はじまりの淡路島巡り 大阪湾を守る淡路の由良要塞 19.11.17 14:18
豊臣家が徳川幕府に滅ぼされた大阪夏の陣の後、淡路の島は徳島蜂須賀殿に加増され、17万5千石が25万7千石へとなり筆頭家老稲田氏が洲本城を本拠地とし後幕末に至る。
戦国時代、室町、鎌倉時代と時代をさかのぼっても、淡路国で大きな戦いが起こったということはなかったようだ。
四国と都を結ぶ重要な島であったことは確かだが、かと言ってこの地を取り合うような戦いはなく、あちらに降伏しこちらに降伏しと武士の時代は割と平和な過ごし方をしていたようだ。
そんな淡路島に近代化の波が押し寄せて一変する。
場所柄土地柄、淡路島は大阪湾防衛のための重要な役目を担うようになる。中曽根大勲位の意を借りればいわゆる不沈空母化だ。
距離にして数キロ。淡路島と紀伊半島の最も距離が縮まった場所。由良というところを要塞化して大阪湾を防衛する。大日本帝国の方針。
東京でいうと、横須賀の猿島、観音崎に要塞が築かれ東京湾防衛の要となった。もっとも、東京湾の場合、横須賀に海軍基地が木更津に航空隊があり首都防衛は鉄壁だったのに対して大阪の守りは今ひとつ弱い気がするのは気のせいか?
洲本城を本拠地にする以前、姫路の池田輝政の三男が領主だった頃、由良成山城に居城していた。大坂の陣以前のことで、徳川幕府の密命で播磨灘と大阪湾一体を防衛させるため。なのだそうだが、大坂の陣で豊臣家が滅んだ後は蜂須賀氏の所領となり領主は洲本に移転した。理由は交通の便が悪いから(笑)確かにそのとおり今だに車1台が通るのがやっとのような山道を越えてやってこなければならない始末だ。
江戸時代の初頭、紀州殿と挟んで大阪防御の要であった由良ではあるが、所詮は江戸時代の初頭の話。きっとのんきなものだったはずだ。
それが明治以降の近代戦ともなるとわけが違う。トーチカが掘られていて、砲台が作られ、おどろおどろしさが増していく。交通の便が悪いと徳島藩が放棄した由良はそれはそのまま秘密の基地、秘密の要塞にとっては都合がいいことに成ってしまった。
何年か前に和歌山を巡ったときに訪れた要塞の友ヶ島は、由良の対岸に位置して、挟み撃ちを行う場所だった。そんな友ヶ島の要塞も指揮系統は由良要塞中歩兵連隊の配下だったそうだ。
今もいくつかの砲台跡が残る由良要塞。
高台から海を見れば風光明媚な風景が広がるというのに。
こんな辺鄙な場所にレンガで作られた頑丈な橋頭堡は第二次世界大戦では結局航空機による爆撃戦になりなんの役にも立たないまま、終戦を迎えたそうだ(笑)
本土防衛の任についていた兵隊さんはどう思っただろう?
でも、この要塞で戦いがなかったときくとなんとなくホッとするのはなぜだろう。
石垣を巧みに配した洲本城で戦いがなかったと聞くと少しがっかりするのはなぜだろう?
武士と兵隊の違いか、刀と槍から爆弾に寄る近代兵器の破壊力の違いからなのか?
不思議と戦いがなかったことにホッとする。その思いの違いはなんだろう?
要塞群の中に出石神社がぽつねんと祀られていた。
出石の刀子という宝物が天皇の倉から消え失せ、それが淡路島に出現したという伝説が残る社。小さいながらもしっかりとした伝説が残るのは、淡路が島の始まりであるからだろうか?
古代の神話には事欠かない。歴史が脈々と息づくのも淡路島だからだろう。
いずれこの要塞跡も伝説になるのだろうか?再び使われるということは・・・流石にないだろうが。
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