『いずれあなたが知る話』を観た(ネタバレがあります)
作品と商品を分ける境について、ひとつの簡単な指針は「批判」があるのが作品、ないのが商品、と言えるかもしれません。商品の制作(製作)者が「批判」を、それとわからぬように潜ませることがありますけれども。だから両者は曖昧にしか線引きできません。もしかすると主体の認識如何というところもあるけれど、私は意図される「批判」によって、それが作品であると認定したいと思っています。そして明らかにしておくことは、どちらが上であるか下であるかは無い、ということです。ですが作品とは、最近どこかで書いたように、人が生きる厳しさの中で、救われることのできる、唯一の拠り所ではないかと思っています。つくった人が、とういことですが。
Twitterのタイムラインを辿ることは、そう多くありません。ですが昨日開いた時に俳優の小原徳子さんが、自身の初脚本となる映画が翌日から公開になるとつぶやいておられ、下北沢のトリウッドのサイトを見ると、一席が残っていました。それから仕事があって、数時間を経ても、なおその席が空いたままでしたので、私を待っているのではないかと考え、チケットを購入しました。席は、最前列の右端であり、誰もここで、同じ料金で映画を見たくはないよな、という位置であり、案の定スクリーンを45度斜めから見る風なので、特に人物のプロポーションが異様に細身に見えたのが残念でした。
以下、作品の内容に触れていきますので、これからご覧になろうとされる方は、是非鑑賞後にまたご訪問ください。
物語の整合性や、因果について、知ったことかと、ただ状況と人物の行動のみが記されています。まったく、それを突っ込むことは野暮でしかないので、だから面白くないとか、面白いとか、議論するまでもないところです。
シーンが切り替わるときに、今描かれた内容に関わる、1〜2行の短い文がピー音を背景に文字のみが表示されます。それは日記であるように、日付と起きたこと、あるいは所感、つぶやきといったものでした。その語り手が誰であるか、が最初の関心でした。
巣鴨の一角に存在する5室のみの古アパートにて、一人住まいの男性、主人公の勇雄が吸っているタバコを辞めるように訴える靖子は、5歳の娘、綾と二人で住んでいます。靖子を演じるのは、脚本を書いた小原さん自身です。
この映画の良いところは、くどい説明が一切ないところであり、観客を信頼しているのがわかります。見たらわかることは台詞にない。ある晩、靖子が食事にしようと冷蔵庫を空けた瞬間に停電します。それはたぶん、電気を止められた、という事態なのでしょうが、そうであってもなくても、どうでもよいです。切実なことは既に伝わっています。
求人の冊子を見ても採用される見込みがなく、スマートフォンでは「初めての風俗」といったサイトをつい見てしまいます。電気代のことはきっかけになったようで、結局派遣型風俗店で働くことにしました。
勇雄はどうやら無職で、写真家になろうとしていることが覗われますが、隣人である母娘が気になって、色々手に付かないようです。彼は衆目を気にすることもなく、この二人をつけ回し、ソニーのカメラで撮影しては、そのプリントを部屋の壁に貼り付け、再びやりきれなさに沈みます。
勇雄は、やがて靖子の仕事に気付き、現場から出てきた客の身元までもつきとめます。そのあたりまで、文字の語り主は勇雄であると、半ば確信して見ておりました。しかし、どうもその後は怪しい。靖子だったかもしれません。
そこへ二つの事件が起きます。靖子は綾を愛して止まない反面、仕事の足かせになり苦しんでいました。留守中、室内をパンケーキの粉で汚した綾を叱責しますが、暇つぶしに書いたお絵描きを見て、子供の精神状態が危うくなっていることに気付きます。そこでいっそのこと、と一旦は手に掛けてしまいます。正気に戻った靖子ですが、日を開けず、綾は老女二人に連れ去られてしまいます。それが事件の一つ、誘拐です。
もうひとつ、風俗店の馴染みの客に、店を通さずに会おうと言われて承諾したところ、ホテルには男優と撮影セットが用意されており、その動画がAVとして販売されてしまいました。勇雄はビデオ店で、その「新作」と出会ってしまい、詐欺に遭った靖子の不遇を知ります。事件のふたつめ。
勇雄はビデオを撮った男を襲います。靖子を助けたいと思いました。靖子は、誘拐とは言え、老女に懐いて楽しげにおやつを食べる綾を、むしろ遠目に観察して安心するようになりました。自身の自由を得ることと、綾の幸福を両立できたように思えたからです。靖子をつけ回す勇雄が、そのルーティンを発見し、鉢合わせした折りに「僕はあなたを助けたい」「一人で頑張らなくていい」と、抱き寄せて訴えます。
さて、その後のことは、ここに書かないようにしましょう。勇雄に芽生えていた歪んだ愛情は、もちろん褒められたものではありませんが、彼を変えるきっかけにはなりそうな、つまり職に就き、真っ当に人生を歩む動機となり得るものでした。だから、彼が「助けたい」と言うのは、気持ちに嘘はないまでも、「助けてください」と懇願しているのと同じです。靖子にはそれがはっきりとわかっています。
あえてここに「ひとりで頑張りすぎないで」(←正確ではありませんが)と、今世間の至る所で囁かれる励ましのワードが入っており、その呼びかけがまるで無力であることが示されています。頑張らなくて良い、の発言を拒絶する、作家のひとつの批判性が明らかになりました。
作品を通じて、もうひとつ批判があるように思われたのは、優しさが安売りされていないこと。観客の、人物に対する同情も共感も拒んでいる姿勢です。徹頭徹尾、我々の情動に働きかける「好きになって欲しい」メッセージを排除しているように見えました。説明的な台詞を丁寧に取り除いているところからも伺えます。なかなか強靱な意思表示であり、この短い映画が、しっかり作り手にとって無二の「作品」であると、私は判断しました。制作者たちにとって、救いとなる価値を、絶対的に有しています。
鑑賞直後の感想は以上の通りですが、帰りの電車内で購入したパンフレットを読み、答え合わせをいたしました。監督と脚本家の対談で、私の感じたところが、概ね間違っていないようであることが確認できました。
監督、古澤健さんは、『見たものの記録』という新作を、同館にて本日同時公開しました。いずれ併せて観賞したいと思っています。昔、ポレポレ東中野で『making of LOVE』という作品を観ており、それ以来ですが、10数年が経って腕を上げられていることを実感しました。本作においても、カメラワークに特徴があり、構図を含め写真の面白みは大いに感じられるところです。アパートの壁で仕切られた狭い6畳間という空間が、ストレスで萎縮した人々の胸中を暗喩としてうまく使えており、だから台詞で説明しない、という英断の裏付けとなっています。どのようにその人物が生まれたか、という来歴も、他者の空想として幻想的に見せるのは新鮮でした。
さて、タイトルの『いずれあなたが知る話』とは、綾に物心が付き、幼少時に何があったか知る、という意味でしょうから、ここは非常に率直でわかりやすくされていて、観客への愛を感じる部分でありました。館を出るとき、小原さんへ「続きがあるように思えました」と直接伝えたのは、むろん、この物語の核は、母が娘に何を残したか、にあり、綾の物語として受け取り、想像を膨らませる必要があると思うからです。綾だけがイノセントな存在でした。
上映前の舞台挨拶で、もう少しで感極まりそうに声を震わせる小原さんが印象的でした。このたびは、初脚本作品の封切り、おめでとうございます。