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走ルせぇるすまん

タクシーの運転手さんというのは、実に多種多様な人材の集まりだ。若者が少なく、比較的ジェネレーションギャップを煮詰めたおじさまが多いのは当然として、会社に対する思いであるとか、今の働き方に対する気持ちだとかが、本当に人によりけりだ(以前書いたように、お客相手に愚痴をこぼす人、持論展開マンな人、一方的に悪人扱いする人もいるし)。

体感的には、マイナスな気持ちを持っている運転手さんのほうが多い。職業がタクシーの運転手さんであるだけで根はサラリーマンなのだから、ある種、当然と言えば当然だろう。

ただそれでも、まれに愛社精神を持ち合わせる運転手さんもいる。今日は、それはそれは鮮やかに、自社の魅力を売り込んでいき、見事に私をそのタクシー会社のファンにしていった方のことを書いてみようと思う。

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その日は急いでいた。
このあたりで評判の、なかなか予約が取れないクリニックに初めて行く日だったからだ。

Googleマップ先生いわく、そのクリニックまでは徒歩で約30分。それ以外の行き方は、最寄駅といいつつ全然最寄りじゃない駅までどうにか行って歩くか、同じく最寄りのバス停と言うには憚られるバス停で下りて歩くか、今からマイカーを調達して走るか、だった。

この中で現実的な手段としては、徒歩しかない。30分か、ちょっと遠いけどまあいいか。そう思って、とりあえず余裕を持って診療開始時刻の1時間後ぐらいの時間で受診のWeb予約をした。

その時点で先約が20人ぐらいいたし(診療時間前にもかかわらず)、1人10分の診療だとしてもしばらくかかりそうだから歩いても問題なかろう、と高をくくっていたのである。歩くのは好きだし。

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ところがどっこい、家を出る直前に予約状況を改めて確認してみると、予想以上に呼び出しのスピードが速い。「げっ、もう次の次のその次の、また次ぐらいに呼ばれちまうじゃないの!」

嘘だろ?
今から出ても……
たとえ競歩の選手ばりにシャカシャカと歩いても絶対に間に合わない。
徒歩で30分だぞ。

だがしかし、行ける日は今日しかない。
絶対に間に合いたい。

走るか?
いやだ、ありえない。
私の運動のできなさ、体力の無さ、怠惰な性分を舐めるな。

予定外だが、タクシーアプリを立ち上げて配車依頼。すぐに拾えた。文明に感謝だ。

そしてタクシーが到着、車内へ乗り込む。ワタワタした様子が顔に出ていたのか、乗ってすぐに「お急ぎですか」と聞かれる。テンパった私は「あ、ちょっと急いでます!」などと答える。残念ながら、ちょっとどころではない。大いに急いでいる。なぜこんな時にもカッコつけてしまうのか。

しかし幸運にも、彼の運転は素晴らしかった。なめらかにスピードアップし、スイスイと車線変更をして、どんどん目的地に近づいていく。よかった、これなら間に合いそうだ。

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そして1つめの信号で停車したとき、彼が不意に何かを手渡してきた。ウエットティッシュのパックだ。それも、パッケージにはタクシー会社の名前入り。

「つまらないものですが、よろしければ」

ああ、いやはや、これはご丁寧に。てか、久しぶりに聞いたなそのフレーズ。ありがたく受け取ったそのウエットティッシュには、社名の他にもう1つ言葉が書き添えてあった。

"迎車無料!"

はて、と思った刹那、彼がまた口を開く。

「うちの会社、タクシーアプリでも迎車料金をいただいていないんです」

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ご存じの方も多いと思うが、流しのタクシーを拾うのと、こちらから呼びつけて来てもらうときとでは、料金が異なることがほとんどだ。後者の場合は「迎車料金」が発生し、通常の運賃にいくらか上乗せされる。

迎車料金の相場は地域によって異なるだろうが、私が住んでいるエリアでは200円ぐらい、東京だと300円~400円が相場だと思う。メーター料金に上乗せしたところでさしたる金額でもないし、何より自分のために来てもらうのだから、特にその点は気にならない。「へえ~」と受け流したが、話には続きがあった。

「迎車料金って、タクシー会社ごとに全然違うんですよ。知ってましたか?見てください、これ」

そう言って、今度は彼自身のスマートフォンを手渡してきた。画面には、私が普段使っていて、今日も使ったタクシーアプリ……の、設定画面。そしてそこには、ずらりとタクシー会社の名前と、各社の迎車料金が並んでいる。

指紋や皮脂やらでちょっとばっちい画面に一瞬ひるみ、なるべく指を付ける面積を小さくしてスクロールしてみた。言われるままに迎車料金に目をやると、なんと本当に全く料金が違うではないか! 「無料」もあれば、「220円」といった具体的な金額が書かれているものもある。

彼がまた口を開く。

「でね、このボタンを押すと、タクシー会社のお気に入り登録みたいなのができるんですよ。そうすると、配車依頼したときにその会社のタクシーだけ拾えるようになるんです」

知らなかった。いや、本当に知らなかった。タクシーアプリの設定画面の存在すらも知らなかった。「え~っ、私ィ、タクシーよく乗りまっせ?」みたいな顔をしていたのが恥ずかしくなった。

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迎車料金が0円なのは、見せてもらった画面の中ではほんの2~3社しかなかったと思う。そして今乗っているタクシーは、比較的この地域ではよく走っていて、アプリを使っても使わなくても拾いやすい会社の1つだった。

そしてようやく、彼が発した言葉のありがたみを理解した。なるほど、迎車無料か。

「迎えに来てもらうのだから、迎車料金などさしたる問題ではない」と心の内でのたまった己の手の平をくるりと返し、今乗っているタクシーの会社をお気に入り登録した。こちとら週1ペースでタクシーに乗る人間だ。安いに越したことはない。人に迷惑をかけない限り、手の平なんて返してナンボだ。

信号が青になり、再びタクシーは快走する。そして、受診時間の5分ほど前に、お目当てのクリニックに到着した。もろもろのお礼を伝えて下車した。

かくして私はその彼と、彼が勤めるタクシー会社のファンになった。そしてその社名は、今でも私のタクシーアプリのお気に入り登録欄に輝いている。

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慌てて行ったクリニックはどうだったか?間に合ったし、満足のいく問診もしていただけた。ただ結局相談した症状については「原因不明、とりあえず患部には触るな」という結果だった。

今度はさすがに歩いて帰った。あちこちのクリニックに行って解決しなくて、藁にもすがる思いで行ったのにこのオチかあ、という少々やるせない気持ちを和らげる目的で。


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