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「風」2024春の好きな句【 #風のネプリ 】

風の2019年いつき組の先輩方がネプリを発行されました。
期間内にDLはしていたのですが、なかなか落ち着いた時間が取れず…。やっと読めました。

いつき組を知った時「風の2019年いつき組」と名乗る先輩たち&先輩たちの俳句がとても格好よく、憧れて、今もその憧れは続いています。
(と書くと「2020年は!?」と言われそうですが、20年組の先輩達が「月組」を名乗り始めたタイミングがたまたまもう少し後だった為ですからね!)

私は2021年に俳句を始めた星組なので風組の先輩達は2年上にあたるのですが、2023年を迎えた時「句歴2年目になるという事は…私が憧れた当時の風組の先輩と一緒って事!?」と大変衝撃を受けツイートをしたら、いかちゃんが励ましのリプライをくれたのを覚えています。(基本的には「10年単位は全部誤差」と思っているのですが、ふと振り返ると驚きですよね。)

今の私から数歩先の未来を行く風の先輩たち。
憧れであり、励みであり。





重ね着の裏が表ぞそのまま着る  藤田ゆきまち

子供の頃はよくあったと思う。あれ?タグが出てるよ?それ裏と表が逆じゃない?と母や先生、友達に直されたり、友達を指摘して直したりなどしていた。
子供の頃は正しい方へ直していたが、大人になって久しぶりに間違えてしまった時「まあいいか」と思い、直さずに一日を過ごした事を思い出した。

恥ずかしいなあ…とは思ったが、案外他人とは他人を見ないものだ。(と思うのは東京だからだろうか…)
世界という群像の一部に、裏が表の私がいる。それだけの事。

ただ、友達や恋人に指摘されるとちょっと恥ずかしい。
「逆じゃない?」と言われた瞬間、広い世界の群像の一部から、ぽつんと私へ戻っていく。

でも、やっぱり直すの面倒くさい!
まあ大丈夫だよ、誰も見ないし。友達や恋人は私の事をよく知っているので、重ね着の一枚二枚、裏が表になっていても笑って受け入れてくれる。

大丈夫、大丈夫。きみ以外誰も気付いてないし。気付かなかった事にしておいてよ。
なんて、笑いながら歩き出すのだ。


創生の神のごとくに練る納豆  藤 雪陽

「創生の神」という超常的な存在から始まるので、何事かと思っていたら納豆を練る句だった。
このおかしみが好きな人はきっと沢山いるだろう。私もその一人だ。

このギャップを楽しんだ後、もしかしたら「創生の神」も私たちが納豆を練るくらい簡単なノリでこの世界を作ったのではなかろうか…と考えた。

たとえば日本神話のイザナギは、黄泉の穢を落とす為の禊で神を生むなどしたらしい。同列に括るな!と怒られそうだが、私が温泉に入っても神が生まれた事はもちろん一度も無い。

でも、イザナギは禊で神を生んだのだ。

だから世界の何処かに納豆を練る創造神が存在していても全く不思議ではないと私は思う。

創造神は世界や神や人などを生む時なにを考えたのだろうか…。

私は納豆を練る時、右へ10と左へ10を数えている。
もしかしたら神もそうなのかも…なんて、納豆を混ぜながら今夜考えてしまいそうだ。


山茶花や重力といふ躾糸  磐田 小

一年前、私は「重力」を使った椿の句を作ったのだが、その上でこの句は素晴らしいなと感じた。

椿と山茶花の見分け方についてお花屋さんで働いている組員さんへ尋ねた事があるのだが、やはり落ち方・散り方で区別するのが確実だという。品種による多少の違いはあるが基本的に椿は首からぽとり。そして花びらを散らすのが山茶花という。

「重力といふ躾糸」が解けて、はらはらと散る山茶花を想像した。
さっきまで散らずに山茶花のかたちを保っていたのは、躾糸のお陰だったのねと崩れていく姿を見ながら思う事の、なんと詩的。

そういう重力に対する繊細さが山茶花と椿の違いのひとつなのかもしれない、などと考えた。

ところで、重力は山茶花や椿に限られているものではなく、私たち人間にも等しくあるはずだ。

私にも「重力といふ躾糸」が存在するならば、それらが解けた時の私はどのような結末を迎えるのだろうか…。


凍星と右眼引つ張り合つてゐる  詠頃

今回のネプリには「わたしのイチオシ」というコーナーがあり、メンバーそれぞれがそれぞれの好きな句を一句ずつ選んでいる。なんとこの句は全員が選んでいた。私も選んでから気が付いた。

私は凍星から目が離せない事を「引つ張り合つてゐる」と感じたのだろうと思ったのだが、ゆきまちさんはそれを痛覚と捉えられていて、素敵な読みによってこの句の世界が更に広がっていく心地がした。

凍星に見とれて、目が離せない。離せないままずっと凍星を見つめていると、自分の右眼も凍て始める…。寒さで目が痛い。いや、凍星が私の右眼を捉えて、離さずに引っ張っているから痛いのかも。

うん、良い。地球と凍星の交信のような。

誰であったか忘れてしまったのだが「俳句は読みによって生かされる」ような言葉を聞いた事がある。改めて、今回のネプリで実感した。


芋虫をつまみひと節づつ剥がす  いかちゃん

一目、ぎょっとした。
「感動」というと多くの人は美しいものや綺麗なものを想像すると思うのだが、私は「心が動いた」のなら、それは「感動」の一種であると思っている。

芋虫のアレを「ひと節づつ剥がす」想像をした。ヒッとした…。
が、考えてみれば子供時代には近い事があったかもしれない。

例えばミミズの巣と思われる穴に枝を挿してみたり、蟻の巣を塞いでみたり。団子虫を捕まえて筆箱で飼ってみたら団子虫の子供が生まれ、教室が騒ぎになった事もあったか。

無邪気とは同時に残酷、残忍であると大人になって振り返ると思う。
しかし当時の私は子供で、無邪気であった為に「邪気」とはなんであるかの区別もついていなかったのだ。

さすがに今の私はもう、筆箱で団子虫を飼うことは出来ない。
「子供心を忘れずに」とはよく聞くが、子供心とは何だろうか。


右脚より入れ十代を終ふる布団  はんばぁぐ

十代最後の日、私は何をしていたのだろうか。もう思い出せない。
当時の私は大学生で、俳句と出会う前だった。絵を描いていた。ああ多分、レタリングの授業が退屈すぎて大学をサボる事を覚え始めたくらいであったか。

そんな感じだったので、右脚と左脚のどちらから布団に入って眠ったのかなぞ覚えていない。何なら昨晩どちらから入ったかも覚えていない。

でも、はんばぁぐさんは「右脚より」と覚えて(はっきりと意識して)十代の夜を布団で終えたのだ。ささやかだが、生活を丁寧に生きようと思う繊細な視点が何よりも美しい。

右脚より入れ、二十代最初の脚はどちらから新しい朝を迎えたのだろうか。
どうかその脚の行く未来が明るくありますように。

無理はせず。これからも自分と自分の生活を見つめ続け紡ぎ続けて欲しいと願う。




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