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腹囲が気になる福井の旅 福井のまほろば広大な苔寺、白山平泉寺 19.11.27 10:18

腹囲が気になる福井の旅、四日目。
いきなりだけれども今日のメインの白山平泉寺。

HP的に白山平泉寺となのっているからそうしているけれどもまたの名を平泉寺白山神社(Wikipediaはこっち)で明治時代までは霊応山平泉寺という天台宗の寺院だった。明治の悪法とはいえ神社に改宗したり、名前がというか、紆余曲折風見鶏的なところがこの神社のなのか寺院の特徴だ。

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養老元年(717年)に霊峰白山への登り口として開かれた霊場であったが、南北朝の折に当初後醍醐天皇に味方をしていたはずなのに藤島荘を安堵されると北朝に寝返り。このとき藤島城に立てこもったので藤島攻めの援軍に向かう途中の新田義貞が流れ矢に倒れる。平泉寺白山神社は比叡山の末寺らしく僧兵が山ほどいて、戦国期に越前では朝倉氏と並ぶほどの兵力を有していた。が、いち早く織田信長に降伏、以後寺内の内紛が起こったり、一向一揆に敵対していた朝倉氏を匿ったりしたため一向一揆の標的になり全山焼失。福井藩の寄進などを受けるが規模は縮小した。
江戸時代には白山の管理をめぐり対立した加賀の白山比咩神社との利権を幕府が調整して、白山山頂の管理を手に入れるなどのことがあったが明治になり、神仏分離令を受けて寺院系の建物は解体され、明治5年の白山比咩神社の訴えにより、白山各山頂が白山比咩神社の所有となっり現在に至る。時の権力者に寄って行って生き延びる手法も万事休す。今となっては平泉白山神社は福井観光と言っても人々の脳裏に浮かぶことすら稀になっている。
そうそう、初日に観光した東尋坊って、平泉寺の坊主の名前。極悪坊主があの崖から突き落とされたから名前になったそうだ。じゃ坊主が落とされる前はなんて呼ばれていたのか・・・は???

いわゆるそんな平泉寺。白山信仰の寺は広大な敷地だ。何千人もの僧兵が暮らすにはこれくらいの敷地は必要なのかもしれない。
一番近い駐車場に車を止める。当然無料。
まず目に入るのは永遠に白山の山頂まで続くのではないかと思うほど長く続く石段。これを登らないといけないのかと思うと途方に暮れる。

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鳥居なんだよなぁ。山門でなく。
寺院を思わせるものはすべて壊されてしまったんだよなぁ。平泉寺なのに。

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一の鳥居をくぐったところに国の名勝玄成院庭園が。国の名勝にまでなっているのに、庭園への入院料が50円。箱に入れるシステム(笑)
50円がなくて100円入れた。二人分見なければ。

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庭園の奥も遥かに続く平泉寺。
やがて辺りは苔の絨毯に。
凄いな。苔の絨毯の規模が半端ない。
これ一つとっても歴史を感じさせられる。

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これだけ霊的であるのに、実際はここには僧兵が山ほどいて、越前では朝倉氏と肩を並べるほどの勢力を誇っていた。
僧兵の力で押さえつけるのは比叡山的ないやらしさだ。
南北朝の折には南朝方に寄したが、そのために藤島城にこもった僧兵に加勢しようとやってきた新田義貞が討ち取られる始末に。では新田義貞に恩義を感じたかというと、奥の院には楠木正成の墓が。はいはい、楠木人気がありますこと。

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そんな平泉寺だったが、結局一向一揆に巻き込まれて伽藍が消失。
本気の宗教にはかなわなかった。
今はこのまほろばのような雰囲気が残るのみ。

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福井観光もこれだけの雰囲気の場所があるんだから、もっとプッシュすればいいのに。あまり急に人が来られても、足もなければ宿泊施設もないでは困るだろうが。準備万端でどうだ!と売り出せば、この規模、この苔、人々は食いつくと思うのだけれども。
新幹線が最後のチャンスだろう。福井観光もそこで爆発しなければただの不発弾。どちらに転ぶかを他人事のように観察していよう。





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