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腹囲が気になる福井の旅 新田塚 燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地 19.11.25 13:31


地図的には新田義貞の墓がある称念寺の坂井市から、新田義貞戦没地新田塚がある福井市は隣同士ということになる。
ただ、地方の平成の大合併後の行政区分は広大で、隣の市と言っても目的の場所まではレンタカーで移動してもかなりの距離だなぁと思った。

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燈明寺畷の戦いで流れ矢に倒れた新田義貞を僧侶が称念寺まで運んだという話だが、その距離はなかなかのもの。追い剥ぎにも合わなかったとは新田義貞という人物が当時から思いの外愛されていたということなのだろうか?

神戸、湊川の戦いで足利高氏に破れた新田義貞は足利京都凱旋の裏で後醍醐天皇の優柔不断さもあり京都を追われ北陸方面に退いて都への復帰をかけて足利方との戦いを続けていた。
越前の藤島城にこもる足利方を攻める味方に与するため、50騎程度の手勢で藤島城に向かう途中、燈明寺畷で足利方と遭遇、乱戦の中流れ矢に当たり戦死している。そこから僧侶が担いで・・・。

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時代は思いっきり移って江戸時代になり、この地を耕していた農民が偶然兜を掘り当て芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者の目に止まり新田義貞着用のものと鑑定したことで大騒ぎ。福井藩四代目藩主松平光通が石碑を刻んで以降、新田塚と呼ばれるようになる。
明治維新後名誉回復の新田義貞は天皇の正当な継承は南朝と定められたため忠臣として持て囃される側になり、戦没地新田塚の近くに堂宇が建てられて藤島神社と号され新田塚の古戦場は大正になって国の史跡に指定される。
怒涛の名誉回復劇。藤島神社は現在福井市街へと移転したが、小さな堂宇は残された。

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鎌倉幕府を倒した新田義貞の戦没地というだけで感慨深い。
侍としての家柄の良さのためか鎌倉倒幕以降の戦いの日々。お疲れ様としか言いようがないが、よりによって流れ矢かよという印象は拭えない。
新田義貞といい、平将門といい、当時の大将が割と流れ矢がお好きらしいのは、思わず大将が先頭に立ってしまうその当時の戦い方に由来するのだろうか?

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積もるイチョウの落葉が物悲しくもある。
福井の市街地からかなり離れている場所なのに、新田塚の周りは商業地として結構栄えている。不思議なものだなぁ。

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問題なのは小さな堂宇を参拝する人が誰も居なかったということ。
観光客であるこちらとしては珍しいものだけれども、住んでいる人にとっては日常なんだろう。





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