コトバ
「ふと」に導かれるままに進むと、面白いところに誘われる。
前回の
の認識ができた後「ふと」思い出した 油井真砂 という方の存在。
油井真砂
油井真砂 ゆいまさご
ここに記載があった文章を引用する。
真砂の指導による夏期参禅が催され、近在の漁師らも真砂の話を聞きにやってきた。
話が霊力に及び、信じない漁師らに真砂が実験して見せるという流れになった。
屈強な漁師が数人束になって、真砂と手拭いの引っぱり合いをした。
真砂は指2本で手拭いの端をつまんでいるだけなのに、漁師たちが全力で引いても手拭いはぴくりとも動かない。
漁師たちは青ざめ、平蜘蛛のようにはいつくばったと、その場にいた今東光が書いている。
この内容を、古武術研究家の甲野善紀先生の講習会に参加した際に教えて頂いた。
私たちが考える「常識」
その「常識外」のことを知り、またそれを体験したり実践できる人間がこの世界に沢山存在しているはずだ。
もちろんそれは私たちにも備わっていて、しかし、それを自覚できているかはわからない。私自身は自覚できていない側だ。
私は人間のカラダの不思議さ、可能性に大きな興味がある。
だから、現時点で「常識外」を知っている人の元へ会いに行こうと今動いているのだと思う。
上記引用の内容は、
油井真砂先生の伝記『この人生』
に記載があるらしいが、この本を手に取ることは現在困難で、タイミングがよければ出会えるのであろう。
しかし、世の中はとても便利になったもので、
このようなサイトに辿り着いた。
こちらのサイトで、油井真砂さんの文章に触れることができた。
油井真砂著 信心と坐禅
『内容のない形式』というセンテンスが何度も出てきた。
1935年と90年以上も前の文章だが、内容としては、(まだ読了していないが)今の時代にも合った内容だったように思う。
読み進めていて、「ふと」、アインシュタインが頭によぎる。
そして、アインシュタイン関連で検索を進めていくと、
光透波について記載がある文章に出会う。
小田野早秧
小田野早秧さんは、アインシュタインがいう「相対性理論」を聞いたときに、
『相対性理論』があるならば『絶対性理論』がある筈だ・・・
と、独自に研究を続けた人。コトバを用いて。(という私の理解)
様々な言葉を分解していく。「音」というのがエネルギーになっていく。
まだきちんと調べきれていないから、つかめてはいないけど、
日本語だからこそできる分解の方法で、宇宙の真理を探究したのだと思っている。
日本語の不思議さ、コトバの持つエネルギーはとても興味深い。
きっとまだまだ知らない世界がある。
そして、コトバは、これからの私の学びのキーになっていることは感覚的に確かだ。
だから今、表現する練習を行っている。言葉をコトバとして少しでも掴めるようになったときに、また見えてくる世界があると思うからだ。
「わかった!」は幻想のゴールだ
私が、偉人たちの話を面白く感じるのは、
「え??どういうこと??」という瞬間が沢山おとづれるからだ。
最近改めて思うのは、
「わかった!」という感覚よりも、
「どういうこと?」という感覚の方が比較にならないぐらい尊い感覚である、
ということ。
「どういうこと??」に出会うとき、それは、新しい前提との出会いの扉が出現した時でもあるのだ。学びの大きなきっかけになる。
「わかった!」という感覚は、
幻想のゴールに到達したに過ぎないようさえ感じてくる。
でも、それがわかっていれば、
「わかった!」と思う感情も、尊いものに変わるのだ。
数日前から前提の書き換えが起こっていて、カラダが反応している。
そしたら、また、
「え?どういうこと??」という情報に出会った。
私の興味はどこへ向かうのだろう。
「ゴール」は来ない。
だから、それぞれを楽しんで誘われた方向へいってみようと思う。