第二講 - イェス・ダイ,ノー・キル

この話題に入る前に、まず、死とは何か。それを考える必要があるだろう。
死とは私達にとって最も身近にあって、且つ私達とは対極にあるものだ。ある者にとってはは喉元まで迫った狂気(凶器)を叩き割らんと拳をあげることも出来ず、ただ導かれる場所である。ある者にとっては底なしの恐怖と闘うことを諦め、安住の地を求めて踏み込む場所である。詩的な表現というには些か直接的すぎる気がしないでもないが、本題でないので別にいいだろう。

1.渇望

死を求める人がいる。同じように生を求める人がいる。だが私は、自ら命を絶つことを否定しない。殊更"生きたい人がいるのに"など私の知ったことじゃない。

だが、折角ならばその前にしたいことでもする方が悔いなく浄土で安らかに過ごせるというものだ。美味い食事をし、日の下を朗らかな心持ちで歩き、そして散財でもした日の終わりには、最高の夜を過ごすのだ。

"欲とはかくあるべし"を体現するように生きたら、悩みがちっぽけに見えてくるかもしれない。それでも死にたいのならば好きにすればいい。だが人生とは、長い道のようなもので、曲がりくねって速度が出ない、深い霧に入って道すら見えない、スピードを出さないと後ろから警笛を鳴らされる、そんなものである。

しかしそれでも、もしかしたら、も少し行ったら道の駅があって、大好きなさくらんぼが売ってるかもしれないし、エンストした車を見つけて、一緒に車を押すかもしれない。古来よりヒトは、なにがあるかわからないならば冒険してきた。辛いことがあっても一縷の望みを信じて進んできた。そんなことをしてみてもいいのではないだろうか。

2 .切る、KILL、着る

それでも私は人に手をかけるのだけはやめて欲しい。理由は単純明快、その人は生きたいかもしれないから、そして犯罪だからだ。家族がいる、かもしれない。悲しむ人がいる、かもしれない。それだけだ。綺麗事に聞こえるかもしれないが、自分に意思があるかもしれないように、その人にも意思がある、かもしれないのだ。

自らの欲望によって迷惑を被る人がいるとき、それは欲望の暴走であるとも言えるのだ。そんな時は無害のヴェールを着よう。人から見られた時、自分が無害であるように装うだけでいい。君たちは善良な小市民であるべきなのだ。互いのスペースを侵さず、干渉せず、為すが儘に生きるのが吉というものでないか。

小市民というものは案外悪くない。特段目立つことも無く、"同類"のマスクを被って生きるのだ。なに、特段変わらない、個性の押しつぶされる現代社会と同じようなものさ。

いいなと思ったら応援しよう!