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ありきたりな後悔

後悔はするな、反省をしろ。

そう思って生きているつもりだった。
後悔なんて無意味なもので、反省として次に繋げなければならないと。

しかし、突然親と意志疎通がとれなくなった今、身に染みて感じているありきたりな後悔がある。
もっと連絡をとっていればよかった。
自分の時間を優先せずに、もっと会っていればよかった。
私は実は、こう思わない自信すらあったのだが、抱かざるを得ない後悔というものがこの世にはあるようだ。

4日前、末期ガンを患う父が、ガンとは無関係の精神症状で突如警察に保護され、緊急入院した。

父とは別居しているがたいへん仲が良く、2ヶ月に1度は2人で会っていた。しかし新型コロナウイルスが流行してからというもの、会えない日々が続いた。
この頃から父は、頻繁に母と私に会おうと連絡してくるようになった。

私はコロナの代償を甘く見ていたと思う。
父の仕事もコロナによって大打撃を受けていたし、コロナによって会食も控える必要があった。
何よりも現在、入院患者への面会が原則禁止されているのである。

今、父はいつ逝くかわからない状況の中にいる。
頑張ってくれていると信じたい。
しかしそういった切迫した状況下であるにも関わらず、こちらからアクションを起こすことは不可能。
ただただ父の生命力を信じ、医者からの連絡を待つことしかできないのである。

これが「こんなことになるならどうしてあのとき…」と思わずにいられようか。

それに仮に面会できたとしても、もう以前のような父はそこにいない。
4日前病院に運ばれた父と一瞬だけ会った際には、幸いにも人の識別はでき、私の顔を見ると名前を呼んでくれたが、本当にそれだけだった。あとはずっと錯乱しており、叫んで暴れるばかり。
今月3日に会ったときには、衰弱しているものの変わりない父だったのに。
父は今、こちらにはけして知る由もない不可解な世界の中で、必死に生きているようだ。
変わり果てた親を見るのはとても辛かったが、私の名前を呼んでくれた父は紛れもない私の大好きな父だった。

どんなに「当たり前を大切にしよう」と思っても、本当に大切にできる人など中々いないのではないだろうか。
当たり前でないものだから特別に感じられるのであって、常にあるものを毎日改めて取り出して抱き締めるなんて至難の技だと思う。
私は完全に、油断していた。

末期ガンの父でなくとも、人間はいつ死ぬかわからない。私だってそうだし、あなただってそうだろう。
現に父がこのようになったのは、ガンのせいなどではなかったのだから。
父からのショートメールはけして、当たり前の日常ではなかった。父の日記には、私とのショートメールのやりとりを喜ぶ内容が記述されていた。
ただの1つも大切じゃない日常などなかったというのに、それらを常に大切に思うことが私にはできなかった。私にとって当たり前のことが、父にとっては特別で大切だったのだ。

やはりどんなに後悔しようが過去という現実は変わらない。
しかしながら、じゃあ次に誰か亡くなるときに生かそう、だなんてあまりにも悲しいではないか。

今の私にはどうあがいても信じて待つことしかできない。
この4日間、苦しくなくなる方法を模索し続けたが、どこにも存在しなかった。
私はこの苦しさやもどかしさ、不安を、捨てることはできないし、これがあるうちは父が生きている証拠なのだと言い聞かせるしかない。

どうか踏ん張ってほしい。

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