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(根津神社考参考資料)武州豊島郡駒込村古来伝聞記

  根津神社考の執筆に当たって参考にした資料を掲載する。
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【武州豊島郡駒込村古来伝聞記】
 
 原典見当たらず。東京市史稿 市街篇第十八に掲載されていたものを転記。
 本文で触れられなかった部分(最後の正徳2年の件)も掲載。 

東京市史稿 市街篇第十八

 根津社古伝説
 抑今いふ駒込と申す所、そのかみはいるさ山とて林也。此はやし乃うち根津大権現乃宮立ある所を、素盞烏(イルサ)の森といゝしと也。むかしやまとたけのミこと此林へ駒をあつめ給ひ、木々に繋せられしに、みこと御覧ありて、駒こミたりとみことのりありしより、いるさ山をあらためて駒込林といゝけるが、末に至り此所を田に耕し畠にくさきりて、人々の住ところとなせしより、駒込村と名つけゝる。今駒込の名あるところは、皆いるさ山の跡なり。やまとたけのみこと其ころいるさ乃森に鷺むらがりやどれるを御覧なりてみことのり給ふ。

 鉾刄止草示 (ムサシノニ) 素盞烏乃杜乃(イルサノモリノ)將鷺(サギナラン)獨者不寐與(ヒトリハイネジト)競示鳧(アラソイニケリ)

 是はやまとたけのみことはしひめと申す御かたをこひしのばせ給ひて、斯みことのりありしと申伝へたるなり。
 いるさの森根津大権現乃御社御神躰は、素盞烏の尊にて、御本地は十一面観世音菩薩と崇め奉る。いつ頃の勧請といふ事をしらず。素盞烏乃尊根乃国より皇祚延長国豊民安を守らんと此土へ現れ給へば、根乃神と申すこゝろにて根津権現と崇め奉るなりと申伝へ侍る。又素盞烏山と申すは、根津乃宮林にてあるへし。素盞鳥山と書ける故なりと申つたへたる。昔太田道灌入道持資といふ人、此林に入て、船板乃ために楠乃大木を尋ね得給ひて、杣人を入て伐せ給ふに、怪我あやまちし、氣を失ふもの多かりけれとも、何乃こゝろもなく大勢の人夫を懸て、終日伐せられけるに、其夜のうちに木の切口もとの如くに愈合て、あとは小疵も見へさりけり。道灌是を見給ひ、不思議におぼし召、神木たるべきむねを察し給ひ、林の中を尋ねらるゝに、荒たる社あり。まひ殿(舞殿)と見へしは、土民乃馬繫場となり、馬糞山乃如く積もり、道灌是ぞと奥にいたり、社壇の前に蹲踞再拝し給ひ、神慮をなだめ奉られ、御宮造営し給ふべき御祈願ありて、か乃神木を乞うけ給ひ、しかうして後にくだん乃楠を伐られけるに、何の障りもなく伐おゝせ、船を作らせ給ふとなり。其楠乃切口差渡し二間に余りけると申つたふ。
 太田持資入道道灌このとき右の祈願感就して、御宮造営し給ふなり。今千駄木といふところもこの林のうちにて、御薪山に成りしよりの名也と云へり。此造営乃後百九拾余歳を経て、萬治の頃、根津の社地御手洗ともに、太田備中守道顕入道殿御下屋鋪乃内に入、其代地三崎といふ所へ行道の坂の下口左りの方野道の右角へ出し、此ところへ御宮を移し奉る。このところそののち又本郷麟祥院隠居所に成りし故、則その鄰へ代地出て、御遷宮ありし也。しかるに其頃備中守殿御やしきへ社地を入、御手洗を泉水に用ひ、御やしき(ろ?)の跡へ遊山所を建給ひしに、不思議やたちまち火燃出て焼失ひたり。そのうへ道顕殿ふしぎ乃霊夢の告有しかば、驚きおそれて、か乃宮地の跡へ元のごとく根津のやしろを建給ふ。その社今に絶ずあり。其霊夢の様は、子孫までたゝるへしとの御事也と、申つたへしなり。
 右の所替のときまで、御社に別當といふ事もなかりしに、駒込村きりひらきたる百姓乃中に、青木六右衛門行安禅門、古老のものなれば世話して每年二月ごとに赤飯やう乃ものを調へ、神前に備へ奉り、参詣乃氏子に戴かするを以て祭りとしたりたるが、御宮所替あるべき年乃五月五日、節句の事なれば、いつもの如く氏神参りすべしとて、岡田五郎兵衛、野口次郎左衛門、山下八左衛門、青木六右衛門うち連、御やしろへ参詣せしに、皆々何とやらんものすごくさむ気だちありけるが、たゝ涼しきにてそとおもひ社壇を見れば、白き小蛇、いづこより来るともなく御宮乃雁木乃うへにわだかまり、外へ頭を向、屢々舌を出し居たり。皆々是を見るとひとしく、身乃気たち、何處ともなくおそろしくなりしかは、奇異乃おもひをなし急いで帰りぬ。道すがら申せしは、倩々おもふにに、湯殿山立山等乃山々嶽々にても、奧の院のことは秘して人に語らず、然るに今拝み奉るは真しく御神霊にて坐るべし、しからば我等ことき乃賤しきものども乃不浄乃口を以てとり沙汰すべき事にあるべからず、おして穢し奉らば如何なる御とがめにもあづからん事計りがたし、必ず口外に出す事なかれと戒しめ、堅く申合せける。六右衛門申すやう、御神霊の現ハれまします事は外乃ことにてあるべからず。我等俗人不浄の身を以て御供など備へ、兎角聢と(しかと)したる別當のなきゆへ、御神霊あらハれさせ給ふと思ひ合されたり。此うへは別當を附しかるべし、されば山臥と申ても不浄乃ものなればよき出家をたのむべしと申合せ、目のあたりにこは本郷四丁目薬師別當昌泉院然るべからんとて、同しき十五日に六右衛門参りて昌泉院に対面し、右乃次第を頼ミけるに、よろこび請ひ給ふにより、則来る二十一日に御社へ御出あるべしと申合せて帰りぬ。さて皆々へ申すやう、二十一日には件んの御神霊拝みたる様子別當殿へ申明し然るべからん、一つには別當の義なり、二つには宮つとめ麁略なきためなればなり、夫につき皆々十九日より二十一日まで垢離精進すべしといゝ合、程なく二十一日になりしかば、昌泉院清英法印御社へ来られけるあいだ、皆ゝ待うけ一礼もおハり、其うへにて御神霊を拝み奉りし事皆一同に申演しところに、清英聞給ひ、大きに感心して、深く貴敬の色見へし。さてハ色々神前を荘厳し、修法勤経丹誠をぬきんで給ひ、別當になり給ふ。
 右ハ寛文年中根津御社御縁起あまれたるときに、青木六右衛門行安居士、則別當清英法印たづね給ふにより、古来乃聞伝え申演たる趣きなり。

 別當清英乃のたまハく、我別當になりつるうへは、神霊を拝まれさせ給へと、誠情を抽んで祈しかは、神霊白き小蛇と現し、宮の柱をからみ拝まれさせ給ふにより、我ことばを發して霊験貴き事疑ひなし、猶々衆生のねがひをかなへ、愛民納受をたれたまへ鳴呼尊し々々、本居に帰居ましませと、感の余りに眼を閉ければ、その間にいづくともうせ給ひしとなり。

 又曰、伊賀伊勢乃大守藤堂和泉守高久殿、一とせ九死一生乃病悩にて異癘以乃外にて、諸々の名医その術を失ひしに依て、清英法印へ御祈祷の験を御頼ありける間、清英一つ乃意願発し異癘本復し給ハゝ、則高久殿氏子になし、大般若経六百巻おさめ奉るべし、此願望成就すべくんば、神霊をあらハし給へと丹心に祈りければ、はたして神霊を拝し、高久殿御病気たちまちに平復す。是によつて根津へ祈願のおもむきを述たれば、高久殿仰せには奉納乃義はいふに及ばず、氏子乃事我壹人に限るべあらず、江戸屋敷并に在国乃家臣残らす氏子たるべしと御約束ありて、一チ々々御願満給ふと也。

 根津所替のとき御神體ならびに三社乃御本地仏以上四つ乃厨子に入、駒込片町年寄役の者共別當昌泉院のもとへ、もり行奉り、此序をもつて拝み奉る。

 根津大権現御神體素盞烏尊(割書・麻の類の切にて幾重もつゝみ、苧のやうなるものにて巻付てあり。)
 根津御本地仏十一面観音菩薩(割書・御長九寸、彩色はげ本地なり。定朝の御作、輪光後に鏡あり、周雲のほり物。)
 左脇山王大権現御本地薬師如来(割書・御長五寸五分、座像、蓮華作り付、定朝の御作、輪光さいしきはげ白くなる。)
 右脇八幡大菩薩御本地阿彌陀如来(割書・御丈八寸、立像、箔惠心の御作。)

 右の通りおがみ奉る。殊乃外古びそこねまします故に、再興すべきむね申あハせ、遂に六七年をすきて再興し奉る。おそれ多きによりて御身には手をつけ申さす、後光臺坐并ニ御厨子はかりを修補し奉り、則厨子の御戸びらに年寄役のものども銘々の名をしるす。終りに、寛文三癸卯年二月吉日再興清英代と書記せり。このとき清英縁起を記し給ふ。

 明暦年中御やしろ御遷座ありし年、六右衛門行安清英法印へ申すやう、御神いさめ乃ためには、神楽を奏し湯花を献し然るべからん、今よりのちの御神㕝は、所の者どもより御神楽御湯花を献し奉るべしとて、則行安禪門神田明神の社家乃内月岡五左衛門に対面して、神楽湯立の事をたのミしに、太夫と申巫一人ならびに社人五人を連来、我身ともには七人にて、根津の舞殿におゐて十二座のかぐらを奏し、御湯立を献したてまつる。是より每年春ことにおこたる事なく、清英より四代目乃御別當昌宥雄の御代寳永三戌の二月まで相つとめしが、御造営に就き内所にて致しかたしと御別當のたまふ故やミぬ。御庭まつりとて、氏子を催ふし、御神㕝つとめたる事も、右御湯立乃はじめ、毎年駒込片町乃ものどものみつとめたりしが、寶永三戌年御宮御造営ありし明る亥の九月二十一日、駒込片町の外の氏子もまつりを出したり。是より以後隔年にする也。
 元禄十六年末に甲府様に従り御宮造営あり。同く九月五日に御遷座有しなり。これは御歳四十二乃御厄除御祈祷乃御為なりと風聞ありし也。
 同く九月中別當宥雄仰せらるるは、今度御供所建申すにつき、少く台所のやうなる事をも付申たきよし御ねがひありしにつき、名主八左衛門・年寄六右衛門・次郎左衛門・三右(左?)衛門・利兵衛・勘兵衛申あハせ御手伝いたし、是を造る。則宥雄の御師匠皎月院こ乃ところに住居給ふ。
 同年九月根津御社御神體素盞尊乃御厨子白木乃御宮殿、
 右高サ一尺、前幅六寸、奧行四寸、但し正面ニ鏡あり。此うしろへ三寸ほどのきはふ(?)作り、てふつがひハさうかな物金めつきなり。ゑび錠。
 根津御本地十一面観音の御厨子後光臺座。
 山王御本地薬師如来の御厨子後光臺座。
 八幡御本地阿弥陀如来の御厨子後光臺座。
 右御厨子、各来迎柱組物ぬきを入レ、ほりも乃金箔さいしき、上中下八さうかなもの打、ゑび錠ともに。
 右乃通り修補し奉り、則御厨子戸びらの裏に、
 武州江府豊島郡駒込惣鎮守  根津大権現御神體
                山下八左衛門
                青木六右衛門 印
                野口次郞左衛門
             施主 岡田三左衛門
                奧田利兵衛
                岡田(岡本?)権兵衛
 元禄十六年辛未歲九月昌泉院宥雄代
 前之再興者寛文三癸卯清英代
 右御厨子ノ筆者武州ノ二字ハ青木六右衛門書之。二三年以来手震ヒ候ニ付、残る文字ハ岡田三左衛門書之。
 三社御本地佛之御厨子扉裏書付同前各記之。
 右岡本権兵衛儀、此ノ度何角働キ致シ、其上金一両出シ、皎月院ヲ以テ施主入リノ願ヒ有之ニ付、右ノ通リ加入ス。

 寶永元申歳甲府様被為成御養君、同十二月五日西之御丸へ被為成入御候。同二年乙酉四月御宮御造営之儀被仰出、社地之儀、若君様元御殿跡へ被仰付、御普請惣御奉行若御老中稲垣対馬守様承之由。是によりて同く二十八日に御祝儀として、
 御神酒柳樽一荷。
 御初尾青銅一貫文。
 右八左衛門・六右衛門・次郎左衛門・三左衛門・利兵衛・勘兵衛、御供所へ持参、すなハち皎月院まて是を上る。
 御普請御手伝浅野土佐守様、又藤堂備前守様、又御門前町屋に成り候所地形築立、毛利飛騨守様、同く五月朔日御釿始、同三日御鍬始、同三年戌ノ十一月晦日御棟上、同十二月三日の子の刻御遷宮。
 右五月三日御上棟の時、地鎮乃御祈祷あり、大般若教転読、則ち御経を社地の隅へ埋む。
 寶永三戌年根津五百石被仰付、伊奈半左衛門様御代官所武州足立郡飯塚村極月田村彌兵衞新田上新田高六百三拾石、内三拾石は込高也。右御知行高被仰渡は五百石ニて、如此六百三拾石之御帳面、伊奈半左衛門様より別當宥雄に渡る。其節宥雄より御願有しハ、年貢取立之様子当分不知案内ニ候当年は其元御役人衆へ被仰付、御心入を以御取立被下候得之由申上らる。(割書・是ハ六右衛門其先年伊奈半左衛門殿二相勸候二付、様子御聞被成度由ニて、被相招御対談申候二依テ也。)願之旨、尤之由ニ付、則其所之百姓共半右衛門様に被召呼、御吟味之上、又右之高に御加入七百石之高五百石之積りニ收可申旨被仰付、則右之場所相渡り候由也。
 同年十一月昌泉院宥雄當戌二二十歲にして若年なれハ、右御宮之御別當之格式権僧正之昇進成り難きによつて、東叡山より別當上させらるゝ旨被仰付、則富士別當本郷四丁目心光寺住寺ニ被仰付、同月二十一日東叡山御院家之よし住心院権僧正於御城、右別當ニ被仰付候よし。同二十三日に移徙あり、二十七日ニ御宮請取有りと也。
 同十二月十五日に名主年寄共御祝儀之目錄上、如左。
 奉献 
 御最華靑鳬二十眼
  駒込片町名主 山下八左衞門御
  年寄青木六右衛門
  同 野口次郞左衛門
  同 岡田三左衛門
  同 奧田利兵衛
    岡本権兵衛
 当御社御氏子地駒込片町ニ、拙者共儀代々住居仕候。依之乍恐前廉御宮御正礼二御宮殿三社御本地仏御厨子等、拙者共先祖之者奉寄附、最御再興之儀、拙者共代々奉修補指上、其外御庭祭礼等迄、古来無怠慢動来候者共而御座候。乍恐此度御造営之御儀ニ付、目録之通奉献候。
 右之通持参、御院代セイシヤウ院へ懸御目罷り帰る。
 右目録之内に岡本権兵衛を加る事ハ、再興之施主たるによつてなり。山下勘兵衛ハ施主にて無之といへども、年寄仲間なるゆへ加之。


※以下は、東京市史稿の別ページに掲載されている。どの部分にこの文章が入るのかは不明だが、宝永3年から6年後(正徳2年(1712年))の内容。
 根津権現の祭礼が天下祭りとして開催されるに先立ち、代官から、根津権現の裏門から本郷までの地図を求められ、提出している様子を示す。
 「先祖代々祀ってきた」ってまた言ってる(笑)


正徳二壬辰六月十六日に、山王の御格式に御祭礼の義被仰付候よし。
同く十七日、当所の御代官清野與右衛門様より被仰渡候に、今度根津権現御祭礼の義被仰出候と、就夫、御社御裏門より本郷境木戸際まで道法相改候て絵図にいたし差上、勿論祭り出し候ハゝ、其由緒別紙に書上可申旨、被仰付候ゆへ、則御宮の近辺道の程相改メ、絵図に仕立、同く廿日に差上る。但し、御裏門より本郷六丁目木戸際まで、十町十九間あり。別紙に上る。書付乃写左に記す。

 乍恐以書付申上候。駒込片町名主年寄共申上候。此度根津御社御近辺絵図致し、差上可申旨、被仰付候ニ付、道程相改メ、絵図仕立差上候通、相違無御座候。右根津御社往古より駒込片町鎮守之御社ニて御座候ニ付、右拙者共先祖之者共右御社之御正体素盞烏尊之御宮殿、同御本地十一面観世音薬師彌陀尊之後光台座之御再興、并御厨子共ニ修補仕、差上来り候ニ付、拙者共ニ至り、代々修補仕、差上申候間、先之御別当宥雄之御代迄、右之通修補仕候。其上只今迄御庭祭礼と申、隔年二相勤候儀も、拙者共勤初申候。
右之通当町儀、乍恐御氏子地ニて御座候間、只今之御祭礼、隔年二勤来り申候。以上。
 正徳二年辰六月廿一日
     駒込片町名主 八左衛門
         年寄 六右衛門
         同  次郞左衛門
         同  利兵衛
         同  三左衛門
         同  勘兵衛
 清野與右衛門様 御役所
 清野半三郎様

右之書付、御勘定頭様へ御上ケ被成候由、御役所にて被仰候。依之別当殿迄御尋之節、間違も有之候ては如何二候間、右之写致し、如此書上候旨、案内申入置可然旨、名主八左衛門申之、則右之写廿四日に御別当へ六右衛門持参致し、御別当住心院僧正之御院代法泉院へ右之旨申達、則書留被成候ニ付、罷帰也。

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