幸せになろうとしないのは卑怯らしい
見たことないアニメの名言で「不幸でいることは怠慢だし、幸せになろうとしないのは卑怯だよ」って言葉があるみたいで、アニメは見たことないけど良い言葉だなと思ったし、今の自分に刺さった。
とはいえじゃあ幸せってなんだろうって思ってツイッターで色々考えて珍しくそれっぽい結論も出たので残しておく。
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幸せになろうとしないのは卑怯だって考えはすごい理解できるし刺さるけどじゃあ幸せってなんだろうなっていう
不幸に縋っている状態を社会は努力と捉えないのはそりゃそうなんだけど、結婚して子供作るみたいな社会通念的な幸せばかりが幸せじゃないというか
どこに視点をおいたら良いのやら
って考えるとやっぱり視点は自分に置くべきで、社会が努力と認めるかどうかってよりは不幸に縋っている状態を自分では努力してると思ってしまっていないか?ってことのほうが重要なんだろう
物語シリーズみたいな作品の言葉が刺さってその人の価値観に影響を与えることは大いに素晴らしいことなんだけど、その名言を他罰的に振り回して他人を下に見たりするような攻撃性を披露してしまっているのは「人を見下し独り善がりで攻撃的なヤバイ奴でいる」という不幸に縋っているのでは
少なくともその人がどういう経緯で不幸で苦しんでるのかも知らないのに、印象だけで「幸せになろうとしない卑怯者」呼ばわりするような人間が幸せなわけないし、幸せになろうとする行為なわけないよねっていう
今の自分にとっての幸せはこれだっていうのはある程度認識したほうがいいのかもしれないけど、人生単位でこれだ!みたいなものはカチッと決めないほうがいいのかもしれない
変化を受け入れる余裕はあったほうが幸せになれそうだ
これが幸せだという固定観念下では選択肢を狭まってしまうし、幸せを取りこぼしてしまう
結論、自分の行動が幸せになるための行動なのかっていうのはよく考えたほうが良いなってことだな
明言を他罰的に振り回したり、他人の粗探して石投げたり、不幸に浸ってアピールして優しくされたがったり、自分を傷つけてまで自虐で笑いを取ったり、不安な人生観を札束で測ったりしても幸せにはならない
以上です。最近はコレはコレだって白黒つける事よりグレーの間を悩みながらゆらゆらすることって大事だな思ったりもした。少し肩の力が抜けた気がする。
少なくとも俺の2月末以降の幸せはモンスターハンターワイルズをやることだ!!!!
追記
あれでも、幸せになるために幸せになるであろう選択を繰り返すことはそれってただ幸せの様式をなぞってるだけでは?幸せの様式をなぞるという選択肢しかない最も不幸な状態では?
自分の意志や信念が幸せかそれともただ様式をなぞっているだけかを決めるのか?
そもそも不幸に浸るのが怠慢なのはそうとして、幸せである行動と幸せの様式をなぞっているだけの行動の違いとは
まあ幸せの様式をなぞる不幸に甘んじているのは不幸に浸る怠慢ではあるのだろう
主体的に自分が幸せになる行動を取っているか、他人から幸せだと思われるであろう行動をしているか
他人から不幸と思われないように幸せそうだと思われるであろう行動をとるのは幸せの様式をなぞっている不幸な状態か
幸せというのは自己完結すべきものなんだろうな。徹底的に自分視点で幸福を追求しないと幸せにはならない。親、友人、恋人、他人からの視点に移った途端に自分の本質的な幸せが蔑ろになる。その人たちから幸せに見えているかどうかにすり替わってしまう。
これは気をつけなくては