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空白を埋めんとする試み

この、空白を埋めんとする試みについて その原動力について 私はいかなる思索も持ち合わせてなどいない これはいわばマラソン選手が無心に足を前に前に動かすのと同じこと 頭のなかは意外とかろやかなのである 脳を振ればきっと中身の減ったドロップ缶のごとくかろんかろんと音が鳴るであろう 別に、どうということも無くて。何をしたいわけでもなくて、ただ私は、これ以上「何もしない」ということから逃げずにいるわけにはいかないのだった。真っ白な紙を真っ黒に塗りつぶしても、結局は無地なのだから絶対値は同じなのかもしれない。けれど、その黒、の、点の一つ一つが文字ならば、隣の黒い点と連なって言葉になるならば、そしてそれがいつかやがて文章になるならば、その真っ黒な紙にはとんでもない価値が眠っているやもしれぬ。むつかしいことは考えないが吉である。格好つけてむつかしいことにばかり頭を捻ってみようだなんて、そんなことをしたところで私の頭が捨てる前のい・ろ・は・すのペットボトルのようにくしゃくしゃに縮こまってしまうだけで、ちっとも得など無いのである。目、から飛び込んで来る言葉を脊髄で受信する。脳なんて介さなくったって良いのだ。なぜ文章がすべからく意味を持たなくてはならない?落書きというと必ず小さな絵を思い浮かべるのはどうしてだ?言葉だって、文章だって、もっとでたらめで良いじゃないか。ただ、耳心地の良い、目心地の良い、触り心地の良い、etc…なんだってとにかく、「心地の好さ」、それだけを頼りに筆を動かしたって、誰も怒りはしないんじゃあないの。授業中にペンを回すような感覚で、その勢いで、ペン先から言葉を撒き散らしてしまえ。帰り道のけん、けん、ぱ、の跡に気に入った言葉を置いていけ。意味なんて全部後からついてくれば良いのだから。むしろテキトーでも置けば置いただけ後から意味が生えてくるのだとしたら、それはもう置けるだけ置いた方がなんだかお得なんじゃないかい。ああでも、と、一瞬鈍る。そうやって、何も考えずに、本当に空っぽの、無味乾燥の、心地好さの欠片も無い言葉を、何の気も無しに落としていく輩がいるから、そうしてその空っぽで無い同然の言葉、に、ただ目に見える形態になってしまっただけの、言葉未満のソレにも、意味が生まれてしまうから、そんな、本当ならいらないはずの意味で世界は溺れてしまいそうになっているのかもしれないね。意味が生まれてくるだけの土壌を、私の言葉には常に保たせていたい。空っぽの箱で海がいっぱいになってしまうことに耐えられない。全てに中身がぎっしり詰まっていたら、きっと海の深いところまで沈んで行って、それぞれの場所で漂うはずだわ。水面はもう、意味の無い、箱ばかりで、息ができないよ。そう、実は私は、えら呼吸ができるのだ。足が遅かったり、歌声が長く続かなかったり、肺呼吸があんまり得意じゃないのは多分そのせいだ。どうだろう、わからないけど。肺呼吸も、えら呼吸も、どちらもできるから、中途半端なのかしら。早く、早く海に潜ってしまいたい。でも、地上の緑も、空に浮かぶ星も、私は愛してしまっているから。苦しい肺呼吸をそれでも手放したくなかった。ずっと、どこにいても浅い呼吸でこのまま行くのだろうか。関係ないけど、今日は文字が青みがかって見えるな。ああ、埋め尽くしたら、紙は真っ黒ではなくて、海になるのかな。それは、素敵かもしれないと思った。箱になんて入れる必要が無いのかしら…。でも、あいつらの言葉は確かにマイクロプラスチックみたいなものね。私は、海に溶けていられる言葉でありたいな。言葉としての誇りを持った、言葉でありたいな。笑われたって、言葉でありたいな。世界中のどこにいても、言葉だって、堂々としていられるような、言葉でありたいな。確かな言葉でありたいな。消えない言葉が、良いな。どこかに刻まれるのも良いし、世界の中に溶け込んで、混ざって、ずっと揺蕩うのも良いな。少しずつ文字が黒く見えてきてしまって、少し興醒めた。お腹が空いているせい?頭が痛いせい。1枚がちょうど良いのかもしれない。こうやって、繰り返していたら、私の言葉はいつか、海に還るのかもしれない。何を言ってるんだ。ああ、そういうことね。ははぁん。しばらくテキトーに物を書いていると、何か、意味を書こうとしてしまうんだね。それで、本来の目的だったテキトーができなくなってしまうんだ。厄介だ、あーあ。意味づけは今やること無いよ。パソコンの充電が100%になった。もうそろそろやめにしようか。本当はもっとここにいたいのよ。でも、長湯すると手がふやけてしまうから。自分の輪郭、の、プチぼやけ。浸かるのは良いことだけど、一度にたくさん浸かれば良いってものじゃない。だから、今日はもう上がるよ。きっと、またそう遠くないうちに、きっと。

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