『創世記』⑤ ――遅れて来た神々――
第五章 人倫の神々
かくして神々の導きで、“人”と“動物”は地上において体を宗としつつ栄えることとなった。
だが、“人”も“動物”は常に飢え渇いた体を抱えていた。“人”も“動物”も己の生を己で支える為、他のものの血肉を必要とした。そこには何の感情もなく、ただ己の生命を繋ぐことしか見えてはいなかった。このままではすべての生命は互いに食い合ってびてしまう、白き神々も黒き神々もその様に恐れた。何故ならそれは生と死の正しい秩序に逆らうこと、そして存在することという第一の命題にも背くことだからである。 ここに神々は集い、三度目のパンデオスが開かれた。
しかし神々は如何に爲すべきか、思案に暮れた。二十の神々は長く黙したままだったが、やがて秩序を司る至高の一神が重々しく述べた。低き枝に生まれた“動物”には適わぬことだが、高き枝に生じた“人間”には、神々の徳の一部を理解することができる、と。
ここにパンデオスは結論に至り、二十の神々は思い立ち、九の白き神々は地上を覆う九の“自然”に各々の心を映された。九の黒き神々も同じく地上を覆う九の“自然”に各々の心を映された。そして最後に、生命の女神と死の女神は生命と死とに重さを与えた。
“人”は“自然”の心と生と死の尊厳に触れ、心の内にある感情が芽生えた。これが慈しみ、優しさ、慎み、正義である。だが“人”の内に別のある感情も芽生えた。これが残酷さ、無慈悲、欲望、不正である。
至高の神々の内、眠れる神を除く神々はこれをよしとされ、ここに“人”は善と悪とを半々に含むものとなった。
“人”が善と悪とを半々に持ち、善と悪とが“人”と共に地上に満ちると、善と悪とも地上に満ちた。
やがて地上に満ちた善と悪とは、ある形をとった。これは体を成しつつも地上から生じたものではなく、いと高き枝より生じた神々の一部であった。これらのものは“人”を見えないところから支配するものとなった。
“人”はこれらのものをも“神々”と呼び、初めの神々とは別に寺院と神殿を設け、これらのものに仕える者を選び出した。
至高の三神と、いと高き枝に生じた二十の神々はこれをみそなわし、四度目のパンデオスが開かれた。総ての神々はこれをよしとされ、地上に生じた新しき“神々”を神々として認めた。かくして地上の神々は“美徳の神々”と“悪徳の神々”と呼ばれる“人”に近い“人倫の神”となった。
ここに総ての神々が揃い、創世の時代が終わった。
……ここまでが第五章の記述です。
”白銀時代”の『創世記』の特徴は、記載されている誕生の順番です。
恐らく現存する創世神話のほとんどは、造物主(神々)→生物/人類という順番で誕生していると思いますが、この『創世記』では、造物主→世界樹→神々/人類/生物→神々、という妙な順番で誕生しています。つまり人類以降に生まれた神々の存在が、この『創世記』の大きな特徴の一つ(だと思っている)です。
またこの『創世記』に通底する観念の一つに、「善悪の等価」があります。この”白銀時代”においては、善も悪も生も死も「存在」の一様態に過ぎず、「在って在ること」それが全て。なので、良いことも悪いことも、この世界に存在する以上は否定はされません。美徳・善行も、悪徳・悪行も、「在り方」の違いに過ぎないとして、それぞれを守護する神々がいます。それが、ひとの精神活動から生じた「人倫の神々」なのでした。
この”白銀時代”は、全体としてバランスを保つ、均衡の時代でもあるのです。
この第五章までは、エブリスタさまに掲載されている『創世記』と同じものです。ですが次回の第六章『聖霊秘抄』は、表に出すのが初めてとなります。
……そんな御大層なお話でもないのですが、もう少しお付き合い頂けましたら幸甚です。よろしくお願い致します。