【「真面目→サボる→復活」上下の激しい時代】大学4年間の概要をまとめてみた
どもども、かずみんです。
ついに大学時代までやってまいりました…!!
書くたびに何でか文字数増えてるのが不思議なんですが…
今回は高校時代の1万文字弱ほどはいかないでしょう。
そんなに書くコンテンツはない…はずやけど、どうやろ?
……って思ってたけど、
はい、余裕で1万文字超えましたー。笑
大学時代の概要としましては…
・大学1年
→真面目に2.5時間ぐらいかけて通学&まだ真面目に講義を受けてた
→彼と2ちゃんねる(!)で出会う
→パチ屋のコーヒーガール
・大学2年、大学3年
→大学サボりまくりでゲーム三昧&彼とパチンコ屋通い
→彼と同棲生活
→彼と同じパチンコ屋のホールスタッフでアルバイト
→大学3年、必要な単位を落として夏休みに実習行けない事が確定し、卒業もできないんじゃ…と焦りだす
・大学4年
→同棲生活は継続しつつも、彼との価値観の違いを感じ、彼を放置して真面目に学校に復帰しだす
→足りなかった単位の取得、実習、国家資格の勉強、就活、卒論、1年で全てこなす
→無事に卒業
ほら、こうやってまとめてみるとシンプルやし簡単にまとまる!
…はずやけどね、どうなるやろね。笑
いつもの独り言形式の文章でまったり進めていこうと思います~。
大学入学!まだ真面目の名残があった大学1年
無事に高校を卒業し、ドキドキワクワクなキャンパスライフ。
しかも、通うのは神戸からはるか遠い「赤穂」という土地。
神戸や三宮ぐらいしか一人で行ったことないヤツが毎日遠くまで通学することになります。
まだまだ真面目が抜けてない…というより、このまま真面目で行ってたらたぶん苦労することもそこまでなかったであろう大学1年生。
いってみましょーーー。
神戸から赤穂まで毎日片道2時間半かけて通学スタート
わが家は神戸といっても、山の方だった。
鈴蘭台ってちょっと有名?そうでもないか?そこの1駅隣で、同じ路線進んでいけば有馬とか三田が近くなってくる感じかな。
だからまず、大学のある赤穂に行くためには、JRに乗らなくちゃいけない。
神戸電鉄っていう電車に乗って山を下りれるんやけど、この電車、電車賃高いんよ。汗
あと、神戸駅の最寄りの新開地からJRに乗り継ぐのもちょっと面倒。
全然歩けるけど、そこそこ距離ある。
(神戸高速鉄道ってところで1駅分あるぐらい)
なので、原付の免許を取らせてもらって、家からJR神戸駅まで有馬街道っていう山を下る道を下りていくことにした。
9時頃から始まる1限の講義に間に合わせるためには、6時に出発しないと間に合わない。
6時に出発して、原付で山を下って、6時半のJR神戸駅から西明石止まりの電車に乗る。
で、西明石発の赤穂行きに乗ったら8時半ぐらいに赤穂につくから、
そこから自転車屋さんに留めてある自転車に乗って大学まで10分ぐらい走るっていう毎日を過ごしてた。
もうね、西明石まで座れたら爆睡やったし、西明石からの電車もなんとか座席確保して赤穂まで爆睡やったな。笑
誰かと一緒に行くわけじゃなく、一人で通学。
赤穂に到着したのに目覚められなくて、車掌さんに肩叩かれて「着きましたよ」っていわれたこと何度かあるね。笑
朝やからちょうどいい電車がなかったのか、朝は乗り継ぎあったりして3時間弱かかるけど、
帰りは乗り継ぎなしで1本で帰れるから2時間半ぐらいかな?
しばらく頑張って通学してましたね~。
2ちゃんねるの掲示板で出会ってしまった「彼」
基本的に朝の電車の時間は寝てることが多いけど、もちろん眠くない日だってあります。
そんなときは、やっぱ携帯電話でネット閲覧してました。
(スマホなんて時代でもないし、動画なんて外で見るもんじゃないし、アプリのゲームなんてのも流行ってなかったしね)
私がよく見てたのは、「2ちゃんねる」。
そう、あの、ひろゆきさんのやつですよ。
2ちゃんねる、当時めっちゃ流行ってませんでした?
え?そうでもない?
どうしよ、2ちゃんねる流行ってたよねって思ってるの私だけやったら。笑
ニコニコ動画もめっちゃ見たかったけど、たぶん当時パソコンなんて家に無くて、見たくても見れない…みたいな状態だった気がする。
(後にがっつりどっぷりニコ厨になります)
ふだんから美容板とか見てたり、ジャンル関係なく気になるスレッド見たりしてたんですよ。
ある日の通学の電車の中。
いつものように2ちゃんねるを眺めてたら、見覚えある単語が並んでました。
「ん…?あれ??自分の大学のスレッドが立ってるぞ…??」って。
たしか、入学した人いる~?みたいな感じのスレッドだった気がします。
正直、まさかこんな身近な単語を2ちゃんねるで見かけるなんて思ってもなかったからビックリ。
で、「入学しました」って書き込みしました。笑
そこから何回かスレッド内でやり取りしてたわけです。
「うわーーー、同じ大学の誰か知らん人とやりとりしてるーーーw」
みたいな感じになってたな。
そんな春のある日、「次の講義、○○号室(大教室)ですわ」みたいな書き込みがあって、
「…あっれ!!!?私もその教室なんですけど!!!??」
って大慌て。笑
席、教室のこの辺~みたいなやりとりがあり、そこでドキドキしながら初めましてってした気がするね。
そこからまた怒涛の流れ。
一緒に遊ぼうって誘われて、「あ、はい」ってなって、その後すぐに付き合った。
たぶん、4月の終わりか5月の始めの頃だったと思う。
……高校時代同様、新しい環境で恋人作るの早っ。笑
年は3つ上なのに、なぜか学年は1つ上の彼。
ちなみにこの福祉大学、別に偏差値めっちゃ高いわけでもないし、有名大学でもないから、浪人して来るようなところではない…
って感じなのに、その時点で軽く「…ん?」ってなる人もいるよね、うん。
その彼と4年ぐらい付き合ったけど、ずっと「苗字+さん付け」だったので、Rさんとしておきましょう。
静岡出身で、その当時の私としてはほぼ初めてに近いぐらい「関西弁じゃない人」と接しました。
なぜかめっちゃ覚えてるのは、春の日差しが心地いい朝、学校行く途中の彼の家のチャイムならしたら
「ドア、開いてるよ~」
って言われたこと。
「うわ!ドア開いてんでーじゃなくて、開いてるよーって言われた!!!」
と、言葉使いはもちろん、その関東独特のイントネーションにも驚きました。
自分から積極的に声かけて友達作りができない私。
(声かけられたらバンバン乗れるけど、自分からは無理な社交性16位)
近くにいた女の子と顔見知りにはなったけど、がっつり仲良しになるわけでもなく………。
「明日も朝起こしに来てね~」
「じゃあ1限終わったら喫煙所集合で」
(最初で最後の喫煙者の恋人でした。緑のパッケージのマルボロメンソール=Rさんのイメージしかない)
と当たり前のように誘ってくれるRさんと過ごす時間がどんどん増えていきます。
少しずつ、少しずつ、私の「真面目さ」が失われていく
大学1年のときは取らなくちゃいけない単位が多くて、結構キッチリ平日3~5コマの日が多かったわけです。
(そういえば、関西では1回生っていうんやけど、関東では言わないってほんま?)
もちろん、真面目な…というか、当たり前に高校時代の感覚で毎日大学に通って講義受けてました。
ときどき、1つ上のRさんと講義が被るときがあるんですよね。
私はふつうに講義を受けるものかと思ってました。
…が、Rさんは違いました。
最初教室に入って、出席表をもらって、そのままそそくさと外に出ていくんです…!!!!驚
「ほら、行くよ」って私も連れ出されてしまったんですよね。
えっ。どういうこと?
えっ。大丈夫なん?
戸惑いつつも抗えない私も私やけどね、今思えば。
あー……でも、今でもそういうとこあるな。
あかんってわかってても、誘われると嬉しくてついていっちゃうみたいなところ。
危ないな、私。笑
講義をサボって、喫煙所でゆっくり過ごして、ぶら~っと90分経つ頃に教室の後ろ側からこっそり入って戻る。
大学から出て、信号渡ってすぐのところにある大きめのアウトレットショップの漫画コーナーで立ち読みしたりすることもありましたね。
大きな教室で、ラフでざわついてる講義ほどそういうのがしやすくなります。
そういう感じでサボることもあれば、出席表を最初に書いておいて、Rさんが友達に「俺のとかずみの分、これ2枚出しといてね~。よろしく~」って渡して出ていくこともありました。
(今思うとなかなかRさんって俺様系やったな)
これ、講義終わりも帰ってこないやつですね。
てか、Rさんの友達もよく気前良くこういうの引き受けてくれてたなぁって思うわ。
まだ出席表出してるときは良い方で、下手すると丸ごとすっぽかす、みたいな日もありました。
「めんどくせぇもん、大学行くの」とかいって。
そういうのが続いてると、次第に私の「真面目さ」も失われていきます。
最初は大学に行ってたのに、徐々にこう思うようになっていくんです。
「そっか…Rさんは午後からの講義、行かないのか…。私だけ講義出て頑張るの、面倒くさくなってきたな。大学行くより、Rさんと一緒に過ごしてたいな」
って。
あーーーーー怖っっっ!!
沼っっ!!!
この恋愛脳めっっっっ!!!!
でもやっぱたぶん、その気質は今も変わんない気がするわ。笑
親密性(8位)をこじらせてまうやつ。
同じ状況ならおそらく同じこと考えるし、意志弱い波が来てるときは同じ行動してそうやもん。
「好きな人と、ずっと一緒にいたい」
「好きな人と、できるだけ離れたくない」
年齢を重ねた今は、一人の時間って大事やし、やらなきゃいけないことがあるならその時間は離れてでもやらなあかんよねって思えるようになったけど、
大学の頃は「一緒にいたい」の一色に染まってましたね。
そして、良くも悪くもRさんはそれを全く嫌がらなかったし、むしろ歓迎してくれてる風でもありました。
これも、相手が違ったら「重いねん!!」って一蹴して嫌がられるやろなって思う。
「1人でおらせて」とか、
「友達との付き合いもあるねん」とか、
「いや、講義は出なあかんやろ。頑張らなあかんで!」ってちゃんと私を正してくれて、かつ応援してくれる人もいそう。
でも、彼は友人がいても全く嫌がらずに、気にせずに、私をいつでも隣に置いてくれる人でした。
一方、私は友人ほぼ0。
なので、RさんとRさんの友人(男)と私、という3人で過ごすことも結構多かったですね。
てかRさんの友人(男)、友達がいつも彼女連れてくるの、よく嫌がらんかったな。すごいわ。笑
そんなこともあって、私もどんどん「大学<Rさんと一緒に過ごす」という流れになっていきます。
そして、グダグダでダメダメやけど、恋愛的に?青春的に?幸せで充実した日々を送る大学2~3年に入っていきます。
アルバイトスタート→一番時給の高かった「パチンコ屋のコーヒーガール」に
大学2年に入る前に、ここもちょっと触れておこう。
奨学金で大学に行けるとして、気になるのは定期代やら携帯代。
高校の頃も自分で出してたけど、定期代とかシャレにならんぐらい高くなるわけですよ。
高校よりも大学生の方が出かける範囲が広くなる分ちょっとお金も必要な気がするし。
その流れで、アルバイトをする必要がありました。
高校時代はスーパーの肉屋さんやってたけど、さてどうしよう?
そもそも、どこでアルバイトしよう?
家の近く?大学の近く??
色々考えた結果、大学の近くの、時給が高いアルバイトをすることにしました。
おそらくすでにRさんとお付き合いし始めたぐらいの頃だったので、家の近くだとすぐに帰らなくちゃいけないのが嫌だったんだろうなって思う。
ちなみに、職種は「パチンコ屋さんのコーヒーガール」でした。
やっぱり、コンビニや飲食店のアルバイトより、断然時給が良いのがパチンコ屋さん。
小さい頃母親に連れられてパチンコ屋さんに通ったことはありますが、自分ではもちろん未経験なわけで、さすがにホールスタッフをする自信はありませんでした。
「まぁ、コーヒーをお客さんに渡すぐらいだったら、まぁいけるんじゃないかな?」
そんな気持ちで応募した気がするな。
基本的には休日の朝から夕方ぐらいにかけて、ちょっと大学とは方向は違えど赤穂にあるパチンコ屋さん3店舗のうちの1店舗のコーヒーガールをスタートさせました。
コーヒーを作って渡すのはまぁいいとして、お金が合わなくて勤務時間通りに帰れず遅くなる…みたいなのはちょこちょこあったな。
さすが慎重さ下位。(30位)
ここで、「パチンコ屋さん」というジャンルが、自分の生活圏内に入ってくるようになります。
それが後に響いてきますね…
怖いですね………(笑)
サボりまくって沼りまくった結果大ピンチに陥る大学2~3年
さて、大学2年になりました。
徐々に大学にサボりつつある私でしたが、2年始まる頃にはもうすっかり「Rさんありきの生活」になっていました。
2年と3年の前半の2年弱はあまり変わらない日々だったので、まとめて書こうかな。
人生の中で、一番サボりまくってだらけまくった2年だったと思います。
いってみましょーーーー。
ずっと彼と一緒にいたい毎日→彼の家に入り浸る(いわゆる同棲生活)→パチンコ屋さんにも同行&一緒にホールスタッフのバイトを始める
大学は、出席表を出すだけの講義が多くなってきました。
ときどき、朝とかRさんがやる気ない時はそのやる気ないのが伝染して、私も内心ちょっとだけ「大丈夫かな…?」というのを感じつつも
「まぁ、何とかなるやろ(ここでポジティブ笑)」みたいなノリで休むことも増えてきました。
で、さらにどんどん沼ってきます。
神戸に帰るのも、わずらわしくなってきました。
遅くても20時台の電車に乗らなきゃいけなかった気がする。
…いや、それでも十分遅いんやけどさ。もっと一緒にいたいわけよ。
次の日もどうせ会えるのに、バイバイするのが寂しくて嫌だった。
だから、「今日はこっちで泊まって帰るわ」っていう日が少しずつ増えてきた。
もちろん、数回泊まって帰るぐらいだったらまだ許してもらえてたけど、さすがに回数が多くなってくると「どういうことなん?」ってなるわな。
でも、その当時、両親の仲もあんまり良くなくて(というか、両親の仲なんて幼少期から良かったところとか見たことなかったけど)、
離婚するだの別居するだの、そんな流れでバタバタしてたから、何かその辺に関わりたくなかったってのもちょっとあったのかもしんない。
(今考えると、ここも「ポジティブ」とかの短所使いで「ネガティブな空間にいたくない」っての出てるかもしれん)
まぁ、家に帰ったって、親がいるだけでなーんにも面白くないし楽しくもないしさ。
20時の電車に乗ったら帰るの22時半ぐらいになって、翌日も早起きして6時過ぎに出発すること考えると、もう泊まった方が楽やんって気持ちにもなってた。
でもさすがに、「今日も…」「今日も…」ってなってくると、「いや、帰って来いよ」みたいに言われだして、親とバトルしたこともあった気がするなぁ……
あんまりその辺、正直覚えてなかったりするんやけどね。
徐々に赤穂に泊まる日の方が多くなってきて、親に何か言われても言うこと聞かない遅めの反抗期の私がいて、
気づいたらすっかり彼の家に入り浸る毎日になってたな。
同棲生活を助長した一因として、Rさんが私が家に入り浸るの、全然嫌がらなかったってのもある。
というか、どっちかというと、
「え?いやいやいや、今日ももちろん泊まってくでしょ?」ってノリ。
「帰らんで良くない?てか、帰さないけど?」みたいなノリ。
俺様気質みたいなとこがある人やったから、めちゃくちゃ私はそれに流されてた。
まぁ、お互いに「ずっと一緒にいる」がデフォルトで、その辺の価値観が似てたんやろね。
だからこそ、同棲生活が成り立ったんやなって思う。
そんなこんなで、気づいたら一緒に住んでました。笑
私は、一緒にいる人にめちゃくちゃ流されやすい性格。
そして、Rさんはサボり魔。
大学も行ってない日が増えてきて、ダラダラ二人で過ごす日が増えてきました。
じゃあ、大学に行ってない間、何をしていたのか?
そうだなぁ。
思い出してみよう。
たとえば、自転車で赤穂城跡の近くにある「あこうぱん」っていうパン屋でパンを買って、近くの千種川の土手でのんびり二人で食べてまったり過ごす。
そこそこの広さの、穏やかな川。
神戸にいるときは「川」というか、水辺の存在が環境的に近くに無かったから、すごく新鮮だった。
パンを食べ終わったら土手を上流まで自転車でどこまでいけるか走ってみたりね。
あと、夕方とか夜に、Rさんの自転車の後ろのバーに立って二人乗りで楽しげに近くの「主婦の店」っていうスーパーに買い物に行ったな、とか。
大学の近くの喫茶店のご飯が美味しくてコスパ良くて、よくランチで「レディースセット」を頼んで食べて、Rさんは先に食べ終わるから外でタバコ吸って待っててくれたなとか。
二人でそれぞれの原付に乗って片道2時間も3時間もかけて岡山の方面にツーリングしに行ったり、姫路の方に遊びに行ったり、色んな道使って色んな所に行ったなとか。
(一緒に住む頃には、原付で神戸の実家から赤穂まで数時間かけて走って持ってきてた)
大学はあんまり行けてなかったけど、二人の関係は良好でした。
ある意味充実してたのかも。
あと、彼はスロットが好きでよく打ちに行ってました。
一緒にいたい私はどうする?というと…
そりゃあ着いていきますよね。
パチンコ屋の開店前に並ぶ日もあれば、閉店まで店にいることもありました。
本来財布の紐はかなり固いタイプだったはずの私。
高校も大学も、一人で食べるご飯は100円前後のパン。
マクドのハンバーガーが単品で69円ぐらいだった頃、それを2~3つぐらい買ってお昼ごはんにしてた気がする。
服や靴といった身につけるものも3000円以上は高くて手が出ないし(1000円以下の良さげな古着見つけてルンルンするタイプ)、自分のお金でお菓子やジュースを買うのももったいなくてできなかった。
それなのに…
盲目なのはほんと怖いですね……汗
彼ほどはがっつり使わなかったものの、待ってる時間が暇すぎるので周辺をぶらぶらするのに飽きたらちょこっと打ったりするようになりました。
あっという間に1万が溶けていく感覚。
スロットに1~2万使えても、日常生活での金銭感覚は前と変わらないという二重のバグった金銭感覚。
危ないですよ、ホントに。
遊ぶだけなら演出とかゲームみたいで楽しいんですけどね。
そんな感じで、日常に「パチンコ屋」に馴染んできたこともあり、
さらに「一緒にいたい」が暴走して、
アルバイトもコーヒーガールから、Rさんと一緒に別のパチンコ屋さんのホールスタッフとして働くことにしました。
一緒に出勤して、一緒にパチンコ屋でバイトして、一緒に自転車か原付に乗って帰る。
(やっぱり時々カウンター業務で景品のミス出してしょんぼりすることもあったけど。笑)
遅番。
店の閉店後、日付が変わる頃のバイト帰りに、すき屋で食べるネギ玉豚丼は美味しかったな。
あとは、バイト先の人達とRさんが徹夜で麻雀するみたいなときがあって、いつものようについていって、麻雀について少し理解が深まったのも思い出なのかも。
役の名前とか点棒の数え方はわからんし弱々やけど、ざっくり麻雀は打てる?ようになりました。
牌を17個並べて、両手で端っこ持って、いい塩梅によいしょーって二段に重ねられたら嬉しいよね。
下手くそやからよくがしゃーんってやってもてあーあってなってたけど。
え?伝わるかな、これ?笑
今振り返ってパチンコスロット経験があって良かったなって思うのは以下の通り。
・目押しができる(7やBARだけじゃなく、スイカやチェリーも可能)
→日常生活全く必要なし
・スロットを打つ人の話が理解できるし、当時(吉宗やら番長やらルパン三世やらの4号機後半~5号機の最初の頃)打ってた人との会話が盛り上がる
→ちなみに、これで今の夫との初めてのデートは盛り上がりました。笑
・知識や情報、知ってる世界が広がる(必要かどうかは置いといて)
→テンション上がる歌に吉宗の姫BIGの歌とか、操BIGの歌とか入ってくる
→パチンコスロットを打ってる人への拒否反応はなくなる
→価値観「受容」の範囲は広がって入るかも(そうか?)
・実際に過去打ってたからこそ「パチンコとかスロットは辞めといた方が良いよ、怖いからね」って心から言える
→Rさんは全て実家からの余裕のある仕送りで大学も生活費も家賃もまかなってた
…はずやけど、家賃半年ぐらい滞納して赤文字で何か届いてたり、
借金もあったっぽくて気づいたら私の大学のための奨学金も抜かれてた経験あり(バイト代で何とか補完)
…それでも好きで付き合い続けてた私はやっぱり危険な恋愛脳だなって思う。汗
その他、日々ニコ動や2ちゃんねる、ゲームにどっぷり→卒業が危うい!?ピンチに陥る
パチ屋に行かない日は、Rさんちにあるノートパソコンだったり、大学のパソコン室でひたすらニコ動見てた。
2ちゃんねらーだったこともあり、めちゃくちゃ親和性の高いニコ動は私にとって癒しだった。
当時、ニコ動全盛期。
全盛期の頃の歌やら動画やら、ボカロやらは今でもめちゃくちゃ反応してニヤニヤしてまうし、大好きやし、今でも聞いて楽しくなる。(・∀・)ニヤニヤ
2ちゃん&ニコ動だけでなく、ゲームにもどっぷり。
特にハマったのがPSPのモンハンでした。
(スロットで勝ったお金をまたスロットに賭けるより、別のモノに変えた方がまだマシよね的な考えになってた頃にPSP購入)
カップ麺とかおやつとか買い込んで、数日家に引きこもった。
寝るのも忘れて徹夜で遊びまくった。
Rさんの友達も引き込んで3人とかで狩りまくってたなぁ。懐かしい。
そんな悠々自適な毎日を過ごしていた大学3年の夏前、衝撃的な事実に気づきます。
「え?この夏休みで行く予定だった実習に行けない……だと……?」
はい、実習に必須の単位を落としました。
おわりーーーー。
こんなにサボってたらそりゃ単位落とすのも当然なんですが、さすがにマズイんじゃね?と内心焦ってきます。
「ということは、4年に入ってから実習して、その他に必要なことも進めてかなきゃいけないってこと?あれ?私大丈夫か?卒業できるんか…??」
夏休みに入ってしまったらもうどうしようもありません。
3年の夏休み明け頃から、少しずつ軌道修正し始めます。
背水の陣!立て直しに奮起する大学4年→無事卒業
大学3年の後半からようやく少しずつ自分の危なさに気づき始めた私。
奨学金的に、4年で卒業は必須。
「社会福祉士」という国家資格も、来年か再来年で大幅改定される予定で、受かるなら今。
さて、どうする?
立て直しのために奮闘した1年(講義復帰、実習、国家資格の勉強、就活、卒論全部盛り☆)
まず、大学にちゃんと行こう。
当たり前のことを思い、実行。
他の4年は大体単位も取り終わっててゆとりのある毎日を過ごしてるっぽかったけど、私は1年半分ぐらいのサボりモードを挽回すべく、頑張ってました。
実習に必要な単位は絶対落としちゃダメ。夏までに取り切る。
そう決めて真面目にやってたらちゃんと実習に行けました。
姫路の福祉施設だったかな。
1つ下のメンバーに囲まれて、1か月実習やり抜きました。
毎日のレポートがしんどかったかな。
あと、卒業に必要な単位を取りきるべく、ちゃんと大学行って、必要な勉強して、試験受けて、コツコツ卒業までの階段を上がっていきました。
ちなみに、高校時代に「あの教授の授業を受けたい」って思ってた教授は、私が大学入学した時にはいたけど、
2年か3年でないと受けられない講義で、1年の時は断念。
で、2年上がったと思いきや退職?移動?されて、結局受けられなかったって言うね。泣
しゃーないけど、ちょっとショックやったよね。
心理学に興味があったから、1年の頃「心理福祉コース」で進めようと思ってかじってたけど、統計とかややこしい計算のレポート課題が毎回あって挫折したね。
「心理学」で扱ってる分野とか知識は好きやけど、とにもかくにも数字は苦手だ。
統計?t検定?母集団?分布?有意差?
……思考停止する。笑
大学の講義も受けつつ、1月にある社会福祉士の国家資格の勉強も進めていった。
大学の図書館にこもったり、赤穂の図書館まで足をのばしたり。
13科目。
社会福祉原論、老人福祉論、障害者福祉論、児童福祉論、社会保障論、公的扶助論、地域福祉論、社会福祉援助技術、心理学、社会学、法学、医学一般及び介護概論。
法学とか社会保障論とか苦手だったような。
でも、一時期大学に行ってない時期があった割によく頑張ってたと思う。
高校時代の「真面目さ」が復活してきた感じがした。
ドキドキしながら受験。
で、無事に一発合格できた。
その年の合格率は30%弱ぐらいだったみたい。
Rさんと一緒にいてサボりまくってた時代を知ってる教授には結構驚かれたような気がする。
そうやねん、私、実は真面目っ子やねんよ。
こっちがベースなのよ。
秋ぐらいに就活もした。
加古川かどこかで福祉フェアがあって、一人でそこに行った。
そしたら、たまたま立ち寄ったブースの人にめっちゃ気に入ってもらえて、「待ってますね!」って言ってもらった。
そういえば、ここでやり取りした後、面接ってやった覚えないな…。
え、でも一般的にちゃんとした面接ってするよね?忘れてるだけ??
実際このブースの福祉施設で新卒から2年勤めたんやけど…
就活の記憶ってこの福祉フェアに一回行っただけかもしれん。
ありがたいことに、就活のスタートが4年の秋っていうかなりギリギリなところやったんやけど、全然悩まんかったし苦労しなかったな。笑
そして、4年後半からは卒論も同時並行して進めていった。
テーマは「自己評価的意識(自尊心)と親子関係の関連性について」。
(大学時代のUSBを引っ張り出してみてみた)
セルフイメージとか教育心理学とか、愛着とか、そんなん好きやったみたいね。
ゼミの先生が心理学の先生だったこともあって、学生たちにアンケートを取りつつ、苦手な統計のこと教えてもらいながら何とか完成させることができた。
3年の後半から徐々に私の基本スタイル「真面目」と、強みである「目標志向」「達成欲」で全て突破!
やらなきゃいけないことてんこ盛りやったけど、全部クリアしたって思うと気持ちよかったな。
背水の陣だっただけに緊張感が一気に溶けてスッキリした。
彼との価値観の違い…ようやく目が覚め始め、彼を諦める
前述の通り、3年の後半から大学を頑張りだした私。
じゃあ、同棲しているRさんはどうだったかというと…
全然私に流されず、マイペースに今まで通りの生活を送ってました。
その頃の私は、Rさんと一緒に卒業したくて何度も声をかけてた。
ぼちぼち頑張らんとマジでやばいで?
卒業できんくなるで?
私も頑張るから、一緒に頑張ろ?
一緒に卒業しよ?
今考えれば、めちゃくちゃいらんおせっかいしまくってるよね。笑
そりゃうざがられるわ。
それでも頑なに断り、朝は寝坊し、パチ屋に行き、大学一緒に行けたと思いきや抜け出して近くのアウトレットショップのスロットコーナーで過ごす彼。
1年の後半のときみたいな「一緒にいたい」「周囲に仲良い友達もおらんくて一人ぼっちで何で私だけ頑張ってるんやろう」って気持ちはずっとあったけど、
「卒業する&国家資格を取る」っていう明確な目標があったからこそ、モヤモヤしたものを振り切って一人で頑張れた。
でも、ずっとずっと、諦めきれなかった。
好きな人に、変わってほしい。
一緒に頑張って、一緒に卒業したい。
大学4年。
ある日の夕方、大学に行くって言ってたはずのRさんがやっぱりいなかった。
大学内を探してもいない。
バイクも自転車もない。
連絡もつかない。
近くのアウトレットショップにもいない。
あー、またいつものパチ屋だ。
その日はなぜか、いつも以上にイライラしてた。
バイクでパチ屋に向かう。
ほら、やっぱりいた。
「ねぇ、何で大学来てへんの?来るって言ってたやん!何でまたパチ屋におるの!?卒業したくないん!!?もう、ほんま知らんで!!!?」
店内がうるさいこともあって、大きな声で言ったのかもしれない。
彼は、外に出ろ、と言わんばかりにスッと立って、店外に出ていった。
私は、ついてった。
店外に出て、私はまた詰め寄る。
そしたら、胸ぐらをつかまれた。
「うっさいわ!お前は俺の母親か!!?母親ちゃうねんから、ほっとけや!!!」
あんまり覚えてないけど、そんな感じだったと思う。
今考えれば、たしかにそうだ、と頷くしかない。
初めて大声で怒鳴られ、胸ぐらをつかまれて、怖かった。
彼は、パチ屋に戻っていった。
それまでも、何度もパチ屋にいるRさんに声をかけては動かない様子を見て悲しくて悔しくていっぱい泣いてきたけど、
一番辛かったし、
「ああ、もう無理なんだな」って心底思ったし、
「たとえ自分や世間一般的に正しいとされているようなことだとしても、強要するのは良くないんだな」って学んだし、
「人は、いくら周囲が声をかけても、本人が動こうと思わなければ動かない」
「人は、その人が本気で変わろうと思わなければ変わらない」
っていう、今の根本にもある価値観を得た。
「私は○○した方が良いかなって思うし、私だったら○○するけど、人それぞれやからどうするかはあなたに任せる」
…みたいなスタンス。
その人に丸投げする感じ。
実際、その言葉をかけて、冷たいって言われたこともある。
ストレングスファインダーを学んだ今、振り返ってみると「成長促進」、がっつり出てるんかもな。
今でも時々、人に対して親でもないのに親みたいな心配してまうときあるもんな。余計なお世話ってわかってるねんけど、つい、ね。
でもその経験もあって、本当はもっと出やすかったかもしれんけど、ある程度抑えられてるんかも。
あ。ちなみに、胸ぐらつかまれてケンカした後険悪になって終わったってわけじゃなく、
まだふつうに一緒に住んでて、ふつうに仲良く過ごしてたみたい。
(今日実家に帰って当時の日記見つけて読んでみたけど、全然何事もなく3月の卒業式まで楽しげに過ごしてた様子でした。なんじゃそら。笑)
卒業式。
私は赤穂の美容室で初めての羽織袴を着て、髪の毛をセットして、卒業した。
成人式には行ってなかったから、こういう正装は初めて。
神戸から両親も来てくれた。
卒業できなかった彼は、会場の外にいた気がする。
彼に4年間本当にありがとうっていう感謝を伝えて、自分の荷物をまとめて、両親と共に神戸に帰った。
ケンカ別れしたわけじゃなく、自然に、「卒業」っていう良い形で離れられたんだと思う。
噂によると、彼は大学に8年いたらしい。
教授とは仲良かったから、きっとたくさんの協力があったんだろう。
よく卒業できたなって他人事ながら思う。
何人もの友人を送り出したんだろうな。
甘いのも、苦いのも、どちらもたっぷり味わった大学4年間でした。
新たな世界、社会人1年生へ…
実家に戻り、春から社会人になります。
大学と社会人の間の春休みに、電話のコールスタッフの短期バイトしたな、そういえば。
あと、教習所に通って、AT車の免許と中型二輪の免許取ったな。
父親はタクシーの運転手でその頃は自営業やったから、自家用車もタクシー。
運転慣れてないうちは父親に助手席座ってもらって練習に付き合ってもらったっけ。
がっつりタクシーの形なのに初心者マークつけてるの、傍から見たら滑稽やったやろうな。笑
そうそう。
あと、書いてなかったけど、4~5歳ぐらいのときから父親のビッグスクーターの後ろに乗って移動するの、風を感じてめちゃくちゃ最高に好きでした。
(やから、原付もめっちゃ好きやった)
父親が年を取ってきて、もう乗らんから良かったら譲るで?って声かけてくれたこともあり、中免GET。
250CCのホンダのフォルツァもGET。
あと、中古で車検込みで10万ぐらいの可愛い車も買ってもらいました。
スバルのvivio Bistro。
公共交通機関で行くにはかなり不便な場所にある職場やったから、車とバイクに乗れるようになっておいて、通勤の準備は万端。
1年目。バイトとは違う環境。
さて、またここから波乱が始まります。
今回はここまでにしとこうかな。
……て、えっ。13,000文字……!!?
こわっ………
いつも通り、ダラダラ独り言垂れ流しまくったnoteになりました。汗
ここまで読んでくれた人、すごいと思います。。。
いつも、ありがとうございます…!!!!!
また来週、更新できるのを目標にボチボチ進めますね~。
圧倒的感謝っっ!!!!