Someday(創作小説)
僕は東京に住む大学2年生。上京してきて2年経ったけど、未だに東京の人の多さには驚く。地元では毎朝友達と駅で待ち合わせをして悠々と電車に乗って通学していたのに、今では突っ立っていたら怒られるし電車は人でぎゅうぎゅうだ。どうやら人の多さは心の狭さにも比例するらしい。
そんな僕は現在、とある喫茶店でバイトをしている。その喫茶店は大通りから外れて狭い道を入ったところにあり、僕にとっては日頃の喧騒から解放される唯一の場所だ。静かだし、70年代を彷彿とさせるレトロな内装が僕の心をくすぐる。
僕がその喫茶店をバイト先に選んだのには、もう一つ大きな理由がある。それは店長が作る珈琲だ。僕は珈琲に目がない。2年前、受験勉強中に寝ないようにカフェインをとろうとして飲み始めたのだが、すっかり夢中になってしまった。長期休暇になるとお金を貯めて全国各地の珈琲を飲みに行くくらいにはハマっている。もちろん実家にも今住んでいる家にもミルやドリッパーなどの道具が揃っているし、日々おいしい珈琲を入れるために研究している。それでもやはりプロが作る珈琲には敵わない。経験値が違うのだ。そして僕はここ東京で、人生で最高だと思える珈琲に出会った。それがこの喫茶店の店長が作る珈琲だ。時間、温度、道具…全てにおいて完璧。パーフェクト。文句のつけようがない。その店長の技を盗むべく、僕はバイトに申し込んだのだった。(店長の珈琲がたくさん飲めるという邪な気持ちもあったけど)
僕がバイトを始めて半年が経った。珈琲の淹れ方はまだ完全にはマスターできてないけど、接客はなかなか様になってきたと思う。常連さんの顔も覚えたし共通の話題で盛り上がることもあり、毎日楽しい日々を過ごしている。
今日は火曜日。毎週火曜日の13〜15時までの間は店長が珈琲豆を買いに行くため、店には僕1人になる。僕はその時間がとても好きだ。平日のなんともいえない生ぬるい空気も、脳を経由することなく過ぎていくテレビの音も、遠くからこちらに近づいてくる愛しいあの人のくすんだ青色のかばんも。
彼女のことが気になり出したのはバイトを始めてすぐのことだった。毎週火曜日、仕事の合間に休憩でこの喫茶店に立ち寄るお客さん。バイトの初日、僕が始めて対応したお客さんが彼女だった。そのときは店長も一緒だったけど、僕は店長から話しかけられても上の空で、彼女のことをぼーっと眺めていた。完全に一目惚れってやつだ。低めの位置で束ねられた黒髪は、彼女が頼むブレンドコーヒーのように美しく、甘い香りがした。シンプルなコーディネートも薄めのメイクも彼女の美しさを引き立てる。彼女は四葉のクローバーのような、なんというか“ささやかな奇跡”のような美しさだった。
彼女は扉のベルを鳴らしながら店に入り、カウンターの左から2番目_いつもの席に座る。僕は
「いらっしゃいませ。いつものでいいですか?」と声をかける。彼女はにっこりと微笑んで頷く。その動作ひとつひとつが愛らしくて、僕の心をかき乱す___。
今日だって、そのようなくすぐったくて幸せな時間を過ごすつもりだった。しかし僕は気づいてしまった、彼女の右手の薬指にある指輪を。
右手の薬指ってどういうことだ?左手だったら結婚をしていることを表す。だが右手は聞いたことがない。きっと大丈夫だ、おしゃれでつけているに違いない、と考えてみたけどそれでも動揺は収まらない。彼女が今まで指輪をつけてきたことはなかった。珈琲豆を挽く手がぶれる。彼女に直接聞くのが1番手っ取り早く正確だが、そんなことができていたら今ここまで動揺することにはなっていないはずだ。知りたいが知りたくない。そんな葛藤する僕のことは気にせず、彼女の目はずっとテレビジョンの方に向いている。真昼の討論番組を真剣に観る彼女の大きな目はエスプレッソのように深く澄んでいた。
あぁ、だめだ。動揺していたら珈琲も美味しくなくなる。そんなの迷信だとか言われるかもしれないけど、本当に珈琲には作った人の気持ちがこもるのだ。真剣に珈琲と向き合って本当においしい珈琲が生まれる。今の僕が作る珈琲だと僕の心と同じように雑味が混じってしまう。まずい、彼女が待ってる。どうしよう。
「店員さーん!あの…まだ時間かかりますか?」
「あっ、すみません……ちょっと珈琲作るの失敗しちゃって。このままだと味が少し違う感じになるんですけど、もしお時間よろしければ作り直してもいいですか?」
「うーん、休憩時間も残り少ないし、私はそこまで気にしないので大丈夫ですよ!いつもと違う味…ちょっと気になるし!それにしても失敗だなんて珍しいですね〜悩み事とか!?」
「あ〜あはは……寝不足、ですかね?」
言えない。貴方のことで頭がいっぱいで作るの失敗しましたとか絶対に言えない。
僕は彼女に嘘をついて必死に平静を装った。彼女は嘘に気づいているのかいないのか、また再び討論番組を見出した。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです。ほんと、あの、おいしくなかったら言ってください。お金は払い戻しますんで。」
「ありがとうございます。本当に大丈夫ですから!………………わぁ〜、言われてみると、なんだかいつもよりちょっとだけ酸味と苦味が強い気がします。ビターな、でも酸っぱい大人になりかけの味って感じ。豆変えたんですか?それとも挽き方を変えたとか?」
「……ちょっといつもよりも細かめに挽いたんです。それでその挽き方が初めてだったから緊張しちゃって。」
「そうなんですね!大丈夫ですよ、とってもおいしいです。」
彼女との会話が弾んでいるし、彼女に褒められたことが嬉しくて、僕は一歩踏み出したくなった。「そういえば、その右手のゆび………」
ヴィー ヴィー ヴィー
彼女の携帯がなる。タイミングの悪いやつめ。
「ちょっとすみません。」
と彼女は携帯をもって外に出てしまった。僕の目の前には、まだ湯気のたつ珈琲があった。
彼女が電話をしに出ている間、やっぱり電話があって良かったと僕は思っていた。深くまで入り込んで今の心地よい関係が崩れてしまったら…それだけは嫌だ。
彼女が電話から戻ってきた。珈琲の湯気は消えている。
「すみません会社からの電話で…さっきの話ってなんでしたっけ?」
「僕も忘れちゃいました。………あっ、それより最近この辺に野良猫が来るんですよ!野良なのに人懐っこくて……えーっと…あったあった、こんな子です。」
「かわいい〜!靴下履いてるみたい!」
「でしょ?今、名前を募集してて_____」
なんて、たわいのない話をして、またこの生ぬるい空気に浸るのだ。それでもいい。彼女に恋人がいようが、好きな人がいようが、火曜日のこの時間だけは2人の時間。僕が彼女のことを独り占めできる時間。それだけは譲らない。
僕の本心に気づかれないように細かく挽いてドリップする。そうやってまた彼女を迎え入れる。これはいったい、白昼夢だろうか。
fin.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?