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棚から一掴みで追想

週末から昨日までバタバタしていました。せっかくDAZNがまたF1やJLPGAツアーを配信するようになったので、それらを楽しむために、結果を見ないようインターネットへのアクセスを抑制していて、坂本龍一さんのニュースについては、いくぶん遅れて知ることとなりました。ご冥福をお祈りいたします。

私は昭和30年代の終わりに生まれ、来年には60歳を迎える、そんな世代にいますので、物心ついて意識的な音楽ファンになるや、まずはスタジオミュージシャン、または編曲家として、彼の名が商業音楽の世界に登場した当初から、その仕事に触れてきました。

坂本龍一さんを語るに相応しい言葉を持ち合わせておりませんので、単純に記憶を辿るに留めるつもりです。こんな風に言うと世間の反感、あるいは常識的にみて顰蹙を買うかもしれません。地理的、歴史的に俯瞰する場合の、日本人属性をもった存在として、極めて重要な文化人のひとり、とされている実情に比して、個人的には、どうしても一職業音楽家と見ることしかできません。彼の残した仕事に接する中で、自身がときめいた体験を通じてのみ偲ぶ術を知らないことをおゆるしくださいませ。

はじめはギターに夢中でしたから、注目するギタリストを軸に聴く音楽を選んでいて、鈴木茂さん方面から関心を持った"Pacific"というタイトルの企画レコードを中3の時に買っています。アルバムには細野晴臣さんの「コズミック・サーフィン」という、後のイエロー・マジック・オーケストラでも知られる曲が、ひとつだけ全く毛色の異なる楽曲として最後に収録されています。

この特異な1曲は、私の知る限りではYMOを代表するサウンドを最初に世に問うたものではなかったかと認識していますが、ファンの皆様の方がお詳しいと存じますが実際はどうなのでしょう。コンピレーションだからこそ出せたという風に感じています。

加藤和彦さんのファミリーと思っていた高橋幸宏さん、山下達郎さんのバックにいる一人としてしか、その名を知らなかった坂本さん、そして荒井由実さんのレコーディング、岡林信康さんの伴奏を務めるはっぴえんどの演奏でお気に入りだった細野さん、という布陣が揃う、と言いますか、その3人の得意とするものだけで成り立っている、非常にコアな作品だと思います。

コズミック・サーフィンは作編曲、細野さんとクレジットされますから、その後のYMOですら、私は細野さんのプロジェクトと信じたままで、細野さんのベースは上記のプレイに象徴されるカントリー、アメリカンなグルーブに魅力を強く感じていたので、その新しさにはまるでついて行けませんでした。

YMOは一般の知名度を上げ、海外で成功したバンドとして持てはやされるに至り、テクノポップの創始者であると祭り上げられることに、私自身は実情との乖離を感じずにいられませんでした。YMO楽曲群が達成し得た革新性は、それを商業的に成功させた手腕が背景にあり、時代の空気が後押しし(ジャパニーズ・アズ・ナンバー・ワンと言われていました)、どれが欠けても成立しない奇蹟の賜物だと思います。

YMOは、ですから当人達にとっても、本来の自己実現の道筋に無かった(少なくとも細野さん以外には)イベントだったろうと、端で感じていたのは偽わざる気持ちです(簡単に振り返れば、BGM、テクノデリックという傑作が出て、個人的には初めて認められる思いを得、そこから振り返って初期の作品を聴くことができるようになりましたが、この稿でYMOをメインにお話しする意図はありませんのでこれくらいに)。

ソロアーティストとして、YMO以後の記念碑と言えるのは『音楽図鑑』であったろうと思う次第ですが、こちらは非常にお気に入りで、彼女が買ったレコードをカセットテープにダビングし、しばらくはウォークマンに入れっぱなしで犬の散歩のお供でした。冒頭の曲で、私の好きな細野さんのプレイも久しぶりに聴けた気がしたのが、特に印象に残っています。『戦場のメリークリスマス』の翌年にリリースされました。

10枚目の『ハートビート』が1991年のリリースだそうです。私が聴いていた(アルバムを買った)のはここまでで、彼のソロ活動については関心が薄れていました。自分史に照らし合わせば、ベーシストとして仕事を開始した辺りの事情から「音楽を勉強する」「楽器を練習する」「仕事のクォリティを上げる」ことに邁進していて、おわかりの通り紆余曲折を経ての遅いデビューのせいで、死に物狂いであった時代に重なります。青年期とは、音楽への嗜好がだいぶ変わっていました。

さて、それでも愛し続けた坂本さんの音楽はそれ以降も失われたわけではなく、実体は編曲・プロデュースの仕事への関心であり、代表的には大貫妙子さんの作品群が、逆に坂本さんの、最も好きな側面としてクロースアップされていました。

そんな中、ご自身が起ち上げたGUTレーベルから出された1枚『スムーチイ』に収録される『愛してる、愛してない』(作詞:大貫妙子/作曲:坂本龍一)で中谷美紀さんと共演、その後レーベルのコンピレーションのために新録された同曲を聴くことになります。すぐさま中谷さんの音楽へ興味を抱き、90年代後半を通じて、坂本さんを(私自身の中で)再評価することになりました。

アメリカン・フィーリングという曲がCMで流れ、それを歌うサーカスというグループが一躍脚光を浴びた時、私は高校一年生でした。中学時代から、レコードを買い、ラジオを聴き、ギターを弾いていましたので、盤に付属するライナーノートに目を通すのは自然なことでしたが、編曲家としてその名を知るのは、それが最初だと思います。

あれから20年のうちに、商業音楽の範疇にある、ポップソングの質感がこれほどまでに変わりました。その変化量は圧倒的です。今City-popと持てはやされる70年代後半の音楽に、スタジオプレイヤーとして膨大な演奏を残される中で、能力を買われて編曲やプロデュースを担い、「売れている」筋に存在する音楽作品、語弊はありますが厳密には「商品」、の内容をこんなに大きく変えてしまった、というのが、私の見る坂本龍一さんの存在意義です。もっと乱暴に申せば、才能ある若い学生が、その得意分野で暴れ回っている間に、世の人の楽しみの姿を変革してしまったのです。2000年を超えてから現在までの時間を振り返れば、20年なんてものは、ほんの僅かな、1ミリの瞬間でしかありません。ひとりの音楽家の携わった仕事の一部を軽く振り返るだけで、驚くまでに劇的なポップミュージックの変容ぶりを知ることとなります。この一面だけで、すでにカリスマでありました。

1980年代に矢野顕子さんと共同プロデュースという形で残された彼女のアルバムからは、もっと具体的に直接的な影響を受けました。オーエスオーエスでのウィリー・ウィークス、峠のわが家でのアンソニー・ジャクソンのプレイが、音楽図鑑での細野さんとともに、今でも私の演奏の模範であり続けています。1988年の矢野さんの公演で演奏される坂本さんの姿が、直接拝見した唯一の機会となりました。



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