なぜなのか、おしえておくれ、なぜなのか?
月曜日に、アレッサンドロ・ストラデッラのオラトリオ『洗礼者ヨハネ』を聴いた。知り合いに招待されて、ユミさんと出かけたのだが、これがすごくよかった。どこがよかったのか。備忘のため記しておく。
まずは東京文化会館の小ホールがよい。古楽器の響きが自然に増幅されて、なんだか体がぼうっとなる。始まって少しするとヨガでもしているような気分。冒頭で譜面台が落ちてドキリとしたのだが、そこはみなさん慣れてらっしゃる、みごとに収めて流れるような演奏へ。
字幕がよい。せっかく美しく響くイタリア語なのだが、さすがに初めて聞く曲の歌詞は聞き取れない。けれども適切な大きさの字幕に、適切な長さで意味を書いてもらえると、不思議なことに音と意味がすこしずつ混じり合ってゆく。だから物語を追うことができる。洗礼者ヨハネのあの有名な逸話だ。
洗礼者ヨハネの逸話としては、オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』(1893年初演)が有名だが、ぼくが思い出すのはパゾリーニの『奇跡の丘』(1964)のほう。ワイルドのそれが、あえてスキャンダラスに悪を描き出そうとするものだとすれば、パゾリーニにはもっとシンプルで寓話的な深さがある。けれど今回の驚きは、その同じ逸話に現代的な新たな意味が読み取れるように思えたこと。そこが一番よかったことかもしれない。
とりわけ、2部の最後が印象的だった。すこしテキストを追いかけてみよう。まずはカウンター・テナーが歌う洗礼者ヨハネの言葉(ぼくとしてはヨハネよりもイタリア語でジョヴァンニ・バッティスタ [Givanni Battista] のほうが馴染みがある)。死を宣告されたときに歌うアリアだ。
このアリアあるいは独白の部分、最初はわからなかったのだが、ヨハネは殺されることが喜ばしいことだと歌っている。最初の「quando mai fia che … 」は現代語にすれば「quando mai sarà che 」(いつになったら〜なのだろう)という意味で、はやくその時が来ないかという意味。ふたつのことが起きる。ひとつは「Morte del re tiranno obbediente ai cenni scocchi contro di me l’arco fatale」。もうひとつは「lo spirto dal carcere terreno libero
voli al suo Fattore in seno」。
まずはひとつめから。語順をわかりやすくしよう。「Morte obbediente ai cenni del re tiranno scocchi l’arco fatale contro di me」(暴君の合図に忠実な《死に神》が私に向かって死の矢を放つこと)。ここで動詞「scoccare 」(放つ)は接続法(scocchi)になって、話し手の意思が込められる。つまり、王によって殺される時が待ち遠しいということ。でもそれだけじゃない。肉体は殺されても霊魂は不滅だから。
そこでふたつめ。これも語順を直しておこう。「lo spirto (=spirito) voli libero dal carcere terreno libero in seno al suo Fattore」(霊魂が地上の牢獄から自由になって飛び立ち、その《製作者》〔=創造主としての神〕の内側に向かうこと)。ここでも動詞「volare」(飛ぶ)は接続法(voli)であることに注意。父なる神のもとに帰るのが待ち遠しい。だからその時は「いったいいつになったらくるのだ?」(Quando mai sarà che… ? )と歌っているのだ。
ここに続くのが「L’alma vien meno solo in pensare di vagheggiare
dell’increato Sol gli eterni rai.」。語順を少し変える。「L’alma vien meno solo in pensare di vagheggiare gli eterni rai dell’increato Sol.」(神の創造したものではない太陽〔 l'increato Sol〕の永遠の光を賞賛することができると思うだけで魂は恍惚としてしまう)。気になるのは動詞「venire meno」(気を失う、感覚をなくす、止まる、なくなる)。これはもうひとつの動詞「vagheggiare」(なにかを心地よく見つめる、賞賛する)と対応している。何を見つめ、何を賞賛しているかといえば、《創造主》(Fattore)の世界にある「太陽」(Sol[e])なのだ。
この「vagheggiare」という動詞には、あの形容詞「vago」が思い出される。ヴィスコンティに『熊座の淡い星影』(Vaghe stelle dell'orsa)というタイトルがあるが、あれは本来「淡い」ではなく「麗しき星々よ」と訳すべきもの。それは「うつろいやすく」「不確かな」ものでありながら、それゆえに「麗しく」「魅力的」なものだったはず。これが動詞「vagheggiare」となると、「自分にはよくわからず、確かなことは言えないものの、見ていると引き込まれてしまい、賞賛せざるをえない」ということになるのだろう。
そんな「vagheggiare」の目的語は天上の太陽。地上の太陽が神の被造物(creato)であるすれば、天上の太陽は神が作ったものではない。だから(increato)であり、それゆえ永遠に輝く(gli eterni rai)というわけだ。
そんなヨハネに対置されるのが、この洗礼者の死をのぞむヘロディアとその娘。ふたりが望むのはこの世の幸せ。そしてその幸せを保証してくれるのが領主ヘロデの権勢。ところが洗礼者ヨハネは、ヘレディアが領主ヨハネの異母兄弟の妻であったことを批判して、兄弟の妻を奪うことは神の法に反していると言ったのだ。これにはヘロディアも面白くない。神の掟を出されても困る。ここは地上なのだ。地上で幸せになろうとすることの、いったいどこが悪いのか。権力者の妻になることで幸せがかなおうとするとき、なぜに訳のわからない永遠の掟などを持ち出してきて、この幸せの邪魔をするのか。
かくしてヘロディアは、ヨハネこそが悪い奴なのだと娘に吹き込む。そして、娘の披露した歌と踊りの礼をやるから、欲しいものをなんなりと申せとの領主からの言葉に、母は娘に「偉そうな洗礼者の頭蓋骨」(il teschio di Battista altero)を求めさせるのだ。ヨハネの頭蓋骨を求めるとは、その首を刎ねること。残酷に思えるかもしれないが、この娘にとっては当然のこと。なにしろヨハネは、領主の民を惑わすばかりか、母親の幸せを妨げる悪人(fellone)だと教えられていたのだから。
こうして首を求めた娘は、そのヨハネに向かって言う。「Morirai!」(あんたは死ぬのよ)。そして死刑の執行人(ministri di giustizia)たちに乞う。「 Uccidetelo pur」(どうか殺してやって)。一方のヨハネは殺されることを願う。「Uccidetemi pur! 」(どうか殺してくれ)。同じ動詞「uccidere」(殺す)を繰り返しながら、その目的語が「lo」(彼を)から「mi」(私を)と変わっただけ。みごとな二重唱を引いておこう。
ここで娘は、執行人が今にも首を刎ねる刑を執行しようとするとき、首を刎ねられるヨハネにむかって歌う。「これがあなたの最後になるわ/これであなたはお終いよ」(Sarà la tua caduta)。オスカー・ワイルドなら、その残酷のスキャンダラスなまでの悪を悪として称揚するのだろう。けれどもストラデッラの娘はむしろ正義の側に立っていると信じている。だから「あなたの処刑」(la tua caduta)は「正義の人々に愛され、悪人たちから恐れられる」(dai giusti amata e dai fellon temuta)と続けるのだ。
そんな娘の言葉に、ぼくはある心理学の実験を思い出す。うろ覚えだけど、こんな話だ。男が暴力をふるわれる映像がある。なんの先入観もない被験者たちは、この映像に「残酷だ、酷い」と反応する。しかし、別の被験者たちにこう説明してみる。この男は残虐な犯罪者だ。だから罰を受ける。そうして同じ映像を見せると、誰もが「ざまあみろ、当然の報いだ、もっとやれ」と真逆の反応をしたという。
まるでヘロディアの娘ではないか。彼女は母からヨハネが悪人だと吹き込まれていたのだ。愛する人、信じる人から同じことをされたなら、今のぼくらだって同じように反応する。どんなに残虐な映像にも、それが正義なのだ。悪が罰せられたのだと言われれば、喝采を送ってしまうのではないか。正義が勝ったのだと、ある種の快感を感じることさえあるのではないか。
ヨハネは、ヘロディアの娘の言葉を繰り返す。繰り返しながら、意味をずらす。「これがわたしの最後になるさ」(Sarà la mia caduta)。しかし「amata sì, non dal mio cor temuta」と続ける。「たしかに愛されはするが、私の心が恐れることはない」。そんなヨハネに「正義の人」(i giusti)と「悪人」(i felloni)の区別はない。ただ「愛される(最後=死)」と「私の心」(il mio cor)があるだけだ。自分の最後は、愛されることになるだろう。誰に愛されるのか。神か。人々か。それは明らかではない。たぶんどちらからもだろう。だからこそ、ヨハネの心が肉体の処刑(la caduta)を恐れることはない。こうしてヨハネの最後(la caduta)は、正義の人や悪の人など地上の人々を超越したところから愛されるものになる。その受け身の主語をあえて言えば、創造者たる神になるほかない。
この二重唱の直後にヨハネは首を刎ねられる。倒れた預言者に向かって娘が高らかに歌う。そのアリアを引用しよう。
処刑の前までは未来で歌われた「お前の最後」(Sarà la tua caduta)。ここでは動詞「cadere」(落ちる)の遠過去が「Cadesti al fine」(ついに落ちたか/死んだか)と歌う。さらに順接の接続詞「そして」(e)が導く文がこれ。「nel tuo sangue intrisa la propria lingua altrui sarà palese che donna ancor sa vendicar l’offese.」。
少し整理すれば「[con] la propria lingua intrisa nel tuo sangue, sarà palese altrui che donna sa ancora vendicare l'offese」(お前がその舌を自分の血に浸していることから、他人にも明らになのは、女はなおも恥辱に復讐する術を知っているということなのだろう)となるだろうか。
刎ねられた首から出る舌とは、もちろん比喩。舌はヨハネの言葉。それが自らの血に沈んだというのは、もはや言葉を発することがかなわないということ。この娘にとって、その舌が、その言葉が、母親に恥をかかせたのだから、それは当然の報いなのだ。
たしかにヨハネの言葉は多くの人に影響を与えた。しかし今ではもうその言葉を語れない。舌とともに死んでしまった。もはやヨハネの舌が「他人 altrui」に説いて聞かせるものない。あるとすれば、その舌によって恥辱を受けたヘロディアの娘が、女でありながらも母の復讐を果たしたこと、そういうことなのだ。
だからとばかり、ヘロディアの娘が高らかに歌う。引用して日本語訳をつけてみよう。
注目したいのは最後の一文。「Sù, voglie lepide, di voi pregiasi L’alta mia fè.」。語順を整理すれば「Sù, voglie lepide, L’alta mia fè pregiasi di voi.」。呼びかけているのは「ありがたい欲望たち」(voglie lepide)。この擬人化された「欲望」(voglia)が望むのは地上での幸福であって、ヨハネの望む天上でのそれではない。そういう欲望があるからこそ地上での幸せを目指すことができる。簡単には手に入らない幸せへの道を開く。だからこそ「ありがたい」(lepido)のだろうか。
そんな欲望たちに呼びかけて「あなたがたを誇りに思う」(pregiasi [= si pregia] di voi)というときの主語は「私の深い忠心」(L'alta mia fè [fede] )だ。この「fede」は「信仰」でもあるし「貞操」でも「忠誠」でもある。ようは、なにかを信じて尽くし、裏切らないことなのだが、この娘の「fede」はいったい何に向けられたものなのか。
おそらくは、「外からやってきたお金持ち」かもしれないし「ヘロデの権勢」かもしれない。あるいは「母」のへ忠誠なのか。いずれにせよ、その根底ですべてを動かしている、「原初的」(@パゾリーニ)なものこそが、「ありがたく、優美なる lepido 」な「voglia」なのだろう。それはまさにスピノザが言うだろうところの「人間的な衝動としての欲望」であり、人間存在のコナトスに対応するものなのかもしれない。
そんな「ありがたい欲望」のおかげで、ヘロディアの娘は洗礼者ヨハネに勝利した。もはや心配事はない。これでようやく幸せになれる。そんな彼女の前に現れた領主へロディアは、まったく対照的な様子。この領主はヨハネを殺してしまった罪の意識に苛まれている。もとはといえば、異母兄弟の妻を奪ったのだ。もしかすると、領民の人望を集めるヨハネに嫉妬していたのかもしれない。ヘロデに残されたのは、自らの命で聖者を神のもとへに送ったことから来る罪の意識。
有頂天の娘と罪に苛まれる領主。そんなふたりが歌う。引用しよう。
浮かび上がってくるのは欲望と愛の対比。娘の「なんて喜び che gioìre」に対するヘロデの「なんという苦痛」(che martìre)。「満足」と対する「苦悩」(contento / tormento )。ふたつの極のはざまに広がる無主の地平のなかで、世界に比類のない瞬間が訪れる。娘が「Più felice, piu giocondo giorno il mondo non vedé.」と歌い、ヘロデが応じるところだ。
娘の言葉を整理すれば「il mondo non vedette (mai il) girono più felice, più giocondo (di questo)」であり、同様にヘロデのほうも「il mondo non vedette (mai il) girono più infelice, meno giocondo (di questo)」となる。
娘がその喜びを「世界がこれほど幸福で喜ばしい日を見たことがあっただろうか」と表現すれば、領主ヘロデはその罪意識を同じフレーズに重ねて「世界がこれほど不幸で喜ばしくない日を見たことがあっただろうか」と歌っているわけだ。
そんな唯一無二とも思われる状況を前にして、ふたりが声を揃えるのは「E perché , dimmi, e perché?」(なぜなのか、おしえてほしい、なぜなのか?)というフレーズ。
そうなのだ。ふたりは同じ状況を前にして、かたや無上の喜びにあふれ、かたや最悪の陰鬱に沈んで、ただ唖然としている。そんなふたりを前にするとき、観客であるぼくたちもまた「なぜなのか、おしえてほしい」と繰り返すことになるのではないか。
すくなくともぼくは、あの10月7日に飛び込んできたニュース以来、この言葉を繰り返してきた。目の前で起こっていることに呆然としながら、気になっていた國分さんの『スピノザ、読む人の肖像』(岩波新書)を読んでいたとき、知人がこのコンサートに誘ってくれたのだ。
そんな偶然に感謝しつつ、スピノザ(1632-1677)の同時代人ストラデッラ(1643-1682)のオラトリオのなかに、なにか新たなエティカに連なるものを見たような気がしている。