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【1月30日開催】STUDIO SUPER CHEESE×サイバー南無南無 遺影撮影プロジェクト【ありがとうございました】

1月30日 STUDIO SUPER CHEESEにて、<STUDIO SUPER CHEESE ×サイバー南無南無> "生きる"を再認識する遺影撮影プロジェクト を開催!

たくさんのお客様にお集まりいただき、ありがとうございました! スタッフのみんなも尽力してくださって、とても素晴らしいイベントとなりました。

撮影スタジオであるSTUDIO SUPER CHEESEでは、様々なポートレートを撮る中で、遺影を撮る機会もあると聞きまして。

自分はどんな遺影を残したいか。お気に入りの写真を遺影に使いたいのか。遺影用の撮影をするとは、どういうことか。この写真だったら遺影に使ってもいいかも、と思うセレクトを準備しておくのは<終活>の一環であり、その他、例えば遺言とか、IDPWなどを記したエンディングノートとセットで用意しておいた方が良いのではないか。

などなど、遺影からさらに終活、死生観についてお客さんと語り合い、とても盛り上がった夜がありました。

同時に、仏教美術×テクノロジーアートのサイバー南無南無が人気のアーティスト河野円さんとも、ハラカドの撮影スタジオ兼角打ちという特異点にあるSTUDIO SUPER CHEESEにて、何かしたいねと、ずっとお話していまして。

この度、遺影撮影とサイバー南無南無のパフォーマンスを通し、ウェルビーイングの観点より”生きる”を再認識するイベントを開催した次第です。

当日は、いろいろなパターンの遺影を撮影。モノクロームとカラーでは全然印象が違いますね。そこに意味も生じるので、改めて深い世界だと実感しました。

イベント中頃には、浄土真宗のお坊さんがリアル読経を行うサイバー南無南無のパフォーマンスを実施。

普段は大きなカンファレンス会場やホールで迫力のプロジェクションを行っている河野さんですが、今回は小さなスタジオ空間でのパフォーマンスとあって、その密接な距離感がかえって新鮮かつ濃厚で、浄化のリアリティを醸しておりました。家での法要のような雰囲気もありました。

パフォーマンス後は、河野さんとお坊さんによる遺影、終活にまつわるトークやお客さんからの質問などで盛り上がりました。観客とフランクに話せる距離感がここでも功を奏し、そのままみんなで語り合う場そのものがウェルビーイングのコミュニティになっていて、とても多幸感がありました。

その場で、<遺影>はコミュニケーションツールであり、STUDIO SUPER CHEESEという場所で私自身がやらせてもらいたいことそのものが、撮影をコミュニケーションツールとしたコミュニティ作りですので、念願が叶ってとても嬉しかったです。

遊びに来てくださったお客さん、ご協力いただいたスタッフの皆さん、河野さん、お坊さんのもとこさん、ありがとうございました。いろいろと反省点もあるので、またアップデートして次回、できれば定期的に行っていけたら幸いです!


以下は、遺影について考えたことの備忘録。

名カメラマン、木下ロコさん

当日は、事前にスタッフが、枠・リボン付きの遺影フレームを作ってくださって、シュミレートしたところ、やはり独特の緊張感がありました。枠とリボンがつくと、急に怖い。胸を突かれて、ウッとなる。

よくよく考えてみたら、リボンもフレームも葬儀の時に付加される装飾で、写真単体をさした<遺影>の定義って、なに? 遺影以前に、普通に素敵なポートレートを撮っておこう、でよくない?

自分で自分の遺影を撮っておこう、という発想は、故人の意向が遺影のセレクトに反映されているのか、いないのか、自己決定権の話なのだと思います。両親の葬儀に際し、やはり遺影に相応しい(表情はもちろん、頭が切れていないとか、目線とか、バストアップの画角に適してるかとか、背景が合成しやすいとか)とされる写真を選ぶように葬儀屋さんに指示され、選ぶのに苦労した経験があります。

私が好きな両親の表情の写真でも、身内でもなければ写真のプロでもない葬儀屋さんの判断によって弾かれてしまったり、もとより死んでもずっと残る遺影を両親本人が「これがいい」と指定したわけではないので、本当にこの写真でいいのか、躊躇いが生じます。

遺影のみならず、戒名、葬儀の様式、お墓、遺品など、亡くなった家族の思いをできるだけ汲みたいけれども、確認は叶わないという悩ましい状態に置かれたときに、「自分の時は、自分の思いを汲んでもらえるように、また見送ってくれる人に余計な手間や心労を与えないように、準備をしておこう」という思いから終活準備に向かう方も多くいらっしゃると思います。

お亡くなりになったたまごっちの遺影

つまり終活とは、他者を思いやるための自己決定であり、遺影には、最後に笑いたいか、真顔でいたいか、姿形を失った自己のどんな姿形を覚えておいて欲しいか、自己救済の祈りも込められているのだと思います。

自分自身は、これが遺影だと意識しながら撮っていただいた時に、カメラに目線を合わせるということがとても難しかったです。正体もできない。

そもそもざっくばらんな人間ですし、極めて陽気に、ふざけて生きておりますが、自分では心をフルオープンにして人と向き合うような、あけっぴろげな性格ではないと自認しております。むしろ心の中の奥の奥に生息している本当の自分が、外に露呈することを恐れている。本当の自分を、隠している。

だから、カメラはとても怖いんです。マインドとアクセスできる優秀なカメラマンさんの場合、本当の自分を外に吸い出して、作為的に隠している私自身の目前に、「普段は取り繕っているけれど、これが本当のあなただよ」と差し出すかのごとくの写真をお撮りになるから。

そして、時に本当の自分を外に出すためにポートレートを撮っていただくのです。亀の甲羅干しのようなものです。写真は、自分と自分が直面する内省ツールであり、真の自分ないしは取り繕っている自分のペルソナを容赦なく再認識する機会となるのです。だから怖い!

そんな私だからか、遺影となった場合、表面を選ぶのか、内面を吸い出すのか、どちらの自分を残したいか、自問自答することとなります。そこで、咄嗟に、私の主観ではなくて、「みんなが客観的に見てくれている自分を撮ってほしい、かも?」と思うに至り、撮影していただいた写真がこちらです。

おい! おまえ楽しそうだな! 目つぶっちゃってんじゃん!

しかし、目線を外し、客観・傍観の視点から記録してもらう遺影というのも、自分としてはありで、目線がまっすぐバージョンよりもずっと自然体で映っている気がします。

同時に、普段の自分の主観目線はとても不自然であるという実態にも直面して気恥ずかしくなります。客観が自分の自然体って、なに?

こうした個の気づきを得ながら、みなさんと就活について、死生観について、大笑いしながら話し合う活動そのものがウェルビーイングのコミュニティとなっていて、人間の温かさを実感する夜となりました。

死は、いつなん時も私たちの胸を苦しめる逃れられない運命ですが、だからこそ大切に思いながら、心を労わって、温めて、寄り添って、生命を思いやる機会をより多く作れたら嬉しいなと思います。

次回開催する際はご案内しますので、ぜひ、笑顔で乾杯しましょう。
では、また。

書き初め

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