Webで「わたしはパパゲーノ」を読んで。
noteに文章をアップしてみていたこともあったけど、何ヶ月か前に全部消してしまった。原因は死にたいと喚きちらして、Twitter的にnoteを使ってしまったからだった。
死にたいって感情は辛い。何かがトリガーになって、脳みそがカンカンのヤカンのように沸騰する。そしたら怒り悲しみ恥無力感無価値感、全部の歯車がガチッと噛み合い、自分の脳みそを削ってくる。削られていく最中、出来ることと言ったら頭の中で自分を殺すことである。それが一番楽になるから。
あ〜こんなこと書いて恥ずかしい。死にたいって思う自分はとっても認めてるけど、こんなことを外に向けて発しようとしちゃう自分はきっと厨二だと思われちゃうから恥ずかしいね。だけど誰かに自分を見つけて欲しかった。そうするには自己表現するしかなかった。
どうしたって感情にも優劣がある。死にたい気持ちって、どう考えても生きたいという気持ちより劣る。どう考えても尊重されていない。
圧倒的に、こう、一人一人の感じ方が違いすぎるのだ。言葉の重みが人によって違いすぎる。全く死にたいと思ったことない人いるだろうし、そんな考え大嫌いって人も、理解できないって人もいるだろうし。その逆で、ずっと死にたい人もいるし、その心の声に従ってしまう人もいるだろうし。
そんな中、ピカピカと輝く「生きたい」という光は、「死にたい」を滅菌する。我々は悪いカビのように漂白剤をかけられる。ここが世知辛いところ。無闇矢鱈に「死にたい」なんて言おうもんなら世間ではイタイ奴なんだよイタタタ…
世間との足並み揃えるために脳死でイタタタとか言っちゃうよ。でもそんなこと思っていないよ。私自分のことも人のこともイテーって思いたくないよ。自分の脳みその中で自然発生するこの気持ちを「私より辛い人がいるから」とか「喪女が更にキモいこと言ってんじゃねえ」とか、そんな理由でグリグリ潰したくないよ。だって私、悪くない!脳みそが勝手に考えてることなんだから…。AIみたいに自動生成しちゃう類のものなんだから。生きづらさを学習したAIが「死にたい」って呟いちゃうみたいなもんだよ。
そんなこんなで脳みそを勝手にさせといたらまた脳がカンカンのヤカンになっていく。そういう時はひたすら「殺す!」とか「死ね!」と自分に言って聞かす。裸で丸まっている自分を想像して背中やケツに包丁やらなんやらブッ刺していく。出来るだけ勢いよく突き立てる。血抜きして捌くこともある。落ち着く。安心する。これが私の「死にたい」って気持ち真っ最中である。そしてヤカンが冷めてきたら「朝起きたら死んでますように」と泣きながら祈る。セットで「思い込みや刷り込みで人は死なないんだよバーカ」と教えてあげる。もちろん朝起きたら死んでたことはない。
他にも、死にたくなった時はとにかく脳は情報を求める。過去にあった凄惨な殺人事件をベロベロ調べたり、いじめやいじめっ子いじめられっ子の事件や現在を検索して勝手に憤ったり、本当性格悪くなる。大体何故か即身仏の画像に行き着いてスンっとなる。そんで、「朝起きたら死んでますように」とシクシク泣きながら祈って…の下りをやって寝る。こういうのって大体夜だ。死にたいって思うのって夜だ。昼の間は同じ負の感情でも違う言葉で言語化される。自分のこと強烈に恥ずかしい存在だと思うとか、皆んなが私のことつまんなくて使えない奴だと思ってると感じるとか、私って不潔でキモくないかな?とか自分の人生夢も希望もなくてつまんないって感じて切なくなるとか、そういう昼の感情が、夜になるとギュッと固まって「死にたい」になる。あるいは生理前に爆発的に増幅して「死にたい」となる。
私は本当の絶望を知らないんだと思う。ただ、ドン底とかそういう落ちる波を経験してるだけで。ある日友達に言われたことがある。「絶望した人は死んじゃうから、この世に存在してる人は皆完全には絶望してない人だよ」って。だから生きてる私には希望があるんだ。そしてこうも思っていた。だからと言ってはなんだが、自ら死に至ることって、自ら死を選んだ人への救済なのだと。死が報われるために、そうであって欲しいとすら。
自殺は最後の砦という名の救済。23歳までそう思ってた。その考えが揺らいだきっかけは、メンターだと思っていた人が自殺してしまったことだった。その人は自ら死を選び本当に死んでしまった。私はその人の死を救いだと思えなかった。ただひたすら「取り返しのつかないことだ」と思った。
だから24歳になった今、私の中での自殺は良し悪しもクソもなくただひたすら、「取り返しのつかないことであるという事実のみが浮かび上がる」ものである、ということになった。
こんなに究極に取り返しのつかないことって、ある?その人にとっても周囲にとっても。私は世の中に対して、祈るしかない。どうか取り返しのつかないことに、なりませんように。なりませんように。苦しんでいる人の苦しみが無くなりますように。無くなりますように。どうかこの二つのお祈りが矛盾しませんように。しませんように。
私はもう本当、性格悪くて横暴で。でも頭の中ではすっごく世界中の人たちに優しかったりする。心の中にちっちゃいものクラブのおじさんとか小人を飼ってて、おじさんや小人が死なないようにすっごく大事にしてる。(他人の発言に傷つくと小人の300人単位の村が消滅する。)他人の中にちっちゃいものクラブを見たり感じたりするセンサーが備わってるから、同類項だと思った人をすっごく応援する。応援している。本気でどんな人も潰されない世の中になって欲しいと思っている。全ての人にとって逃げ道の多い世の中になって欲しいと。
だけど実際のところ自分には全然友達や恋人いねーし(気が合う人としか友達や恋人になれない
とか言ってるとこうなるの図)一緒に住んでいる家族にはつっけんどんで全然優しくないし。私の優しさって、理想だけで全然実践的じゃない!!なんだよ、アイデンティティ揺らぐじゃねえかよ。
明日からちょっとずつちょっとずつ頑張ろう…。優しい人になるために。ノロマなんでちょっとずつ戦法が似合ってますから。明日からちょっとずつ優しい人になりたい。そんでもってなるべく自分の気持ちを殺さない方向性で…。つまり楽したいってことだけど。横暴な性格のまま生きていたくないよ。瞑想もしなきゃな。前頭葉でっかくしたいな。ってこれも口だけ?
って、さっきから私の思考ってめっちゃお喋りで闇雲ね。きっと生き方も闇雲なのね。というか闇鍋。闇鍋なんだよ私の人生。自分のことなのに「どうやら自分の思考回路は闇鍋らしい」としか分かっていない頓珍漢さがある。あと何十年も生きるのだとしたら、少しは闇鍋の具やスープの材料くらい分かって生きやすくなるだろう。その努力を辞めないことくらいが私のアイデンティティかもしれない。アイデンティティについて考えることがアイデンティティ?自分大好きかよ!でもその作業、死ぬまで続けるんだろうな。生きやすく生きるためのマイナーチェンジを毎日積み重ねている、それが私のアイデンティティだったのか。
おわり💩
追:本当に本当に読んでくださってありがとうございます。泣
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