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うまくのっかるだけで、人生は楽しく、充実するのかもしれない

まだ暑さも残る9月の初旬に、高尾山に登ってきた。
高尾山といえば東京の有名な山。
ドラマなんかで都会の波に乗り切れない高尾山出身の主人公が出てきたり、
なんとかスポットとしてバラエティ番組で見たり、意外と昔から目にする機会が多くて、私の中では東京移住よりはるか昔から知っていて「かの有名な高尾山」という存在。

高尾山ってどんなところなんだろうと思いつつも、なかなか行く機会がない場所だったのだけど、所属しているウェルビーイング心理教育アカデミーの会員さんが、ある日「高尾山の山登りツアー」参加者を募集していた。

ウェルビーイング心理教育アカデミーは、人が幸せに生きるための知見と体験を提供している団体…といえばいいのかな?
私は今は講師活動をしていないので、一会員として団体が提供するあれこれに受動的に参加しているだけなのだけど、
去年、ウェルビーイングツアーなるものの東京編に参加した。

ウェルビーイングツアーとは、心理的、身体的、社会的な健やかさや幸福度アップにつながるような体験をなんでもやるツアー?(全然伝わんねーな…)

ウェルビーイング心理教育アカデミーの会員がいる地に赴いて、その土地で観光したり、遊んだり、勉強したり、なんかいろいろやってるツアー。
決まっているのは「その土地でやる」ってだけで、あとは会員たちが自由に「これやりませんか?」「あそこ行きませんか?」「こんなんあるんですけど」と自由に持ち寄って、参加者たちは自分の興味関心に沿って参加するコンテンツを選ぶ。

去年の東京のウェルビーイングツアーで、私はスカイツリーに登る会に参加した。
スカイツリーができた時には「すごーい!!」と思ったけれども、スカイツリーと東京タワーを比べると、申し訳ないけれども私は圧倒的に東京タワー派。
東京タワーが好きなの。
スカイツリーの上に登るのもそこそこの入場料だし、混雑もすごいというし、なかなか自分では行く機会もなく、遠くからただ眺めるだけだった。
でも「一度くらいは登ってもいいんじゃないかな」という場所でもあった。

そんな場所に、気の知れた仲間が「一緒に行く人募集」をするなら、もうのっかるしかない。
しかも参加者のうち1名が、なぜだか知らないけれどやたらにスカイツリーに詳しくて、当日は私設ガイドか!?というほどのガイドっぷり。
おかげさまで初スカイツリーがとても楽しめたのである。

「この時間のチケットを買ってね」と指定された時間はばっちり夕焼けが計算されていた

また登りたいかって言ったら、正直、別にもういい気もするけど、なんだかすごく満足感はあったんだよね、スカイツリーに登って。


東京タワーがやっぱり好きだけど
スカイツリーもとってもいい思い出になりました。

そんな経験があったから、「高尾山登山参加者募集」の声かけにも反応した。
ずっと気にはなるけど行ったことがなかった高尾山。
同行者はウェルビーイング心理教育アカデミーの仲間。
私は最近、幽霊部員気味なのであまり知らない人もいるけど、まああそこに属している人は、そんなにとんでもなく生きる次元が違う人ではないので、そこまで会話に困りもしない。
スケジュールもなんとかなりそうだし、せっかく高尾山なんだからのっかってみよう。

かくして、まーーーーーったく下調べもせず、「スニーカーでいい」という案内を鵜呑みにして服を選んで、待ち合わせ時間にあう電車だけを調べて参加した。

いやあ楽しかった。

ロープウェーとリフトの違いもよくわかってなかったけど、
リフトがマジでヤバイやつでやばかった(語彙)

高所恐怖症とかではないんだけど、すんごい心臓バクバクした。

行き(登り)は片手でつかまってるだけでなんとかなったけど、
帰り(下り)は両手がっつりつかまったまま、視線も逸らしてやりすごさないと呼吸困難起こしそうなほど怖かった(笑)

行きの時点で「これ帰りヤバくない?」と予想はしていたけど…高いのよ…怖いのよ

さほどしんどくもなく、ほどよい負荷で登れる高尾山。
ムササビもいるという自然と、
神社仏閣アクティビティも楽しみつつ、
麓でおそばを食べつつ気の知れた人たちとエンドレストーク。

家庭でも職場でもないサードプレイスの大切さ、みたいなこともやっぱりちょっと頷ける時間を過ごして、とっても楽しい経験ができたのですよ。
とってもいい9月の小旅行だった。

まだ夏のなごりを感じる空ですね。

9月はもう一つ、初体験があった。
うふふ、氣志團のコンサートに行ってきましたのよ。

去年ふっと、「一度でいいから参加してみたいコンサート」には積極的に足を運んでおこうかな、と思ったのです。

私自身はもう何回か行ったことがあったんだけど、「一度でいいから行ってみたい」と母が言っていたので、さだまさしさんのコンサートに母を連れて行き。

松任谷由美さんのコンサートも、サーカスみたいなド派手な演出をテレビで見ては「一度でいいから行ってみたいな」と気になっていたから、去年の年末に飛び入り参加。
「魔女の宅急便」で育った世代だからか、「やさしさに包まれたなら」を聴いた瞬間、涙がぶわああああって溢れて、感動した。


だから私の今年のビジョンマップには「一度でいいから行ってみたい」の枝があって、その中に「氣志團」と、堂本光一くんの「SHOCK」を書いていた。

今年は氣志團とSHOCK行くぞー!!と思っていたら、
SHOCKは今年限りで終了と発表されてしまったので、最後の公演を目に焼き付けておきたいガチファンの皆さんが行くべきだろうと早々に参加を諦めたけど、氣志團のコンサートは無事参加。

コンサートっていうか、演劇?舞台???
One night carnivalしか曲は知らないけど、2階の後方で見よう見まねで踊ってしまうくらいには楽しかった。


いずれも、すごく楽しかった。
この先何度も何度もリピートしようというのとはちょっと違うんだけど
「一度は行ってみたい」と思っていたものを経験できた喜びとか満足感はすごくあって、本当に行けてよかったと思っている。


そんなことを振り返っては考えているうちに、ふと
「一度は行ってみたい」にどんどん手を出すだけで、人生は充実するのではないか?と思った。

「一度は行ってみたい」なら、行けばいいのだ。

例えば、高尾山に登った時もメンバーの中で話題に上がったのだけど、
秩父の三峯神社も、私は行ってみたい。
日光東照宮も行ってみたい。
伊勢神宮も行ってみたい。
高千穂も行ってみたい。

神社仏閣ばかり書いているのは、年取ったからなんですかね(~_~;)
でも別に私は信心深いわけでもないし、パワースポットマニアでもない。
たぶん一度行ったら満足する。きっともう行かない。

それでも、そこに行った満足感と思い出は残る。

それなら行けばいいじゃん。

三峯神社もいつも混雑で大変らしいけど、この日は結構スムーズでラッキーだった

秩父まで行くルートとか時間とかいろいろ調べるとなるとそれだけで気持ちが萎えるので、あっさりバスツアーに申し込んで楽ちん旅行。

紅葉のいい季節に行けてとてもよかったし、ほんとよかった

私は昔から、面倒くさがりだし、たぶん人より好奇心とか内側から突き動かされる情動の範囲が狭い。

「あそこに行ってみたい」とか「あれを食べてみたい」とか、
そういうものを自力だけで実現しようとすると、エネルギー消費量が到底間に合わなくて、「そこまで絶対やりたいわけでもないから、まあいっか」とスルーしてしまう。

その結果、家に引きこもる。


自分で1から全部調べて、全部セッティングして、自力で楽しむ。
そういう人もいて、そういう人の意欲と行動力はすばらしいなと思うのだけど、
「そうしないと意味がない」わけでも、「そうしないと楽しめない」わけでもなくて、

自分の意欲と体力に合わせた楽しみ方として、今の時点での私の最適解が「のっかること」のような気がしている。


物知りで行動的な友人知人や、パッケージツアーにのっかればいい。
そう思ったら俄然、「あそこも行きたい」「あれも食べたい」という欲が活き活きとしてきた。

来年は伊勢神宮に行ってみようと思う。
母を連れて東北も行きたい。
韓国で焼肉とキムチも食べてみたい。

どんどん「やりたい」が出てきてワクワクしている。
うふふ。
これだけでも結構もういそがしい(笑)
2025年はとても充実した一年になりそうだ。


この一連のことで、なんとなく自分の中に毒された強迫観念のようなものがあったことに気づいた。

「自分で1から調べて、全部自分でやるくらい”本気で”望んでいることか?」

あるいは、

「一度きりじゃなくてこの先ずっとやり続けることができるくらい”本気で”望んでいることか?」


そういう、とてつもないエネルギーを放出できることが「本物」で、
それ以外は別に取るに足りないことと思っている節があったのかもしれない。
「自力で」とか「本気で」とか、もしかしてそういうことを思いすぎていて、何もできなくなっていたのかもしれないなということ。


それだけのエネルギーを放出できることは素晴らしいことなんだけど、
気がつけばいつの間にか、それが尊いことであり、それが正義であり、
むしろそれにしか意味がないと思っていないか。

例えば趣味もそう、仕事もそう。
何か一本筋が通っていて、ずっと「続けて」いかないとみたいな強迫観念を持っていないだろうか?


そういえば心の片づけのセッションをやっていた時
「お試し教室ばっかり行っているんです」
「何かコレというのを見つけたいんです」
そんなお悩みを聞くことってよくあった。

猛烈に掻き立てられるもの、突き動かされるものを持ちたいという憧れが、
それを持てない自分をまるで悪いもののように思い込んでしまう。
そしていつしかそこにあったはずのほんの小さな情動を切り捨てる。


私もそう。
資格を取るとか勉強するとかだって、
それを本当に一生の仕事にできるのか??みたいなことを問答してしまうこともあった。

体験ものに行ってもその後続けようと思えない自分に、なんだか裏切られたような気持ちがした。

恋愛とか結婚とかだって似たようなもので、
未来永劫その気持ちを持ち続けられない自分にちょっとがっかりしたりして。

「生涯そこに身をおけるか」みたいなことを考えすぎてしまっている。
だから刹那的なものには身を任せることができないし、
その結果、本当は一度きりでも満たされるかけがえのない逢瀬を失うのだろう。


「1から全部自分で」とか「この先もずっと」とかじゃなくても、
「行ってみたい」とか「やってみたい」とか、
その時のちょっと軽い自分の感情をきちんと拾えるって、実はすごいことなんじゃないのか。

考えていたら、
その一瞬の、刹那の自分の本音に身を投じられる人を、なんかうらやましいと思ったよ。

自分の気持ちに正直に、貪欲だったりするのだろう。
それは決して悪いことじゃない。


足踏み値踏みだけしているよりも、
よっぽど充実した人生かもしれない。
飛び込んだ結果、あとには何も続いていなかったとしても。

飛び込んでみたらやっぱ違うなとか、一度でいいなとかは往々にしてあるとしても、
そこに飛び込む勇気があるのは、やっぱりきっと素晴らしいし、
飛び込んだだけで体験できることとひらける景色がきっとある。

以前この記事に「新聞を折る」と書いたけど、
私たちはその時のその気持ちが本物かどうかとか、
それが何につながるかなんて考えずに、
その時その気持ちに正直に、折りたくなった新聞を折ればいいのだ。

たぶん、それだけで、人生は充分に楽しいし、充実するのだ。


そんなことを思っている今日この頃。

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