【短編】新月の夜に





自分が幼い頃の記憶など、覚えていないほうがいい。
そう思えるのは大人として成長したからですよ、と朗らかに宣う騎士自身は、二十歳の時、とんでもない出来事を起こしたらしいので、つまりは幼い頃の記憶など瑣末な話だ、と言いたかったのかもしれない。

だが、年上を見れば将来の自分を思うように、年下を見れば、自然、思い出されるのが過去の記憶である。

その日は、庭に居たことを覚えている。

召使が自分たちの子供と談笑する姿を見かけた。元気に動き回る者もいれば、父親の服の裾を掴んで離れぬ者もおり、歩ける年齢であることから親である彼女たちは気が抜けないようだ。

「元気そうだな」

気紛れに声をかけるなと言われていたが、つい、子供に惹かれて声を掛けた。姿勢を正し、慌てて礼をする二人に断り、しゃがみこむ。

背が高いと、どれだけ目線を合わせようとも合わないので困ったものだ。

「何歳だ?」
「ほら、お答えなさい」

さっきまで元気いっぱいだったというのに、今では半身を母親の衣装に隠してしまっている。紫髪は子供の頭に沿って短く揃えられ、頬の傷がやんちゃな気性をうかがわせた。

「……5歳!」
「……そうか。あまり怪我をして、お母様を困らせぬようにな」

ぽんと頭を撫でて立ち上がり、礼を述べて廊下に戻る。待っていた騎士と従者に笑いかけ、行き先へ足を向けた。

「急ぎではないとはいえ、なんです」

痺れを切らして、光河が尋ねてくる。

「お前もあんな頃があったのかと」
「……大して変わりませんよ。幾つだろうと」

身長があまり伸びなかったことを言っているのだろうか。苦い声色が、心情を物語る。

「そういうあなたも、あんな頃がありましたよ」
「……そうだな」

日向の声に助けられて、ゆっくりと過去の記憶を紐解く。忘れられない記憶は多くあるが、忘れたくない記憶もあった。

「まだ、十年と少ししか経っていないんだな……」

しみじみと呟く頃には、足は執務室の前に辿り着いていた。



+++

「透火は普段、何をしていたんだ?」

頬の強張りが溶け、白い肌に痛々しいほどの朱が滲み始めていた。疲れがたぐり寄せる眠りを何度か乗り越え、ようやく粥を食べられるようになっても、透火はくちばしのように尖らせて口を噤んでいた。

弟の方はすっかり城に慣れ、すうすうと寝息を立てているが、なまじ育っている兄の方は今の状況をきちんと理解しているのだろう。
芝蘭だけでなく、召使一人一人の顔色を何度も伺い、静かにしている事が多い。

「……しらない」
「本は? あとは……何だろうな」

教育者とソニアと本との関わりしか記憶にない芝蘭は、問いかけながらも首を傾げる。
ソファに座ると二人とも足が浮くので、寝台に並んで座っていた。二人を誘導できる大人は召使の他に居らず、芝蘭は透火のために彼女を部屋の外で待機させている。

「紅茶は? 飲めそうか?」

湯気の立つカップを指すも、透火はふるふると首を振って自分を覆うシーツを掴み直した。
シーツの隙間から溢れる金色が、くしゃくしゃと摩擦によって絡まっている。定期的に召使が身嗜みは整えていたはずだが、子供にそれが通用するはずもない。特に透火は髪が細く、色も儚い。周りの人間との違いを気にして隠そうとするから、その度にシーツや布で擦れて絡まってしまうのだろう。

「折角の髪なのに」

頭を覆う部分だけでもシーツを落とし、手櫛で整えようとする。くん、と絡んだ髪に指が引っかかって、透火の小さな頭が傾いた。

「あ、ごめんな」

じろりと睨む顔に謝り、ちまちまと指を動かす。痛くないよう引っ張らぬように解いて、梳く。

「……いらない」

俯くと、髪が長いせいで顔色が伺えない。

「え?」
「いらない!」

思うよりも強く、鋭い力が芝蘭の手の甲を打った。ぱたぱたとシーツに染みが散って、大きな胡桃型の目から大粒の涙が溢れる。

「透火?」
「あっち!」
「お前が寝たら行くよ。どうした、なんだ?」

芝蘭が引かないことに戸惑ったようで、透火が近くにあった枕を掴み、投げつける。

「わ、っ」
「……芝蘭様?いかがなさいましたか」

音が聞こえてしまったようで、召使が扉を開けて声をかけてきた。今、彼女に手の甲の腫れを知られては困る。

「なんでもない。今はそっとして」
「はあ」

扉の閉まる音が聞こえてホッとしたところで、透火も黙っていたことに気付く。

「……っ」
「髪が、痛かった?違う?……困ったな……」

ちゃんと寝ているかを確認するためにきたのに、これでは気になって自分も眠れそうにない。

「ちょっと待っててな」

意図が伝わっているのかわからないが、掌を向けて素早く部屋の扉に向かう。

「今日、ここで寝てもいいか?」
「い、いけません。王子、騎士様も本日はお休みですのに」
「じゃあ、透火を部屋に連れて行ってもいい?」
「どうでしょう……一緒に聞きに参りましょう?」

芝蘭の頼みに悩んでいた彼女だが、瞬きもせず訴える姿に負けてくれたのだろう。
結局、三人で手を繋いで、執事の部屋まで向かうことになった。

執事は昴(透火の父)のことも透火のことも知っているようで、毛布と寝具を持って、待っていた。

「くれぐれも、夜更かしはなされませんよう」

透火の服を着替えさせ、芝蘭も一枚上着を羽織る。

「月の女神が微笑みますように」

蝋燭の火を落とされると、窓から差し込む月光しか光源がなくなった。大人がいると透火も大人しく、今は芝蘭のベッドの上で小さく丸くなっている。暗闇の中、細い月明かりを集めるように目だけが大きく開いて、じっと芝蘭の顔を見ていた。

「……あっちと、言ったから」

意図は違っていたかもしれないが、心配する気持ちが勝ったのだから仕方ない。
手をゆっくりと伸ばして、彼の目でも追えるくらいそっと、頭へ伸ばす。

「大丈夫だから」

母親がそうしてくれように何度も頭を撫でて、微笑む。瞼が徐々に下りて、ぱちりとも開かなくなったのを確認して、それから芝蘭も眠りに落ちた。
それを、一週間、いや一ヶ月以上は続けたように思う。
芝蘭が遠出をして部屋を開ける以外は共に寝るようにすることで、透火が安心するようになってきた。母親が一晩中隣で寝てくれた時、芝蘭もそうだった。数日も寝続けてはくれなかったが、二日だけでもひどく安心したのを思い出すと、母親も父親もいない透火にとって、最早芝蘭しかそれに類する人間がいないのだと思い知らされる。
弟がいる分、自分が守らなければと思うのだろうか。それでもまだ、彼はたったの四歳である。
訳も事情も知らぬ他人だが、未来(これから)を知り、守る事はできる。
昴から託されたことだ、大義として全うしてみせると幼心ながらも天に誓った。

「おやすみ」

距離が近くても、眠れるようになった。金色の髪は猫の毛のように柔らかく、頬に当たるとこそばゆい。

透火がそうであるように、自分もまた、彼によって安心を得ていたことは、この時の芝蘭は気付いてはいなかった。


2019~2020年に書いていた小噺を加筆修正しました。

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