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人権を踏み躙るペッシェカーネ

まずは伊勢崎賢治さんの記事の引用から。

世界人権宣言の「人権」とは、国民の人権が侵されるという理由で、その国家に自衛権を行使する口実を与えるものではない。「自衛という名の国家の暴力」から人間を救済するのが「人権」であり、国家が自衛権の発動の口実に利用することは許されていないのだ。

『日本人の歪んだ「人権」感覚…護憲派も法曹界もその理解で大丈夫?』

ようするに「おまえらに殺されたから、おまえらを殺してやる」という復讐の理屈の前に立ちはだかるのが、世界人権宣言の「人権」という理解でよいのだろう。日本人だけの人権を守るのではない。あらゆる人間が個人として生きる人権が侵されてはならないということ。だって、これがないと「悪いやつを殺すのだから、多少の犠牲はやむ得ない」という理屈が通ってしまう。そうなると、復讐が復讐を呼ぶ。イスラムによる「無明時代」(ジャーヒリーヤ)への逆戻りだ。

こうなると、ガザのパレスチナ人殺害に対してイスラエルが持ち出す理屈が通ってしまう。それはかつて、連合軍が用いた理屈と同じ。ニュルンベルグ裁判では、ユダヤ人など9万人の虐殺の責任者として訴えられたナチスドイツ親衛隊高官のオットー・オーレンドルフを告発したのだが、オーレンドルフは連合軍だってドレスデン爆撃で女や子どもを無差別に殺したではないかと反論した。これに対して連合軍側は、ドレスデンの爆撃は「できるだけ犠牲者は少なくと願いながらの」行為であって、意図的に殺したオーレンドルフの行為とは比較にならないとして、オーレンドルフの反論を退け、絞首刑に処す。

同じ反論は、広島や長崎のファットマンとトールボーイについては言えるはずだが、これもまたドレスデン空爆正当化と同じ理屈で否定されることになるのだろう。大きな命を救うためには小さな命の犠牲はやむを得ない。しかしそれでよいのか。人は、国家の理屈で、勝利者の理屈でその命を踏み躙られてもしかたがない存在なのか。否、そう世界人権宣言は言う。

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。

世界人権宣言 第1条

「人権」という個人の権利、いかなる国家もその国家がひきおこす戦争においても、踏み躙られてはならない。そうであるはずなのだから、そうあるべきだという宣言。国家は人権を踏み躙ることができないという宣言。これはそのまま死刑の廃止にまでつながってゆくはずのもの。

とはいえ、残念ながら日本には死刑が残る。人権を踏み躙る死刑。しかし平和憲法がある。日本独自の戦争放棄がある。たとえば、イタリアの憲法も戦争を放棄している。しかしそこには相互主義が残されている。戦争放棄はあくまでも相対的なものであり、相手が攻撃をしかけてくれば、放棄にはいたらない。だから応戦としての戦争は認められる。しかし、日本の憲法にはこの相互主義がない。それは絶対的な戦争放棄であり、それゆえに人権はこれを決して踏み躙ることがない。平和憲法は絶対的に人権を守るという宣言なのだ。

すべての人間は生まれながらにして自由である。尊厳と権利において平等なのだ。どこの国に生まれようが、どんな宗教的価値のもとに育てられようが、何語を話そうが、人間としての尊厳と権利においては平等なのだ。だから、そこにいると言う理由だけで、宗教や言語や文化を理由に殺されてはならない。それだけで人を殺すような権力があれば、それは人権を侵害している。シンプルだ。力強い。わかりやすい。

ところが、そんなわかりやすい道理を屁理屈で捻じ曲げ、隠蔽し、人を殺すのは場合によっては可能だと嘯く輩がいる。武器商人が喜ぶ道を開いてほくそ笑む輩がいる。それをイタリアのカルロ・コッローディは『ピノッキオの冒険』のなかでペッシェカーネ(犬魚=サメ)として表象した。ジェッペット爺さんとピノッキオを丸呑みにしたあの怪物だ。

ぼくらはたとえこのペッシェカーネに飲み込まれても、その胃のなかで小さな火を焚き、燻して怪物を苦しめてやろうではないか。そして、いつの日か、ペッと吐き出してもらうのだ。あの自由の海で、ふたたび漕ぎ出すために。