「祈りと火」より感銘を受けた二句【 #祈りと火 】
いつも「好きな句」と言って感想を書くのですが「祈りと火」は簡単に「好き」と言うのは難しく…この感情は…何…?と思ったので「感銘を受けた」という言葉を選んでみました。
コンビニのネットプリントは便利だけど、私のような人間(すぐ気が散って忘れる)はコンビニに寄ることを期限までに達成する事が大変困難。
PDFをお願いしたら1分も経たずに送って頂いた火尖さん、ありがとうございます…!その行動力を見習いたい…と思ったのと、迅速なご対応への感謝も込め、読んだその日にnoteを書く事にしました。
句の前に、「祈りと火」
星野いのりさんと西川火尖さんの「祈りと火」、俳句について語る前にまずタイトルが素晴らしすぎる。お二人の名前からそれぞれ「いのり」「火」と付けられている。
(この後まじめな事ばかり書くと思うので今のうちにおちゃらけておくと、初めてタイトルを目にした時に「なんだかプリキュアみたいでかっこいい!」と思った事をわざわざ書いてみる。)
PDFが届いて、読んでみて吃驚。火尖さんは「祈り」の句を、いのりさんは「火」の句を(連作を)それぞれ作られている。
本当に素晴らしいので是非読んでみてほしい。
胸の雪払ひ祈りを真似てをり 西川火尖
私たちはどうやって「祈り」を覚えたのだろうか。
いや、私は生まれてから今まで正しく「祈り」を行えた事があったのだろうか。
たとえば、神社へ行ったら手を合わせる。これは「祈り」だと思う。
その前に、鳥居へ一礼をしたり手水で清めたりをして、真ん中は神様が通る道だからと端のほうを歩いたりもする。
けれど私はどうやってそれらを覚えたのだろう。
たぶん誰かから教えてもらったり、テレビや本で知ったから行っているはずだ。決められている方法…何となく決まっている方法?
いつの間に「祈り」とはこういう形になったのだろうか。
例のひとつに、キリスト教には「主の祈り」という祈祷文がある。
イエス・キリストが「こう祈りなさい」と与えた「主の祈り」が、現在もキリスト教のほぼすべての宗派で唱えられている。
おそらく他の宗教でも、最初に「こう祈ると良い」とした人(または神)がいて、人々がそれを真似、真似た人を新たな人が真似、それが何百年も続いていったものが現在の「祈り」として残り続けているのかもしれない。
この句は「祈り」を真似ているが、そもそも「祈り」そのものが「祈り」の真似であると考えてみると、果たして「祈り」とは何なのだろうか。
今日の私には答えが出せないが「胸の雪払ひ」という、眼の前の「祈り」を尊重する行動。もしかしたらこれこそが「祈り」を「祈り」とする行為なのかもしれない…と、今日の私は結論付けてみる。
凍空の虐殺百万回再生 星野いのり
「火」の入っている句を取り上げるか迷ったが、私の心が1番動いたのはこの句だった。
俳句は縦書きがセオリー。この句も当然(noteでは横書きだが)上から下へ、はしごを下りるように読んでいく。
まず「凍空の虐殺」が見えてくる。凍りつくような寒い空と虐殺。悲惨な光景だ。そこに「百万」と続く。これは人数かもしれない…と一瞬考えてから「百万回」だったと気付く。一度ではなく何度も、百万回も虐殺が繰り返されたというのか。なんてことだ。こんな事が許されて良いのか…と動揺しつつ、一番下まで文字を追うと「再生」の二文字が見えてくる。
「百万回」とは「再生」の事だったのか。それに気が付いて、私はほっとした。
ほっとしてしまったのだ。
安堵した自分に気が付いて、私は激しく動揺した。
確かに「凍空の虐殺」は動画の話ではあるが「凍空の虐殺」がフィクションであるとは誰も言ってはいないのだ。それなのに、ああ、眼の前で起きている光景でなくて良かった…と、ちらと安堵した自分がいたのだ。
眼の前では無いが実際に何処かで起きていて、カメラを回して投稿した誰かが存在しているからこそ「凍空の虐殺」の動画が目の前にあるというのに。
そして同じように再生をしている人間が(「百万回」なので)百万人弱いたのかもしれない。この百万人は「凍空の虐殺」を見て何を考えたのだろうか。悲しむ人もいるかもしれないし、何も思わない人もいるかもしれない。
ただ事実として「百万回再生」という数字と「凍空の虐殺」が目の前にある。
増えていく数字に、作中主体は何を思うのだろうか。