私のための Number_i 考察 〜3人のかたち
ファンというのはシンプルに(個人やグループを)「愛する人のこと」だよね。愛というのも種類がいろいろあって、献身的であることがトレンドだったり、ときには愛故に虚しさ醜さにまみれたファンになってしまったり(もはやファンではない)、ファンであるかないかの線引きも人によって色々だと思うんですけど、
私が思う愛は、(個人やグループに対して)「理解があること」。この時点では、理解の深さ広さ・歴はあんまり重要じゃなくて、本能的に「ええやん!」と寄り添えるかどうか。人には人のキャパシティがあって、「理解できない」ものに愛着はわいてこないし、それが普通だし、そもそも「理解できない」ものに執着する(理解させろと騒ぐ)必要もない。
その愛(理解)を、自分の人生の一部として美しく「育てよう」と思えたときがファンなのかなと思う。
私は5人のKing & Princeを愛していた(5つ並んだ顔がだいすきだった)ので、2023年あたりは俺のLifeは見事キャパシティの向こう側にぶっ飛んでしまい、「理解したくない」ことのほうが多かった。「理解しよう」という気力までぶっ飛んでしまった瞬間もあったので、自分のなかでファンではない期間があったし、GOATが出たときも、
と、これまでと変わらぬ「彼らを好き」という気持ちはあれど理解するまでに至らないことがまた少し悲しくて、このときに「理解しようとするのももうしんどいのでわざわざしないけど、いずれ彼らが3人であることを理解できるようになったら幸せ(ラッキー)だな」と思ってたの。そしてその愛を育てようを思えたとき、ひとつnoteをあげて整理したいなと考えてて。
やっぱりファンでいられることってただただ、ラッキーなんだよね。自分の心地よいと感じるゾーンのなかに彼らがいてくれるのもラッキーだし、自分の好きすぎる!という感情のスピード…歩幅?についてこなかったり、逆に置いていかれたりすると気持ちは育たない訳だし。ここまでポジティブなことばかりでもネガティブなことばかりでもなく色々あって、グループ名は思い浮かばないし、Mステは出られると思っていなかったし、「最初は、グループとして何ができるかわからなかった」(CUT8月号)というなかでも、突然舞い降りた(らしい)コーチェラや、TOBEのドーム・有明という現場があって、スポンサーからのお声もたくさんかかって、アイドルらしくたくさん求められて、そこに自分たちらしく向き合っていく姿勢が本当に輝いてるなあと思いました。
お察しの通り、ここまではおおよそただの前置きです(1000字超)。そろそろ本題に入るね。
CUT8月号を読んで、3人はこの世界に存在することを、本当にまっさらなところから構築してるんだなと思った。ジャニーズ事務所に所属して、King & Princeとしてデビューして、夢・目標を追いかけてきた子たちだから、それぞれに備わっている強い武器はあるけれど、逆にいうとその武器しかない状態で、どんな編成を組めるのか。
私は6人や5人のKing & Princeは個々が「王道」なグループをつくるのに必要な要素をもったメンバーが美しいくらい完璧に揃っていて、それぞれが正統派を極めたところに海の向こう側でも認められる武器(パフォーマンス)で挑戦しようとした矢先に……まあいいけどwどうなんだろうな、彼らがやるからアイドルソングにしても、バラードにしても、HIPHOPにしても「正統派」のように見えたのかな…わからないけど。
だからもともと彼ら(個)の強みは正統派であるってところが共通点があると思うんだよね、みんなKing & Princeだから。
Number_iももちろん普通の曲(普通の曲w)もあるというか、正統派×正統派×正統派が織りなすハーモニーも変わらず得意だけど、シングルやリード、ライブのOPに持ってきている、正統派×正統派×正統派から飛び出すクレイジーさが、いまNumber_iの色になってきてると思う。「3」という時代や流行りに逆行した少数精鋭で、全員がFWとして、積んでるエンジンが違うことの面白さを、この短期間で(すでに互いのことを知っていたとしても)とても巧みに操っているように見える。3人でやったらどうなるかが彼らの音楽そのものであって、この3人だからいいんです、と言っていたのも良くわかる。メロンクリームソーダみたいなグループなんだよね。見ていて可愛いし面白いし、聞いていると耳が楽しいからだいすき。
あらためて一人ひとりをフォーカスしてみていくと、岸は歌って踊るために生まれてきたような子。芸能の育成担ってるようなスクールや事務所でああこの子はってなる声質、伸びと響き、リズムの取り方等々。伝統(正統派・王道)と、個性のバランスが最強なのもいとおかし。ピカソなのかもしれない。キャラクターがどこまでも朗らかで健やか、なわりにベラベラよく喋るような子じゃないと思ってるけど、「自分は何を授かって生まれてきたか」をよくわかっていて、人の前に立って生きる者によくある「こういうふうに生きよう」と定義づけするような様子もないし、また彼が持っているものを引き出すのは自分自身ではなく他者であることにも、ある種の(彼自身の)こだわりを感じる。自分あれができますこれができますっていうのが芸能の世界なのかもしれないけど、自分から自分を知ってもらおうとしないちょっと別の次元にいて、「あなたにこれをしてほしい」と思わせる至宝的な存在。
オリンピックやワールドカップなどの世界大会の時期がやってくると、この時代に生まれてきた平野のスター性をどうしてやろうという使命感がわいてくる。俺にわいたところでどうしようもないけれど、きっと業界人が同じ気持ちである(間違いない)。彼はアスリートのようだから、自分に備わっているものの可能性を知りたいし、課せられたものをクリアするにしても、向かうべき先へ納得しながら進みたいタイプなのでは、と思って見てる。何にトライするにしても、自分の心と身体がどう受け止めるか(正解)がよくわかっているし、余裕があるから、引き出しを開けるタイミングも自分でコントロールしているんだと思う。岸と似ているようで、まるでタイプが違うのも見どころ。自分のことだけでなくて世の中のことや、人がどう反応するかもよく見えているからとにかく優しいし、かつ人を導くこと(引き上げること)もできるヒーロー。
人って(特にアイドルって)必死で何者かになろうとしたり、逆に何かしらの運命のなかで生きなきゃいけなかったりして、それがアイドルとしての性なのかなって人生なんてそうそう爽やかなものでもないけれど、神宮寺の爽やかさを見てよ。何色にも染まれるという特別な星に生まれた人が、自らどんな道を選んでどんなふうに進んでいくのかが見れるなんて贅沢だと思う。実は本人は必死だったりときには息苦しさを感じていて、それがこちらには伝わってこないだけなのかもしれない…けど、本当に漫画みたいな人間がいたもんだ。頼もしいしかっこいい。加えて常に誰かにとっての良き理解者であること、どこまで爽やかボーイなんだと思う。たとえば誰かの理解者でありたいとしても、そうであると感じるのは相手や周囲でしかないから。
理解者であり、カメレオンのラスボス。それぞれがソロで活動していくことは考えられないというようなことを言っていたけど、ソロやコンビにはない、3人以上のグループの関係性や役割の面白さっていうのは、神宮寺のような度量の広さ、アイドルとしての器量があることでさらに香り立つのかもしれない。
平野がいたらどこまでも高く高く飛べそうだし、岸がいたらどこまでも深いところへ行けそうだし、神宮寺がいたら何者にだってなれそうだと私は思う。ぶっ飛んでったLifeが今大集合したところで、これからも彼らを理解できるところに自分はいて、末長くこの3人のパフォーマンスを楽しめたらいい。
季節は夏だ。こんな夏もあるんだなと思いながら、こそこそフェスにいく準備をすすめています。
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