(根津神社考参考資料)御府内備考・同続編
根津神社考の執筆に当たって参考にした資料を掲載する。
関連記事はこちら。
根津は下谷池之端に続き谷中三崎に隣れり、依之谷中に近き故多く今谷中の内に入といえども、実は駒込千駄木の地なり【江戸図説】案に根津の地名は根津権現鎮座以来の唱へなるへし 【神社略記】根津権現の条に根津といふは鼠のいはれにや、是大黒天を祭るならん、ことに天井又は絵馬などに鼠を多く書て見ゆれば大黒の社なる事決せりと見えたり、社の旧地は千駄木御林の傍にて今もその所を元根津と呼へり
【御府内備考続編巻之十 神社部十】文政12年(1829年)
(テキストは東京都神社史料 第1輯(東京都神社庁1966)収録を基に、原典や神社書上をベースに修正を加えている。
根津権現社(拝領社地、二万二千三十坪余 門前町屋有之)根津御朱印社領五百石
○当社勧請之年代不詳、 駒込惣鎮守ニ而千駄木村ニ鎮座有之、 神躰素盞嗚尊本地十一面観音、 相殿二社山王権現本地薬師八幡宮本地阿弥陀、 是を根津三社大権現と申奉る、 中頃太田道灌の再興有之候共云、万治年中の頃迄別当も無之、駒込村草分百姓山本八左衛門青木六左衛門野口次郎左衛門岡田三左衛門奥田利兵衛なと云者集り、年々の祭礼供物等を捧取賄いしと也、右之者共別当これなきを歎き、本郷昌泉院清英法印を別当に頼置しか二代目智証相繼す、(いずれも住職等年月知れず)三代目宥雄に至り、宝永三戌年根津大権現の宮居を千駄木村より池之端甲府中納言綱豊公御殿跡へ引地御造営有之候
根津権現御由緒書
※(○)は、東京市史稿「根津権現社書上」の注釈を転記した。
一 根津権現神体之儀者 素盞烏尊往古駒込千駄木ニ鎮座有之、当社地之儀者先年甲府宰相様御屋敷ニ御座候而、寛文二寅年四月廿五日於右御殿地文昭院様御誕生被為遊候、同五月廿六日元根津権現え御参詣被遊候、則権現之儀者文昭院様御産神御座候、其後寶永元申年十一月文昭院様御事常憲院様御養君被為成候ニ付、寶永二酉年四月廿五日日光御門主御方へ為上使、稲垣対馬守殿ヲ以被仰進候者、根津権現之儀大納言様依御願、甲府様御屋敷跡に権現社御創建被為遊度之旨被仰進候、寶永二酉年四月御造営被仰出、筋違橋御門外明地へ御普請小屋場相立候。同五月朔日御釿初ニ御座候。
一、同七月四日 御普請御手伝藤堂備前守高堅殿被仰付候。
一、同八月廿三日 秋元但馬守(○知喬)殿久世讃岐守(○重之)殿當社地へ御見分御座候。
一、同十一月廿三日 本多彈正少弼(○忠晴)殿御普請御用惣掛り被仰付候旨鳥居播磨守(○忠英)殿被仰渡候。
一、同三戌年九月廿六日辰刻 御社御柱立ニ付、久世大和守(○重之)殿藤堂備前守(○高堅)殿竹村権左衛門(○嘉武)殿其外小普請方御役人被相詰候。
一、同十一月晦日卯刻 御上棟、同日午刻、地鎮案鎮御執行。久世大和守殿藤堂備前守殿本多彈正少弼殿・竹田丹波守(○政武)殿竹村権左衛門殿石川伝太郞殿、其外小普請方不残被相詰候。御大工棟梁村松淡路依田伊予罷出候。
一、同十二月二日酉刻 駒込千駄木元社ゟ当根津仮殿へ下(仮)遷宮有之、翌三日戌刻、正遷宮、為御導師大明院宮一品公弁法親王為成、一之宮素盞烏尊、二之宮山王権現、三之宮八幡宮御勧請二而、根津三社大権現と御尊崇被遊候。同日常憲院様御名代三宅備前守殿御勤御献備物御座候。
一、同四日巳刻 御供養御門主御法会御執行、久世大和守殿本多彈正少弼殿其外諸御役人方被相詰候。
一、同五日 御門主御方へ為上使井上河内守(○岑正)殿御出被進物有之候。別当神主へ白銀五拾枚宛社僧社家一同白銀五拾枚被下置候。同日御城へ罷出於柳之間御老中大久保加賀守(○忠增)殿被仰渡候者、此度根津権現へ社領五百石御朱印被下置候。同日本多彈正少弼殿於御宅、社領五百石配当御目録書御渡被成候。同七日 文昭院様御社参御献備物御座候。同日於御裝束所本多伯耆守殿被仰渡候者、今日御造営御社へ初而之御成ニ付、拝領物被下置候旨被仰渡、御服壱重宛別当・神主同様拝領仕候、本多彈正少弼殿御渡被成候。同日、御社正遷宮御祈祷之御札御稜献上仕度旨、間部越前守(○詮房)殿に奉伺い處、伺之通相濟、同九日御札御秡獻上仕候。同八日、御造営之御社へ明九日ゟ諸参詣勝手次第可為致旨、秋元但馬守殿被仰出候旨、本多彈正少弼殿被仰渡候。同九日、御徒目付御小人目付被相詰、御社へ参詣之人数被書上候事。
一、同十一日 寶永御門主御登城、御能有之、別当神主拝見被仰付、御料理被下置候。
一、同廿三日 本多彈正少弼殿於御宅、堀左京亮(○利直)殿御列座二而根津御社御條目被下置候。
一、寛永(ママ)四亥年正月廿六日 文昭院様御社参御献物御座候。
一、同六丑年七月三日 有章院(○徳川家継)様御誕生被為在候ニ付、同八月四日御宮参、御名代御老女伊佐野殿御出被成候。御初穂白銀十枚、赤飯詰行器三荷、御樽壱荷、塩鯛一箱・昆布一箱御献備御座候。
一、同九月三日 有章院様御社参御献備御座候。
一、同七寅年三月廿七日 文昭院様御社参御献備御座候。
一、寶永八卯年二月廿五日 文昭院様御社参被遊、御献備御座候。
一、正徳二辰年八月 有章院様御社参被遊、御献備御座候。
一、同三巳年六月十五日 来午年九月御祭礼被仰出、翌午年七月廿三日四ヶ市御旅所ニ被下置候、御掛り松平対馬守(○近禎)殿、同四午年九月廿一日大祭礼御修行、同日御社へ為御初穂黄金三枚御献備、御目付衆鈴木伊兵衛(○直武)殿御持参被致事。同日雨天二付翌廿二日神輿御三社渡御有之、別当神主供奉、並藤堂和泉守(○高敏)殿榊原式部大輔(○正邦)殿松平大蔵少輔(○勝意)殿石川惣十郞(○總慶)殿立花飛騨守(○鑑任)殿、何も神馬長柄等被差出候。其外町々百六拾五ヶ町練物花出し等差出し候、御上覧被遊候。
一、御祭礼ニ付、御旅所御仮殿御入用金三拾両被下置候。松平対馬守殿御用掛りニ御座候。一、享保十三申年六月有徳院(○徳川吉宗)様日光御社参ニ付、御神馬装束皆具、御長持共被遊御神納候。(但御神馬装束類明和度之類焼二而焼失仕候。)
一、寶永三戌年十二月五日別当神主御城被召、於柳之間根津社領五百石御朱印被下置候、御老中大久保加賀守(○忠增)殿被仰渡候。
御朱印御文言左之通、
根津権現社領武蔵国足立郡
飯塚村十二月田村弥兵衛村上新田村之内
都合五百石事、今度寄附之訖
全収納永不可有、相違者、可 抽
国家安泰へ懇祈者也仍如件
寶永三年九月廿一日 御朱印 別当 神主
(中略)
○別当醫王山正運寺昌泉院 天台宗東叡山末
当院昔本郷ニ罷在候処、住僧清英之時分ゟ別当を兼帯、後住知澄も相継而是沙汰三代目宥雄時ニ至リ、宝永三戌年本社千駄木村ゟ今之地へ遷宮有之候比、別当職僧正ニ被仰付、宥雄若年時に二十歳ニ而僧正昇進成兼候間、本郷瑞泉院へ転住被仰付、同年十一月東叡山常照院第四世実興ニ命して住持とせらる、依而実興を中興第一世とす、享保三戌年十月八日寂、仏殿本尊釈迦文殊普賢を安置ス。
○神主伊吹左門
先祖之儀者、近江国高島郡海津西濱ニ鎮座上野尾天神山王両社之祠官伊吹右京菅原昌次と申、吉田家門人、寛永十九午年神道許状請社職仕罷在候処、故有而万治年中御当地え罷出処、清揚院様當御下屋敷并御上屋敷桜田御殿両御鎮守稲荷御預御上屋敷内御長屋被下御祈願相務罷在候処、寛文元丑年九月当御屋敷稲荷同十一月桜田御殿稲荷両社御造営出来正遷宮相務、夫ゟ社職被仰付候、御家老新見但馬守殿被仰渡候、右京忰左京昌輝父子ニ相務罷在候処(以下略)