死んだ〈あと〉に残るものを考えていくようになります。

 また、語り手は世界を冷静に見つめるために、取り囲む〈音〉に耳を澄ませていました。雑多な音がひびく夜の街を生き、自宅のドアを開けるときの鍵が鳴る音に日常が続いていく安堵を見出し、ハイヒールを鳴らす音で自分の居場所を――自分が生きていることを確認する。主人公の聴覚に対する過敏さは、世界を俯瞰的に見つめられているあかしであり、同時に諦観のまじった窮屈さでもあります。静謐で落ち着きのある文章が、全編通して語り手の味わっている世界を映し出していました。

 しかし、語り手は終盤に「わかるものだけわかればいい」と母からの言葉を受け取ることではじめて、音をより広く、ありのままに聴こうとします。〈音〉に耳を澄ませることで世界をわかろうとしていた自分自身が、はじめて前を向く瞬間です。
 そして最後、母から受け取った(死んだあとに残った)ギフトである短い詩は、夜の街に繰り出していく語り手をやさしく赦してくれるものでした。「ドアがしまるとき、かいせつは いりません」は、ドアがしまるときの決まった〈音〉にこだわっていた語り手をやさしくほぐし、「しずかにしまるといい」と、〈音〉から解放されることを望みます。

 俯瞰的になるあまり、どこか窮屈に生きていた語り手が解放されるまでの流れは、とても物静かながら胸を打つものとなっていました。また、語り手のまなざしは静謐な文章と非常に相性が良いです。夜の街を生きる人々の生活を切り取った描写もすぐれており、胸にじんわりと、しずかに沁みとおってくる小説になっています。

 読んでいて心地よい優れた小説なのですが、インパクトに欠けるところは少なからずあります。選考ではそれがどう評価されるか。悪くはないが一押しに欠ける、と言われる可能性は大いにあると思います。


高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(群像1月号)

 一年前の芥川賞で『水たまりで息をする』が候補作にもなった高瀬さんの新作。すでに単行本も刊行されており、多くの書評+王様のブランチ効果もあって重版もされています。のちに紹介する『N/A』とならんで、上半期の話題作。

 恋愛、食事、会社、あらゆる場面で形成されている「空気」に焦点を置いて、その空気を構成したり違和感を抱いている人々の視点から、人間の嫌なところや、空気を共有することに対する生きづらさを描いていきます。
 これまで多くの人が抱いてきたであろう「おいしい」という言葉に対する違和感や、流行の「ケア」の文脈を掘り下げてもいて、幅広い読み方ができるリーチの広い作品になっています。

 候補予想の記事では弱者をコントロールしたがる「二谷」と弱者として献身的に振舞う「芦川さん」それぞれの歪みから、古い家父長制に囚われている男女のいびつな関係性について言及しました。
 
 なので今回はメインとなる三人のうち唯一古いしきたりに囚われておらず、むしろ現代的な女性として描かれている押尾さんにも目を向けていきます。彼女は自立志向が強く、社内のハラスメントにもはっきりと眉をひそめていました。よくもわるくも真面目すぎるきらいがあり、チア部に所属していたエピソードを交えて「ケア」が不得手であることが語られます。

 押尾さんは自分にも他人にも甘えを許しません。そのため、弱者の立場を受け容れて楽をし、周りから舐められることでハラスメントを助長させる芦川さんは甘えているようにしか見えず、苛立ちを募らせる。ここで二谷が強権的なまなざしを芦川さんに向けているのに対して、押尾さんが芦川さんに求めているのは同等になってもらうことです。上から接することを前提にしている二谷よりよっぽど真摯で、芦川さんの将来を思っています。

 しかし芦川さんは押尾さんと異なり、仕事ができる人間ではありません。彼女は自分にも他人にも「ケア」をしなければ会社に適応できない。
 そのため自分で立とうとすることを要求する押尾さんと、他人に支えられることではじめて社内での立場を手に入れた芦川さんのあいだには、どうやっても理解しあえない壁がそびえていました。他人へのケアを認めない押尾さんの「いじわる」に屈してしまったら、芦川さんはようやく獲得した居場所を失うことになってしまいます。
 物語の終盤、押尾さんが会社を辞めて芦川さんが会社に居残った事実には、弱い人間が勝利するままならなさを抱かせる一方、「その場所にしがみつかなければいけない」切実さのようなものも抱かせました。
 
 また、芦川さんが過去にハラスメントを受けていた事実を見逃してはいけないとも感じます。いまのようにハラスメントを受け容れて献身的に振舞うようになってしまった過去には、かつてまっとうに(それこそ押尾さんのように)自立して生きようとして、しかしうまく適応できなかった事実が存在しているのではないか。「ハラスメントで会社を辞めた」過去の芦川さんと、「ハラスメントを笑って受け容れている」いまの芦川さんの像には決定的な隔たりがあります。芦川さんが最初から甘えて生きているひとなら、ここまでしたたかに、うまく世渡りはできていなかったように感じます。

 他人による支えを前提にしている芦川さんの生き方は非常に危うく、押尾さんのように仕事のできる人間からみれば鬱陶しいことこの上ないものです。ただ、それも彼女が獲得したひとつの生き方だと思うと、むやみに否定はできません。
 そして、芦川さんのような生き方をしていかないと社会にうまく適応できない人々の存在は、社会的な自立を要求される現代(あるいはハラスメントをなくそうとするべき社会)において、決して看過してはいけないものでしょう。芦川さんの存在は、いまの社会で見落とされがちな人間を的確に炙り出した、絶妙な人物だと思います。

 今回の候補作でも人間の描き方はうまく、着眼点とそれの活かし方も非常によくできています。候補作のなかでは最も手馴れていて、隙がないようには感じました。あとは会社を世界に見立てた物語背景の組み立て方が、過剰に思われないかどうかでしょう。本作で重要なテーマの一つとなっている「空気」自体がフィクションじみていると言われる可能性は、十分あると思います。
 平野啓一郎さんをはじめ、前回の「Schoolgirl」みたく男性選考委員の票が比較的集まりそうな感じはします。

年森瑛「N/A」(文學界5月号)

 自社枠そのに。文學界新人賞受賞作。
 文學界新人賞ではめずらしく受賞後すぐに単行本化されており、かなり積極的に売り出されている作品。

「何にも属していない」=「個」であること願う語り手のまどかが対峙するのは、あらゆる物事に対するカテゴライズです。女性性から逃れるべく、生理を止めるために痩せたら「拒食症」と周りの大人に言われ、クラスメイトからは「王子様」だと持て囃される。何にも区分されない〈かけがえのない他人〉を望んで年上の女性と付き合ったら「同性愛者」だと友人に思われる。当人の意思を無視して行われる安易な理解とカテゴライズの暴力から抗うために、まどかは他の人たちとは違う「自分自身の言葉」を捻りだそうと懸命にもがきます。

 しかし、なんとか「個」であろうとしたまどか自身にもやがて限界が訪れます。チョコレートを食べることで生理が訪れ〈女〉の型に嵌まってしまったまどかは、友人であるオジロを慰めようとしても定型的な言葉しか出てこず、元カノのうみちゃんに丸っこくてやさしい「ありがとう」を送る。
 定型的な言葉を使い、集団に属する / 括られる ことで発生するらくちんさは、「個」であり続けることの脆弱性と限界を物語っていました。カテゴライズによる暴力を的確に問題提起したうえで、その先に発生する問題をもはっきりと見据えられています。


 また、まどかを取り巻く周囲の環境の描き方が非常によくできているのも、この作品で語られるテーマをより強固なものにしていました。
 インターネットで見たような言葉でマイノリティに理解を示そうとしながら、同時に教師を「小児性愛者」だと安易に蔑んでしまう翼沙。マイノリティである被害者意識を盾にして加害に走るうみちゃん。加害してきた翼沙に言葉で反抗してしまう安井先生。多様性社会で被害者を主張したり、加害性に怯えながら同時に安易な加害に走ってしまう〈無自覚に自覚的な加害〉が至る場面で描かれます。もちろんまどかも例外ではなく、生徒の立場を利用して、うみちゃんを傷つけるための言葉を必死にたぐりよせてしまう場面が存在しました。
 ほかにも、まどかたちが繰り広げられる女子高生的な会話ですら「それだけで通じるやりとり」として友情の証っぽく読ませながら、実際は「わかりあえていない定型的なやりとり」の証左として終盤のフックになっており、隙がありません。多くの問題提起を散りばめながらも破綻しないでまとまっているのは、「伝えたいこと」が一貫していたからでしょう。物語の強度は候補作でもいちばんです。

 特定の言葉で対象をカテゴライズし、集合に押し込めて摩擦をなくそうとする現代社会を映し出したこの小説は、読者に言葉の限界を提示してきます。一方、この小説に宿された唯一無二の言葉たちが現実の希望につながっており、「ああそうだ」と気付きを与えてくれること自体に、物語としての大きな意義があるようにも感じました。
 出来栄えは間違いなく、あとは「まとまりのよさ」が選考委員の好みに合うかではないでしょうか。受賞してもおかしくないと思います。


山下紘加「あくてえ」(文藝夏季号)

 これまで幾度と芥川賞の有力候補作と目されながら候補入りを逃してきた山下さんが、満を期しての候補入り。

 小説家志望であるゆめの周囲を渦巻いているのは、立場を持つものから立場を持たない人間への、地獄のような搾取です。社会的弱者の立場を利用して我儘放題をする祖母、家主の立場から家族の弱みに付け込む父、彼氏(≒男)の立場から性欲を剥き出しにして、ゆめに迫ろうとする彼氏。対照的に母親は極度なお人好しで何の立場も持たず、それゆえに夫や義理の母から搾取をされ続けます。そして「ケア」をする側が損をする現実は、小説家を志望していてまだ立場を持たない、ゆめにも襲い掛かってきます。

 周りの人間はみんなどうしようもない。そんな人間/世界に立ち向かうため、ゆめは面と向かって何度でも悪態(あくてえ)をつきます。しかし現実は悪態をついたところでどうにもならず、この物語は最後の最後までなにも解決しません。祖母の介護も、未納の生活費も、彼氏との関係も、延々と続いていきます。

 それを象徴するのが物語のラストです。相変わらず我儘放題を言う祖母に向かって、ゆめの「目を開けろって言ってんだよ!」と言い放ちます。そこには物語を閉じずに開いたまま終わらせる覚悟と、現実をその目でみろと訴えかける、強い願いがこもっていました。「小説は終わりがあるけど現実には終わりがない」は、物語としてなんらかの〈結末〉を期待する読者をあざやかに裏切って、この先も続く地獄の日々を――紛うことなき〈現実〉を突きつけてきます。

 全体的に熱量にあふれている小説で、物語の力強さは今回の候補作でもいちばんではないでしょうか。山下さんの読みやすい文章も相まって、非常に明快でわかりやすい物語となっていました。問題はこの「わかりやすさ」が選考の場でどう転ぶかだと思います。山田詠美さんはこういう力強さを好みそうな印象です。


私の予想


 巷でも言われていますが、今回の芥川賞はわかりやすい作品が非常に多かったように思います。読者に解釈を大きく委ねさせず、テーマをストレートにぶつけてくる作品が過半数を占めており、読みやすさに関していえば今回の直木賞よりも上回っているかもしれません。
 そういう意味で、従来の「芥川賞らしさ」は薄かったのではないでしょうか。

 かといって候補作のレベルが低いわけではなく、むしろ順当な顔ぶれになっただけあって作品の完成度はいずれも高かったと思います。
 そんななかでも本命は、高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」。一年前に候補作となった「水たまりで息をする」から大きな飛躍を遂げ、今回は大本命での候補入りを果たした高瀬さんです。〈食への違和〉という着眼点の鋭さと派生するテーマの広げ方、描写を通じた心のざわつかせかたなど、今回の候補作ではいちばん熟している(よくできている)作品だったように感じます。

 次いで対抗は自社枠から年森瑛「N/A」。数多くのトピックを詰め込みながらも破綻していない構成力と、語られていないテーマを的確に言語化する鋭さには新人離れしたものがあります。描かれているテーマとしては間違いなく現代の最先端に立つ作品で、時代性の高さからも一定の評価はされそうです。

 今回はこの二作品が突出しているように感じたので、単穴予想は同時受賞にします。もし番狂わせがあるなら、上の二作品とは明らかに毛色が違う「家庭用安心坑夫」ではないでしょうか。
 いつもと違った感じのラインナップですが、時代の転換期となる芥川賞になることを楽しみにしようと思います。


本命 : 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』単独受賞
対抗 : 年森瑛『N/A』単独受賞
単穴 : 高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』、年森瑛『N/A』同時受賞

 というわけで、私の予想はこんな感じ。世評からしてもおそらく本命党ですね。
 

 芥川賞の受賞作発表は7月20日(水)です。楽しみに待ちましょう。
 それでは、ごきげんよう。

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