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[小説]「あなたの知っている「わたし」とわたしの知る「あなた」」箔塔落

 文学フリマに商業作家が出展してもいいことは知っているし、そもそも論を言うのなら、商業作家とは、ただ単に商業ルートで本を流通させたことのある書き手であるにすぎない。アマチュア作家の中には、十把ひとからげにはとうていできない野心とそれに見合う才能をもっている方々(と、あえて複数形で言おう)がいることも、なろうからの拾い上げであるコハダアオイは、知りすぎるほど知っていると言ってよい。今回、一般参加と相成ったのは、ただ単にブースの申込期限を過ぎてしまっていたからだが、むしろかえってよかったかもしれない、と思う。会場を回る時間的余裕をじゅうぶんに確保できるからだ。
 浜松町から東京モノレールに乗り換えてやってきた東京流通センターには、開場1時間前だと言うのにすでに結構な長さの待機列ができていた。最後尾についたコハダアオイは、揺れるコートのすそが前の人に当たらないように注意しながら、ポケットからスマホを取り出した。メモ帳を開くと、「う12 芒種」とある。そのブース番号は、コハダアオイが脳裏にくりかえし刻んだものと一致していたが、あたりまえといえばあたりまえのことだ。スマホをしまうことなく、コハダアオイは「エゴサ」と名付けられたフォトアルバムを開き、Xなどで入手した、人生ではじめて本屋に並んだ自身の本の感想をぼんやりとみていく。
 ふと、感想をたぐるコハダアオイの指が止まったのは、開場を告げるアナウンスが聞こえたような気がしたからである。実際、待機列は前進をはじめていた。前の人の前進に倣うと、後ろの人が自分の前進に倣う気配が感じられる。が、少し進んだところで待機列は静止した。「詰めていただきありがとうございます、まもなく、まもなく開場となります、いましばらくお待ちください」。コハダアオイはスマホを仕舞った。いましばらく、というからには、いましばらくの猶予があるのだろうが、いましばらくと題された長さを、スマホをいじることで潰すやりかたを選ぶことは、どこかあきらめに似ている気がしたのだ。そういう日常のあちこちにひそむ諦観を、コハダアオイは否定に否定をかさねて生きているわけではなく、ただなんとなく、いまこのときはそれを選びたくなかった。
 「いましばらく」は、「いましばらく」というにはやや短く感じられる時間で過ぎ、開場のアナウンスが流れ、あちこちで拍手が起きる。一歩一歩進んでいくコハダアオイの視界がやがて開ける。手首に紙のベルトを巻き、パンフレットを小脇に抱えながら、天井のライトと床の素材、もしくはそこにひとびとの熱気などというものをわざわざ加味してもいいのかもしれないが、ともかくそういうものの照り返しで不思議な明るさを保つホールにコハダアオイはいた。
 コハダアオイは、入り口ちょうど正面にあたるテーブルの短辺側面位置に貼られた、「せ」の紙を見る。左に目を走らせると「そ」、右に目を走らせると「す」だ。ということは、「う」は「す」をもっと先にいった場所にあるのだろう。「す」のもっと先へと向けて、コハダアオイの足は人込みをかきわける。
 魔が差している。
 そう思ったのは一瞬のことだ。
 「う12」と言うからには12個めの机のはず、という判断が誤りであることに気づいたのは、まさしく12個目の机についてからだ。あの、と声をかけようとしたコハダアオイは、ブースの中のちいさな幟に「う25」と書かれていることに気づく。そうか、ひとつの机に2つのブースが入っているから、「う12」はもっと手前になるのだ。「よろしければお手に取ってごらんください」と微笑みながら言う出展者に微笑み返すと、コハダアオイは踵を返す。よく見ると、机の端に出展者番号と出展者名が貼られていることに気づかされる。それをひとつずつひとつずつ遡行していく。24。23。22。21。20。19。18。17。16。15。14。13。
 12。
 コハダアオイが顔を上げると、そこにはひとりの痩せぎすな眼鏡が座っていた。ぼっち参加とXで言っていたから、この人物こそ「芒種」と名乗る人物に違いない。コハダアオイに気づいていないのかスマホをいじりつづけている痩せぎすな眼鏡は、コハダアオイより年嵩の、おそらくは男性で、コハダアオイは内心おどろかないではなかったが、どんな風貌をしていても内心おどろかないではなかっただろう、と思う。
 ――あの、
 コハダアオイが声をかけると、痩せぎすな眼鏡はぱっとスマホを膝の上に置き笑顔を浮かべた。
 ――拝見してもいいですか?
 ――はい、ご自由にお読みください。
 コハダアオイは平積みの1番うえの、「見本誌」と書かれた1冊を手に取る。いま、笑ったな、と思う。ページをめくると、市販の文庫よりも若干小さなポイント数の文字がぎちぎちの行間で詰め込まれていて、たいそう読みづらい、そう思ったときはじめて、コハダアオイの中で、「ああ、自分はこの人物に作品を中傷されたのだ」、という事実が、輪郭を獲得し、その不定形性を失った。そうして――コハダアオイのそのときの率直な感慨を述べるのなら、それはすなわちこういうものだった。なんだ、わたしの作品を中傷してきたのって、ただの人間じゃん。
 コハダアオイはゆっくりと本を閉じる。芒種はふたたびスマホをいじりはじめている。もちろん、コハダアオイを芒種のブースに向かわせたのは、怒りとか哀しみ、そういうたぐいの感情だった。けれども、もはやそういう激しい感情は、コハダアオイの中になかった。自身の中で、芒種への関心が急速に失われていくのをコハダアオイは感じる。たとえば、試し読みさせてもらった本を笑顔で戻し、「つまらないですね」と言って立ち去っていく算段もコハダアオイの中にはあったのだが、もはや、「ただの人間」相手にそういうことをする気にはなれなかった。
 コハダアオイはテーブルの、頒布物の置かれていないスペースに見本誌をたたきつけるように置く。その挙動に、ぽかんとしたように芒種が顔をあげる。コハダアオイは口角を上げ、会釈をすると、「う12」を立ち去る。コハダアオイは確かにむなしさを覚えていたが、しかしそれは決して無益なものではなかった。ならばこのむなさしは、いわば「有意義なむなしさ」と呼べるものなのだろうか。「有意義なむなしさ」を感じながら、コハダアオイは自分がほんとうに興味をそそられた本を頒布しているブースをめぐるべく、その足を少しだけ速めた。

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