目の病気で見えるようになったモノ
2020年7月に網膜剥離(もうまくはくり)が発覚した。
突然すぎて驚く間もなく入院をした夏。365日のなかで一番出勤していたかった担当の大プロジェクト当日も入院期間内だった。同僚への引継ぎやら人生初の入院手続きやら、入院してからもパジャマ姿のまま高額医療補助申請したりバタバタとしているうちに私の左目は手術の後遺症でこれまで通りに見えなくなっていた。そんな覚悟を据える間もなくこの状況になったのだ。
網膜剥離は突然襲ってくる目の病だ。前兆が表れてから失明するまでの期間は早くて1週間かからない人もいる。私の場合は症状の出た部分が不幸中の幸いで失明は免れた。しかし、「目の奥のはがれてしまった網膜をくっつけているからなるべく動かないでね、電動歯ブラシの振動も厳禁」という想像も絶するこの世で一番繊細なのではないか?という命令をされ、14日後に退院をし私の片目生活が始まった。電動歯ブラシもトイレでの力みも禁止て…どうやって生きていけというのよ。看護師さんたちは「退院おめでとう」と声をかけてくれるけど、ちっとも喜べなかったし、むしろ明日から始まる未知の生活に不安でいっぱいだった。
人間の順応力というものは本当に凄い。退院2日後には30センチもあるロングヘアの洗髪において顔にお湯が一切かからない方法を生み出した。もちろん洗顔も顔の下半分のみで目の周りや額など上部分はウエットティッシュで済ませる。スマホなどもちろん片目で使用するし、1日4回指す目薬(しかも10分置きに4種類)もミスなくこなせるようになっていた。一人暮らしで一番辛かったのはスーパーでの買い物だ。網膜がはがれてしまうので、重たいものを持ってはいけない。というか、踏ん張って体に圧がかかること全て禁止。この状況になってみてわかったが、生活していく上で何かしようとしたときにほぼ踏ん張りが必要だった。
自分のファッションに合う眼帯も片目を駆使しネットで必死に探した。外に出たらみんなが同じように口に布を当てているこのご時世なのは助かった。マスク×眼帯もメンタルはだいぶ辛かったけど。
眼帯が今後は私のファッションの一部になるだろうから、妥協はしたくなくかなり時間をかけて探したのだが見つからない。私はInstagram上で見つけた沖縄在住の手作り商品を売っている女性にメッセージを送り、眼帯を作ってもらえないか相談をした。1週間後には可愛い眼帯と温かいメッセージ、なんと手作りマスクまで送ってくださった。大丈夫な振りをして退院してからも過ごしていた私の緊張感がぷつっと切れた瞬間で、見ず知らずの方からの贈り物に涙が止まらなかった、本当にありがとうという気持ちがぴったりだった。注文したものを送ってきただけでなく、しっかりと作り手の方の温かさを感じること。人に幸せを提供する仕事をしていた私は、これこそが自分たちが忘れてはいけない期待以上の優しさだと心に留めたし、現場復帰後にスタッフ全員にこの一連のことを共有した。
そんなこんなの生活を続けて5ヶ月が経とうとしている。
今では両目で生活が出来、視界のゆがみや光が差すこともなくなった。唯一残る目を動かすときの違和感とはだいぶ長い付き合いになりそうだ。大好きだった車の運転もまたいつ出来るかわからない。
ここまで日常復帰できるまでの5ヶ月で、私の人生観は大きく変わった。大病をすると人が変わると聞いたことがあるが、本当にそうなのかもしれない。そして、それを忘れてはいけないと思っている。あんなに辛い期間を過ごしたのに、日常生活に戻って少ししか経たないうちにそのことを忘れそうになっている自分にも気づいた。
まずは、朝起きて両目が見えることの奇跡、尊さ、そして片目生活経験者だから言える現実的な感想「両目って本当に便利!」。片目だと視界が狭まるだけでなく、取りたいモノとの距離感も狂うのだ。曲がり角で曲がれると思ったらぶつかったりもする。手を伸ばしたらそこにちゃんと届いて、曲ろうとしたら本当にすんなり曲がれるなんて、両目最高!!
マスク習慣にあやかったということもあるが、目の周りに不要不急の粉をまかないためにもアイメイクを封印した。シャドウもマスカラもアイライナーも。化粧は肌のベースメイクと眉毛を描くだけ。仕事現場の同僚は私の幸薄そうな雰囲気に気を使っただろうか、特に薄化粧には一回も突っ込まれなかったけど。(年上のお姉さんに薄化粧ですねは口が裂けても言えないか)それがあってか、ここ数週間で復活させた休日だけのフルメイクに自画自賛!私ってこんなに綺麗だったっけ?♡と鏡をながーい時間見て乗りたい電車に遅れそうになった事実あり。初めてメイクを覚えた女の子並みの感動再来。
よくお酒を一緒に飲む先輩ご夫婦はこんな私のエピソードを聞いて笑わずに「逞しさがはんぱない」と言ってくれた。重たい話にしたくなくて、私が笑いながら話したのに対し「いや、そうじゃなくてあなたの生きることに対しての逞しさがはんぱないってことなんだよ」と真っすぐに言ってくれた。そのご夫婦は酔っ払うと毎回記憶をなくす。その日の別れ際私に
「あなたが見えなくても、わたしたちからあなたが見えているから大丈夫」と
両手それぞれを丸く輪にして目に当て、私を覗く仕草をしながら帰った。きっとあの酔っ払いおふたりは覚えてないだろうけど、私は一生忘れない。
仕事復帰祝いをしてくれた知り合いの年下男性との帰り道、私が乗る電車が着くホームまで送ってくれた彼が、待つあいだそっと手をつないでくれた。彼にとっては何の気もなく起こした一瞬の行動、今では覚えてないかもしれない。でも私はその場で出そうになった涙を一生懸命こらえて電車に乗った。いまでもそのときの胸の高鳴りと電車に乗ったあとずっと夢心地だったことを覚えている。
異性と手を繋いで泣いてしまうなんて、どんな心境?どれだけピュアに戻ったのですか?と言われてしまいそうだが大げさではない。純粋に、嬉しかったの。だって、こんな当たり前だった出来事ひとつひとつが、「もう私は経験できないかもしれないな」と術後のあの夏、私は本気で一度は覚悟したから。
手も足も自由に動かす能力はあるのに、目ひとつが見えなくなるとそれらも動かせなくなってしまったし、目の形も変わってしまったし、写真を撮るときも目線によっては醜い仕上がりになるから...結構深刻に考えていたわけなのです。接客業なのでこれまで通り100%働けないうえに、もう男性とドキドキできる瞬間なんてそれ以上の贅沢だと思ってましたから...。
そしてやってきた年末は私の大好きな駅伝シーズン。ラジオもあるが、やはり自分の目でこうして選手たちの走りを見れるのは本当に嬉しい。この夏は元々ラジオ好きだった自分に感謝したが、やっぱりスポーツは目で見たい。
社会人と違い、お金が発生しなくともあれだけのチカラを発揮する姿と純粋無垢な仲間への想いを画面越しに伝えられたら、涙しない大人はいないだろうと思い始めたのは自分も社会人になってから。気が付けば仕事終わりからの前泊入りで相模原市役所の優勝報告会にも足を運んでいたほどだ。(駅伝絡みのイベントてなぜか朝早いから間に合わないのですよね)実業団に進んでからも彼らを応援していた私の駅伝熱も、この目の病気で更に膨らんだのだと思う。
「リアルに頑張る姿」を見せられること程、生きる勇気を貰えることはないから。これは長くなるからまた別途綴ろう。
起きて目が見えること、普通にお風呂に入れること、大好きな人たちと楽しく笑い合えること、明日も仕事があること、勇気を貰える瞬間に立ち会えること
どれもが贅沢すぎるあれこれだった、生きていくうえで。
突然襲ってきた網膜剥離は、人生の中で一番私を闇の中に引きずり込んだけれど、こんなにも幸せなあれこれに囲まれていたんだという現実が見えていなかった私への人生最大の贈り物だ。
日常の中に、手を伸ばせばすぐそこに転がっている幸せが見えるようになった2020年。前よりはちょっと見にくいけれど、今のこの目で生きていく方が私は絶対良い。
おわり*.
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