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礼儀正しくなること

FBにこんなイタリア語が飛び込んできた。

Gli uomini non nascono civili, ma lo diventano. 

Spinoza

スピノザの名言だという。出典は調べていないし、定訳があるかどうか知らない。でもイタリア語の形容詞「civile 」(チヴィーレ)が気になった。これをそのまま直訳すれば「人は〈チヴィーレ〉に生まれるのではなく、〈チヴィーレ〉になるのだ」。

思い出すのはボーヴォワールの「人は女に生まれるのではなく、女になる」。たぶんどちらも同じ構文。ボーヴォワールがスピノザの言を借用したのだろうか。これも調べていないのでわからない。わかる人がいれば教えてほしい。

ともかくも「チヴィーレ」をどう解釈するか。しばしば「市民的な」とか「文明的な」と訳されるのだけど、語源的にはラテン語の「civis」(同じ都市に住むもの)に由来し、その反意語は「セルヴァッジョ(野蛮な)」( selvaggio )だ。

この「野蛮な」(selvaggio)は「森」(selva)に関係する言葉。森の中に自然状態で住んでいるようなものが「セルヴァッジョ」なのだとすれば、そこから抜け出して定住し、技術を開発して都市に集住し、そこでお互いにルールを作り上げて、そのルールに従って暮らすときの作法が「チヴィーレ」ということなのだろう。

これを日本語にするのはすごく難しいのだけど、ぼくとしては「礼儀正しい」と訳してみたい。そうなると、冒頭に挙げたスピノザの言葉はこう訳せるのではないだろうか。

人は礼儀正しく生まれるのではなく、礼儀正しくなるのだ

スピノザ

そもそも、生まれながら「礼儀正しい」(civile)ような人はいない。だから成長しながら学び、その「礼儀正しさ」を身につけてゆく。おそらくボーヴォワールは、そこを少し捻って、「チヴィーレ」のところの「女性」を挿入したのだ。つまり、人は成長しながら「(社会的な)女性」という「第二の性」を押しつけられるのであり、それは本来的なものではなく、後天的なものだ。だから、その非本来的なものを打ち捨てて、本来的なものからやりなおそう。そう言いたかったのだろうか。

スピノザが言うことも同じだが、言いたいことの方向が逆になっている。人は本来的に「礼儀正しい」のではなく、後天的にそうなってゆく。ここまでは同じだ。けれども、そのまま放っておけば「野蛮な」ままだから、都市で生きるための礼儀を学んで「礼儀正しく」あることを目指さなければならない。

ボーヴォワールでは「女性」は後天的に獲得される「第二の性」であり、それは批判の対象になっている。ところがスピノザの「礼儀正しさ」(civile)は後天的であるがゆえに、獲得されるべき目的として提示されている。

さらに、ポリュビオス的・ヴィーコ的に付け加えるならば、人も、人の作り出した政体も、うまくして少なからず「礼儀」を身につけ「文明」を得ることになったとしても、放っておけばやがて、その本来的な「野蛮」へと頽落あるいは回帰してしまう。

今テレビをつけてもそうだけれど、つくづく人の歴史はこの「繰り返される野蛮」に満ち満ちている。スピノザの言葉は、そんな愚かしさを思い出させてくれるものでもある。