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見えない物が何故見える #11
お客さんはパントマイムによる表現においてどこを見ているのか。
この問いは面白いと感じる。確かに、何もない空間に”あるように見せる”という技法に特化しているものがパントマイムだ。
例えば”壁”というテクニックを披露している時に、見えているのはその壁を表現している手だ。壁という存在を確かに感じているはずなのに、壁そのものは透明で目視出来ている訳ではない。ならば、見えているものはその時点では両手でしかないはずだろう。お客さんはいったい何を見て”透明な存在”を認識しているのだろうか。
透明なものは見えない
当たり前のことをデカデカと書かれてもと思うだろうが、凄く大切な事だ。演者がパントマイムの作中に何かを見つけ、そこに目線を送ったとしても、目線を送っただけではお客さんには何も見えないということだ。何かを”見ている”という情報は伝わるだろうが、それが壁なのか車なのか人なのかという、具体的な対象物が何なのかを伝えることは出来ない。
先程例に上げた《壁》という対象を表現するとしよう。当然目線を送っただけでは何を見ているのか理解する事は難しい。そこで皆のイメージにあるように両手でその壁面を触れるという動作が行われる。しかし、この時点でも触れている動作をしている手は見えているだろうが、壁は引き続き透明なままだ。
だが、この両手で触れるという動作が始まると、なぜかそこに壁があることを感じられるようになり、イメージの中にも対象物が現れてくる。不思議な話だ。この時にお客さんは何処を見ているのだろう。透明な物を見ているということなのか。
見えているものを見ている
いや、お客さんが見ているのは透明な空間ではない。その目には当たり前だが表現している人の全身が写っている。壁に触れる動作をしている両手も見えているだろうが、それと共に手の向こう側に見えているのは胸を含めた胴体の部分だろう。実はこの胸の面そのものが《壁》を表現しているのだ。
どういうことかと言うと、人の目にはパントマイムで表現している透明な《壁》という存在は視認出来ていない。確かにそこにあるように感じているのだけど、物質として存在しているわけでは無いので、人の目が見ているものは見えているところなのだ。
《壁》を表現している時に見えているもの、それは演者の表情や目線、そして体そのもの。その目線から距離感を感じ取り、正面を向いている胸の面を壁の面とリンクして認識し、壁の質感などの情報を受け取っているということだ。
視認する事が出来ている演者自身の体の角度や硬度、動きやスピード感などを用いて、表現している物質とリンクさせる。そうすることで、見えていない透明な物体がそこに存在するかのように感じられるのだ。
代償表現で物体を生み出す
この表現技法を代償表現(代償行為)という。
もう一つ例をあげよう。
例えば、タクシーを止めるという演技をパントマイムで行うとする。舞台上でセンターに立ち、手を上げて右側に首を振る。イメージは湧くと思うが、タクシーを止める時の共通認識の動作だ。目線の先にタクシーを捉え、走り来るタクシーを表現しないといけない。その際に体はそのままで首を舞台右側から正面へと動かす。この動作がタクシーという存在の動きとスピード感を表す代償表現となる。
スピード感はこの首の動きと同様に認識される。右から正面へ首を振り、ブレーキの慣性も含めた質感を表現しながら首の動きを行うことで、タクシーが停車したことを認識できる。首の動きをタクシーの動きとリンクしてお客さんは認識するので、例えば右から左へと一気に動かせばF1カーのようなスピードでタクシーが通過した映像が見えるだろう。
また、タクシーであれば停車後自動でドアが開く。その動きも演者の動きで表すことが出来る。タクシーのドアが開くという動作は、リアルであれば何もすることなく、開くのを待つだけだが、パントマイムではタクシーが透明なのだから伝わらない。その為、ここでも代償表現としてその場から一歩退くのだ。停車したという表現のあとに、目線はドアが開く軌跡を追いながら一歩下がる。その動作一つがタクシーのドアが開くという代償表現となる。
他にも、舞う蝶々を首の上下の動きや手をヒラヒラさせることで表現したり、エレベーターの扉を両手を開くことで表したり、風船を持っている時は体を弛緩させ上下にはずみ、炎を表現している時はその火のゆらめきさえも両手で表すことで、その存在感を印象づけることが出来る。
前提条件が共有できればOK
様々な型として存在するテクニックには、この代償表現を用いることが多い。演者自身の体で、表現する物体の硬さや柔らかさなどの質感、角度、動き、衝撃、温度、羽ばたいたり浮いたりなどの重力をも表して印象づける事が出来る。
そしてどんな対象物がそこに存在しているのかという、物語と連動した前提条件がお客さんに伝わってしまえば、そこからはその前提条件の中で理解し、連想ゲーム的に想像が連なるよう演じて行けばよい。
前回の項でも語った内容だが、《季節・時刻(いつ)、場所(どこで)、人物(誰が)、目的(何を、なぜ)、行動(どのように)》というところまで前提事項が伝わっていれば、その後は、ちょっとした所作でもそれが何を表しているのかが分かっていく。そうなれば物語の世界に没入し、感情の機微や展開に集中して観ることが出来る。
オンラインでは難しい
ここまで説明してきたように、体が表現している部分を見せてようやく理解が及ぶ演技がある。それらを見逃すと次に何をやっているのかが分からなくなることもあるデリケートな側面だ。昨今のオンラインでの配信に環境を移さざる負えないこの時世において、パフォーマンス環境をそちらに頼ることもあるだろう。しかし、集中力を保って画面を見続けるというのは、結構難しいものではないだろうか。自分自身もそれは感じている。
パントマイムによる表現は多岐に渡るので、シンプルでわかりやすく、見た目にも理解しやすい作品であれば、オンラインという環境においても楽しんでいただけるだろう。しかし、繊細な動作が含まれる演目、目を離しては成立しないような作品はオンラインに不向きだ。それぞれのパフォーマンス環境において演目を取捨選択し、透明な世界に没入してもらうような演目は、劇場という非日常空間で届けるべきなのだろう。