ニジム短編「アンゼリカの秘帖」
王都ルシナキ第四区画には、天使が遊びに来る。
天使といっても、小綺麗な神の遣いなどではない。この国を築く人間に拾われた、とても人間じみた天使である。
春に三度、冬は二度。決まった訪問は刻の鐘に似て規則正しく、素っ気ない。
カランコロンと、天使だけが正しく鳴らす扉の鈴。それを合図に、牧は日頃背中で寝かしてばかりの角形頭巾を頭に被せた。
「こんにちは。茶葉と小麦と、薬草を買いに来ました」
天使が蓋布を下ろすと、軒先で落としきれなかったらしい雪がぽたりと床に落ちる。木肌の暖色に包まれた店内は息が白くならない程度には暖かく、雪が雫となるや、天使の横顔を表面に写す。
「また来たな。唾付き天使」
「あはは、相変わらずだね。マキ」
天使は苦笑を傾け、外套の釦に手をかけた。手編みらしい手袋には使い古された形跡があり、端から糸が飛び出てしまっている。以前は脚立が必要だった壁掛けに、今は片腕を伸ばすだけで手が届き、振り返った顔に少年らしい丸みは少ない。
「薬剤師からは、しばらく訓練やら実習やらで忙しいと聞いていたが?」
「そうそう、それはもう終わって。今年が最後になるかもしれないからさ、無理言ってお願いしたんだよ」
「……合格したのか」
「そりゃあ、うん」
きょとんと小動物のような表情には衒-てら-いがなく、牧の言い方に何かを察する気配もない。
心魔-こうま-では珍しい金髪金目は『神の落とし子』と称され、愛されやすい。基本色が紫や桃色など焼けた色が多いから、同種として色の薄さを羨まずにはいられず、彼のような無防備な反応が一層、心を惑わすからだろう。有り体に言えば、性質が悪い。
「雪が降っているようだが、風花-かざばな-か?」
「みたい。今年も雪が深くなりそう」
作業台越しに近況を語り合い、天使の拡げた袋からメモを拾い上げる。言いつけられたらしき品の他、綺麗な文字が三つほど箇条書きに追加されている。天使の文字だ、と思ったところで、筆跡主を容易に想像できる己に、牧は思わず碧の目を眇めた。
無垢な顔をして、天使が作業台の上に身を乗り出す。
「それ、し……王子からの追加でさ」
「言い換える意味がないぞ」
「あはは、牧だからいっかなって。ある?」
間近で見つめる黄玉は、琥珀や飴色のように柔らかでいて、月のように眩しい。瞬く度に揺れる睫毛は長く、鼻筋や肌の白さを見せつけられるようで、創造主に愚痴の一つでも垂れてやりたくなってしまう。
目深に被った頭巾の下、淡色の前髪を避けて牧は名前を読み上げた。
「竜胆-リンドウ-、矢車菊-ヤグルマギク-、蒲公英-タンポポ-。在庫があったはずだ。上着を」
「ありがとう」
作業台の下から取り出した、温室用の外套を投げてやる。
蓬-よもぎ-色のその外套には、背面に日-にち-魔法の術式が刺繍してあり、羽織った者だけ、温室全体にかけた魔法壁に干渉せず出入りできる。温室の環境を壊さぬ為にと作ったものだが、部外者の侵入も察知できるからと、重宝していた。
入り口から見て右手、作業台から見て左手に向かい、廊下を横切り扉の前に立つ。魔石を起動し扉を開くと、嗅ぎ慣れた草花の香りが鼻腔を通り過ぎた。
春にはむせ返る花の香りも、冬の始まりに合わせて今は和らぐ。感受性や魔力の高い者なら、胸の内側から浄化されるような気分を味わうことだろう。天使のように。
「相変わらず、すごいね。庭師顔負けだ」
「そうでもない」
土の地面に破顔して、軽い足取りで天使は牧の隣に並ぶ。齢は同じ頃の筈なのに、牧の方が少しばかり目線が低い。歩幅の違いを睨みながら、先へ進む。
洋菊-ポットマム-、雛菊、金魚草、菊咲栴檀草-ウィンターコスモス-、葉牡丹と、北部には珍しい色鮮やかな花壇もあれば、川緑-カワミドリ-、緑雪笹-ミドリユキザサ-など青々しい植物も並び、温室全体の色味は落ち着いている。蓬色で全身を隠す牧もまた、影のように草花に馴染む。
色差の少ないこの場所が、牧には心地が良かった。
「ねえマキ、あそこの月桂樹の葉、あとで少しもらっていい? ローリエが欲しいんだ」
そして、淡色を人型にした天使もまた、牧の目に優しく映る存在だ。外套の色も相まって、花が天使に化けたように見えなくもない。
きっと、牧の足下に咲くアンジェリカと同じ、甘く太陽の香りがするのだろう。
「手伝ったらな。摘み取るぞ」
「勿論だって」
毎年摘み取るものは変わらず、天使の手際だけが変化する。
南部の気候を参考に組んだ術式は、天井や壁面の他、花壇の煉瓦にも記されている。全ての配置を間違えることなく、半年の空白を思わせない動きで天使は難なく葉や芽を摘み取っていく。
様子を見守っていた分、牧の作業は長引いて、天使が作業を終える頃になっても籠の半分も埋まらなかった。
「採っていい?」
「ああ。私もすぐ終わる」
「ありがと」
察するとも思わないが、天使は動じることなく採取した品を牧の籠に預け、己の目的を果たしにさっと立ち去る。
弧を描く金髪を横目に、牧は迷迭香-ローズマリー-の薄い緑葉に視線を落とした。
「月桂樹の葉ってさ、料理の香り付けにいいんだって。美味しいって言ってたから、試してみたくって」
先程話にも出たローリエという名前が、その香辛料の名だろう。天使の話は唐突な上、主語も目的語も欠けているから不親切だ。だが、そのどちらも声にせずとも、牧には誰のことか理解できたし、理解できるほどには長く、天使は彼の人の話しかしてこなかった。
牧に尋ねることがあっても、せいぜい温室や芽や葉の摘み取り方程度で、彼自身のことも牧のことも深く話し合ったことは少ない。
付き合いは片手の指を折っても足りないのに、互いの事を深く知らない。店員と客だから仕方ないと分かっていても、どこか悔しく思う己がいる。
「……料理が好きか」
「作るのは楽しいかな」
だからこうして問いを投げかけてみるのだが、労が報われたことは一度も無かった。
会話の代わりに足音が挟まり、置いてきぼりにされた沈黙が草葉と共に虚しく揺れる。
天使の姿が視界から消えると、いつもの調子が戻ってくる。頼まれたものを数えて束ね、籠の中を整理していく。
全てを摘み終えるのに時間はさほど掛からなかったが、天使の姿を見失うには十分だったらしい。姿が見えない。
緑の中に埋もれた月を探して回り、温室の隅に来たところでしゃがみこむ彼を見つけた。
木の枝に根を張る植物が珍しいのだろうか。花の美麗さで有名な植物だが、天使が花の美醜を理解していることの方が驚きで、少しの間、その後ろ姿を眺めてしまう。
上背のくせに痩身の体躯は、膝を折り曲げると大層小さく見える。楽しげな様子が跳ねた毛先から伝わって、天使が幼く見えて仕方がない。王族が天使を手放さない理由を、垣間見た気分だ。
「あ、終わった?」
ふと目が合う。日差しを受けた若葉のように己の目が大きく開いた気がして、咄嗟に視線を逸らした。
「待たせたな。次に行くぞ」
「うん」
そんな風に温室を幾つか経由して、頼まれた品を用意していく。
外は冬でも、温室は春。外套の内と外で季節が異なる為に、店に戻る頃にはすっかり首筋に汗が浮かんでいた。
扉を開けると冷えた店内から吹く風が心地良く、しかし術式への負荷を配慮し、すぐに閉める。
「ごめん、少し汗かいたかも」
「構わない。どうせ乾く」
天使も汗をかくのかと、つまらない感想を抱きそうになった。
外套を受け取り、代わりに手布を渡してやる。
牧は摘んできた束を作業台に並べ、早速、数の確認と代金の計算を始めた。この時期、大量購入をする客など高がしれていて、雪が深くなればますます客足は遠退く。稼ぐべき時に稼いでおかねば、次の春まで命が保たない。一銭も、間違いは許されなかった。
全て合えば、あとは袋に入れてやるだけだ。
(迷迭香-ローズマリー-、十薬-ジュウヤク-、それに小麦と、月桂樹……)
籠にも袋にも魔法をかけてあるから、摘み取ったばかりの新鮮さを保って販売ができる。一つずつ丁寧に入れていき、別の小袋に指定の量の小麦を入れる。付け足しの品も小分けして、最後に蒲公英の花の香りを確かめ添えた。
(……最後か)
従者の試験など合格せず、このままがいいと思っていたが、現実はそうもいかない。
合格したのならば、祝福を。さらなる活躍の未来を願ってやるのが義理というもの。
天使が身支度を整えている間に、そろりと引き出しから木の実を取り出す。
店の者しか入れない、山間部の温室で採った、貴重な木の実だ。実際に木々が自生した土地を囲って作った温室で、収穫が安定しないため、どうしても物が高価になりやすい。
特定の客にしか売買できないそれを、初めての収穫だからと所持を許されたのが、その木の実だった。
音が鳴らぬよう手で包み込み、月桂樹の葉と同じ袋に忍ばせる。後で気付いた天使の顔を見れないのだけが残念だ。
「あ」
天使が前に立ったのに気付いて顔を上げる。そこからの視界の変化に、牧はついていけなかった。
指が牧の額に触れようとして、その下の鼻先に触れる。
袋の上に落ちそうになった汗の雫が天使の指を伝い、渡した布でふき取る一連の動作が流れるように行われて、最後、天使が笑った。
「牧も汗かくんだ」
つい先刻、牧が思ったものと同じ言葉を呟いて、天使が布を畳んで置く。
手のひらから溢れた木の実が、作業台の上をカラコロと音を立てて転がった。危うく落ちかけた一つを掬い上げ、天使が不思議そうにそれを見る。
「これ何? 頼んだやつ?」
「……ム、クロジの実だ」
「むくろじ」
驚きのあまりに止まった鼓動が、ばくばくと時間を取り戻すように騒ぎ出す。肩で大きく息を吸い、牧は角形頭巾を目深に引っ張った。
「無病息災を願って贈る。乾燥前に割れば消毒液に、乾燥させるなら身護りにでも使え。合格祝いだ」
「へー……ありがとう!」
領収書を用意して、紙面に記入したのと同じ金額を硬貨で預かる。これで牧と温室が無事冬を越えられる。ありがたいことだ。
だから、欲張りはしない。
「今日もありがとう。楽しかったよ」
「達者でな」
「うん。またどこかで」
袋を渡し、軒先まで天使を見送る。舗装された石造りの道路も、今や白い雪に埋もれて見る影もない。
雪の上に初めての足跡を残しながら進む、その背中を見えなくなるまで、牧は寒さに震えながらも立ち続けていた。
「おう、カイ。どうした」
別の温室から帰ってきた師匠こと店長が、野太い声で牧を呼んだ。
旧名マキネン・カイ。現在の名は、牧晦冥-マキ カイメイ-。時代の流れに従い漢字を当てはめ変わった名をきちんと呼んでくれたのは、後にも先にも天使だけだ。
角形頭巾を外し、雪と変わらぬ銀の頭部を光に晒す。
「なんでもないです。お呼びですか、師匠」
銀髪碧眼であれば宮廷薬剤師にはなれずとも、宮廷庭師になることはできた。天使の側で同僚として働くことも可能ではあった。
けれど、牧は薬剤師となる道も庭師となる道も選べず、代わりに、王族へ仕える道を捨てた。
毎日の喜びは沢山あり、今を望んだ己を牧は後悔していない。
天使とは正反対の道故に色を明かす覚悟がなかったが、天使が従者となれば、明かす機会はおろか可能性も失くなる。
(もしかしたら、なんて、どこにも無い。ただ在ったことを、喜ぼう)
踏み込んでくることも、踏み込むこともなく、ただ一定の距離を置いて交流したその事実を、牧は一生忘れることなく生きていく。なんと楽しい人生だろうか。
「小麦を仕入れた。測り分けしてくれ」
「わかりました」
有難いことにやるべきことは尽きぬほどあり、悲しむ暇もない。他愛ない日常は直ぐに押し寄せ、思い出を温める時間もわずかばかりの日々だ。
「なに笑ってんだ。いいことあったか?」
「はは、そんなところですかね。……重っ!」
「鍛えろ鍛えろ」
「……考えてみます」
後になって知ったことだが、天使の見つめていた花はラン科の一つ、胡蝶蘭。花の美しさもさることながら、彼を拾った王族の名と似ている花だ。
牧がそれに思い至ったのは、天使が従者として新しく羽ばたく春のある日のこと。
鐘の音に祈りを捧げ、壇上で凛々しく立つ天使の背中に、牧が苦笑を送ったのは言うまでもない。
「まったく、これだから天使というものは厄介だ」
それは、光が銀も金も一つ色に染め上げる、ある昼下がりのことだった。
初出 2018/1/21 「虹の向こうへ短編集」より
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