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【ディスフォリア考03】性別:有機物の私より

 2週間前、transition をはじめた。微々たるものとはいえ確実に身体の変化を感じる。頭部がカッと熱くなるような感覚、徐々に低く掠れれていく声。現在進行形で変化する身体は、私の性別違和をむしろ強く意識せざるを得ない位置に晒した。  ここ1年半くらい、自分は agender 的な nonbinary だと漠然と考えていた。自分の gender identity が判然とはわからなかったからだ。しかし、変わっていく身体を感じる中で(そして nonbinary へ向けられる偏見や差別を目にする中で)なんとなくの、ぼんやりとした理解で名乗ることが怖くなった。
 ある日、日本語で agender について検索をかけたとき、一番上に表示された「Aジェンダー・マニフェスト(2020)」という記事を読んだ。ごく平易な言葉で、優しい語り口で綴られた文章には、次のような一節があった。

諸般の社会的理由によって、やむを得ず何らかの性別に付随する呼びかけ・ルールに従うときでも、Aジェンダーは「自分が男性だからといってどうして…」とか、「自分が女性だからといってどうして…」といった違和感を持ちません。Aジェンダーがもつことがあるのは、「どうして自分には性別が割り振られており、そのような不合理な割り振りに沿って行動を命じられなければならないのか」という違和です。

 私は自分の gender identity を名づけ間違えていた、と思った。性別に付随する呼びかけやルールに従わなければならないとき、それがどれほど理不尽な命令であっても「どうして自分には性別が割り振られており……」などとは考えないからだ。このマニフェストに照らし合わせると、私はちっとも agender ではなかった。
 そもそも gender identity って何なんだよ、と半ば怒りにも近い気持ちでインターネットを彷徨った結果、あるブログ記事にたどり着いた。その記事「Jenkins 2018, "性同一性の説明に向けて"」では Katharine Jenkins の論文が解説されていた。Jenkins が推しているという「規範への関連づけ説」についての説明を読み、「Aジェンダー・マニフェスト(2020)」が agender の説明にこの説を用いたのであろうと推測した。
 「規範への関連づけ説」は gender identity を「性についての規範のうち、どんなものが自分に関連づいていると感じるのか(内なる「地図」)」によって捉えるものだという。自分に向けられたと感じる性についての規範に対して、否定したり従わなかったりしても、その人はその性の gender identity を持っていることになる。 Jenkins 論文("Toward an Account of Gender Identity")において agender と nonbinary は「規範への関連づけ説」に照らしあわせて次のように説明される。

Sが agender という gender identity を持っている(またはSの gendar idenriry が欠如している)のは、Sには性の階級に特徴的な社会的・物質的現実をどう切り抜けるか指導する、内なる「地図」が形成されていない場合、かつその場合に限る。

対象Sが nonbinary という gender identity を持っているのは、Sの内なる「地図」が、女性という階級に特徴的な社会的・物質的現実をどう切り抜けるか、女性に分類される誰かを指導するように形成されておらず、男性という階級に特徴的な社会的・物質的現実をどう切り抜けるか、男性に分類される誰かを指導するように形成されていない場合、かつその場合に限る。

 内なる「地図」の有無という点で、agender と nonbinary は全く異なる。しかし、この差異を理解することは私には非常に難しい。
 もしも、二元論で捉えきれない性の存在が周知された社会において、非二元的な性ついての規範があったとしたら。内なる「地図」のある nonbinary は自身に関係する規範として応答できる可能性があるが、「地図」を持たない agender には適切な応答は不可能なのではないか。そして、「私が nonbinary だからといってどうして」と反論する自分が容易に浮かぶ。(また、こういった想像をすること自体が妥当ではないかもしれない、とも思っている)
 a-/allo- の考え方を、allogender という言葉を昨日はじめて知った。nonbinary が多く集まる場やSNSでのやり取りを見て、他者の語りから自身の経験との違いや共通点を考えてみると、agender spectrum 上にも私は位置していなかった。むしろ、私の gender identity はまったくの allo- だった。
 私は大きな誤解をしていた。両端を女性/男性とするX軸があり、その軸と交わるように両端を有/無とするY軸があるような図で gender identity を捉えていたからだ。その図の中でおおよそY軸上にある人が nonbinary であり、男性でも女性でもあると感じる人、どちらでも無いと感じる人がいて、後者を特に agender と称するのだと思っていた。この分布図の中で捉えれば私は agender だが、実際は男性でも女性でもない別の性の allogender だった。私の gender identity は女性/男性の軸を用いたモデルでは表現することができないものだった。
 かといって、内なる「地図」に、生まれたときに割り当てられた性を生きるための記述がまったくないかと言われれば、そうではない。20年以上信じて生きてきた性についての規範と、その性とは「逆」の性についての規範を、まったく同じように無関係なものだと感じてはいない。  Jenkins 論文にはラジオのたとえ話があった。異なる性別にまつわる規範にはそれぞれラジオ周波数があり、各人が別々のラジオを持っている。人によってラジオはひとつの周波数にだけ合わせることができたり、ツマミがあって複数の周波数にチューニングできたり、ふたつの音が同時に混ざりあって聞こえたりするらしい。
 私のラジオは周囲から見做される性の音をほんの小さく、耳を澄ませば聞こえる程度の音量で、それでも確かに流し続けていると思う。ラジオ自体が存在しないのでもなく、何も聞こえないラジオがあるわけでもない。
 allogender であり、さらに割り当てられた性への規範に関連づいていると感じる私は cisgender なのかもしれない、とも思った。でも、もしそうだとしたら、私のラジオは割り当てられた性の周波数をもっとマトモに感知するはずだ。
 私は allo- な nonbinary である。とはいえ私の性を的確に表す言葉はまだ見つかっていない。割り当てられた性への規範に少しも関連づいていないとは思えないが、男性でも女性でもない別の性を感じているし、生きようとしている。性的特徴のない身体へ transition しようとしている、という意味では neutrois かもしれない。でも、自分の性が neutral な感覚はあまりない。
 最後に、この奇怪で難解な性に限りなく近い言葉を、かつての自分が小説の中に残していたので引用したい。

本当はもっと硬くて、皮下脂肪もほとんど無い、鱗や殻で覆われたような生き物のはずだった。あるいは、発芽しない種子、冷蔵庫のにおいがついた保冷剤、ビオトープの水に浮かぶアオミドロ、誰かの睫毛。間違って人間の姿に生まれていなかったなら、神経のない生き物か生きてすらいないモノのはずだった。

島﨑残像「水葬式」(『溺水集』)より

 性別:有機物とでも言おうか。「全部お前の fetish じゃん」と言われば、「私の fetish であり性別である」と答える。「それはもはや性別ではない」と言われたら悲しいけれど「性別:有機物だって valid だ!」と言い返すだろう。
 私を表す言葉が足りない。ひと言では名乗れない。だから、説明的な名乗りをするしかない。そうやって存在を示して、なんとか生きていくしかないのだ。

(2022年のエッセイを別媒体より再掲しました)

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トランスマスキュリンの島﨑残像が性別違和について考えたこと。

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