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【ディスフォリア考01】寄る辺なきラベルの悲嘆

 クィアとか、トランスノンバイナリーとか、トランスマスキュリンとか。自分が政治的な意図を持って選択したそれらのラベルと、自分の身体にズレを感じる。
 クィアとは寂しさを紛らわす鳴き声のようなもので、トランスノンバイナリーとはトランスジェンダーからノンバイナリーをゲートキープさせないための意図的な名乗りに過ぎなくて、トランスマスキュリンとはマスキュリンな者たちに同質性を感じたい悪あがきみたいなものだ。
 寄る辺ない。ノンバイナリーという語が周知される以前のXジェンダーやトランスジェンダーのコミュニティを知らない。レズビアンやゲイのコミュニティにも当然居場所はない。新しいノンバイナリーというラベルに縋りついた、紛い物のクィアであるというような自分に対する疑念が消えない。
 ただの田舎娘だった。誰もクィアなんて、LGBTなんて言葉を知らない田舎の子どもだった。収穫用のオレンジ色のコンテナに入った、少女たちを愛する田舎娘だった。新幹線の高架と在来線の線路に囲まれた、封建制と近代の狭間の貧しい田園の中で嵐を待っている娘だった。烏の群れとだけ情緒的な交感をできると信じていた、夢見がちな田舎の娘だった。それなのに、台風で流された菜花と一緒に土地の言葉を捨て、わずかばかりの「亜-女性」の感覚をも捨てた。都会では、田舎娘のままでいられなかった。
 祖母の孫で、母の娘だった。母系の連なりを、祖母と母の脚を、線路脇の水路に流した。娘のままでいられなかった。
 ほんとうは、鳴き声を返してくれた烏たちや、田植えのときに素足で潰した水棲生物たち、くるぶしに纏わりつく藻、裏庭の湿った地面の苔、アオサギの嘴に刺されて血を流す魚との境目が希薄な子どものままだった。
 籾殻に全身を湿疹だらけにされた日を、余震に耐えるビニールハウスの水袋を思い出す。「性別:有機物」とautismの感覚で信じながら生きている。誰にも通じない、社会的意義を持たない感覚で。
 あらゆるラベルも、変えようとしている法的な名前も、身体的なトランジションも、都市のニューロティピカルな社会の中で有効な言葉を獲得する試みに過ぎない気がする。
 ただの夢見がちな田舎娘だったことを、寂しい「亜-女性」の感覚を、祖母の孫で母の娘だったことを、動植物との交感を、なにも捨てたくなかった。それらを身のうちに飼ったまま、同質性の希求のためにトランジションすることを許したい。政治的なラベルを折々に変えながら、それでも田舎娘と連続する年増の少年でありたい。

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トランスマスキュリンの島﨑残像が性別違和について考えたこと。

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