「切磋琢磨」のほんとう。│ひとり広報奮闘記#3
「切磋琢磨の正しい意味は、切するが如く磋するが如く琢するが如く磨するが如し、と読み、自分独りでひたすら磨き上げると言う意味である。」
とあるインターネットラジオ(というか「声のブログ」)を聴きながら、これは今置かれている環境にぴったりだなと思うことについてシェア。
Voicyで配信されている「サウザーラジオ 〜青雲の誓い〜」第135話で詳しい話がなされている。中国の歴史から紐解いておりとても興味深いので、気になった方はぜひ聴いてみてください。わたしは第1回配信からすべてリアルタイムで(配信当日に)拝聴している。
なお冒頭の一文はサウザー氏のTwitterから引用している。下記がそのツイートだ。ちなみに彼のTwitterも戦略的に更新されているので、情報発信を日頃のミッションに掲げている方は覗いてみてほしい。
さて本題だが、「切磋琢磨」という熟語は本来「玉(ぎょく)」などの細工品の加工過程を表したことばである。「切するが如く磋するが如く琢するが如く磨するが如し」という意味のとおり、ただひたすらに目の前の材料について精巧さを高めていく、そんなようすだ。
現代の日本では「好敵手や仲間とお互いを高めあっていくさま」を表す場面で遣われることが多い。だが由来を辿るとそこに登場する人物はじぶんひとりだけだ。
夕焼けの射し込む作業場で独り、男が槌を振るっている。キィンキィンという響きと共に男の額から汗が落ちる。男の手の中では丸みを帯びた金塊が、一振りごとに完全な球への近づいていく。
…とまぁそんな感じではなかろうか。ともかく「切磋琢磨」とは本来孤独な努力の連続を表していたらしい。
意識の大小こそあれ、わたしたちは生きている限り少しずつなにかを良くしていくものだと思っている。じぶん自身か、家族か、所属する組織か、それとももっと広い社会なのか。わたしたちの活動の根底にはそういった「なにか」をより良くしたいという思いが敷かれている。そう思う。
そのための努力はひたすらに孤独である。いや、その責務を誰かに負わせることはできない、というべきか。誰よりもまずじぶん自身が強い思いをもって「より良くする」と願わなければ、大事にしたい"それ"は一向に良くなることはない。
いちばん身近な「生活」や「仕事」だってそう。便利なモノやさまざまなサービスでありふれた現代だけれども、漫然とそのなかで暮らしていても何も変わらない。「切磋琢磨していく」という思いがなければ、生活とはゆるやかに死に向かうこと以外のなんでもないのではないか、とすら思う。
逆に言えば「切磋琢磨」の志を胸に抱けばその瞬間からすべての心構えは変わっていく。もちろんその瞬間からなにかが劇的に変わることがないということは以前にも話した。ただ、その思いが芽生えているのか、「より良くしていくこと」の本質がじぶん自身に紐付いているということを意識しているのかで大きく異なる。
わたしたちSMSCは地域で「生きづらさ」を感じる方々の"より良くありたい"と願い、切磋琢磨していく気持ちを支えています。
「今日より明日はもっと良いじぶん自身でいたい」
彼らも、わたしたち自身も、日々そう強く願い合うことで一歩ずつ前に進んでいる。そう感じます。
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平成最後の夏は「仕事旅行」に行ってみない?
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