ある新聞記者の歩み 17 誰も首相になると思ってなかった中曽根康弘の実像(上) 1面トップの特ダネが政治資金を動かした?!
◇中曽根担当になるのを喜べなかった背景にトラウマ
いやあ、実はあまり気乗りがしなかったですね。通産省担当時代の“中曽根通産大臣”へのトラウマがありましたから・・・。
この連載の第一次石油ショックの時にはしゃべっていないんですが(第6回「降ってきた石油危機 しんどいながらも記者として得た幸運」参照)、中曽根さんへの不信感があったんですね。
その内容は20年経って経済部長時代のことですが、当時のことを頼まれて電気新聞に連載した「証言第一次石油危機」の中で「石油危機よありがとう」というタイトルの文章の中で書いています(「証言第一次石油危機」として1991年日本電気協会新聞部より刊行)。この本の原稿の中にもチラリと触れましたが、たんまり政治資金を電力業界から集めるのに、僕の書いた原稿をダシに使った形跡があるんです。はっきりと証拠があるわけではないので、電気新聞の連載原稿でも“政治資金”の話はぼやかされてしまいました。
そうね。ただ2年前だったか、関西電力が原子力発電所を立地している福井県高浜町の助役(故人)が、関電のトップ役員らに高額の付け届けをしていたり、助役の在職中に億単位の金額を払っていたのが明らかにされましたよね。あの話を聞いて、電力業界の体質に変化ないなと思うと同時に、中曽根さんの顔を思い出しましたよ。
◇石油ショックで電力会社が窮地に
1973(昭和48)年10月6日、アラブとイスラエルの第4次中東戦争が勃発しました。それで石油価格を戦争前の1バーレル3ドルから、4倍の12ドル近くまでにするという値上げを発表したんですよ。加えて石油輸出量を月ごとに削減して、イスラエル支持国へ石油を輸出しないというのです。11月から25%の削減、イスラエルへの支持をやめなければ、それ以降毎月5%のプラス削減を行う、日本もそれに含まれるというんですから日本中がパニック状態になりました。そのことは、第6回で話しましたね。
とにかくアラブの立場を理解する日本の立場を説明して、日本への石油禁輸措置だけは解除してもらおうというわけで中曽根さんは中東訪問をするんです。その影響をまともに受けたのが電力会社でした。火力発電が主力で、その頃はCO2問題などありませんでしたから、石油を使い放題で発電していたわけですから、石油輸入価格が上がります。公益事業ですから、価格は政府(通産省)認可で据え置きのまま。「このままでは倒産する」、「電力会社は日銀特融を申請するかもしれない」というような発言が東京電力首脳や、電気事業連合会会長からかポンポン飛び出すほど、経営的にひっ迫するんですね。とにかく一日当たり億単位の赤字経営となると主張していました。
確か関西電力と四国電力がその年の石油ショック前の6月に10年ぶりの料金値上げ申請を行って、石油輸入価格の動向がはっきりしない11月に20%強の認可が下りたばかりでした。残りの7電力は石油危機の影響を真正面から受けたわけです。
そして4月に関電、四国電も含めて9電力平均62%アップという、とてつもない一斉値上げ申請を行います。最終的には5月末に平均56%の値上げで決着するんですが、ホントこの取材は大変でした。ちなみにこの時の値上げ申請・認可を担当したのが、今の岸田文雄首相の父上の岸田文武さん、退官後、衆院議員になられます。当時は電力・ガス事業などを担当するエネ庁の公益事業部長です。毎朝、毎晩、原宿の岸田邸には夜討ち朝駆けしました。でも口は堅かったですね。密かに“ブリキのパンツ”というあだ名をつけたほどです。その頃、息子の文雄さん(現首相)さんは開成高校に通っているという話を聞いたことがあります。
この時、値上げ認可は、先に料金値上げを認められている関電と四国電を含めて一斉認可するのか、2社は遅らせるのか大問題でした。
◇中曽根通産相からつかんだ特ダネが大きな金を動かした?!
確か5月の連休中の休みの日だったと思いますが、当時、目白にあった中曽根邸に夜回りをしたんです。偶然僕1人と中曽根さんのいわゆるサシ(2人だけ)で、応接間で向かい合いました。中曽根さんのソファーの後ろの壁には、有名な版画家・棟方志功の大きな雄渾な字と絵が書かれた掛け軸がかかっていたことを覚えています。テレ東の「なんでも鑑定団」に出せば、何百万円の値段がついたかなあ(笑)
その時、中曽根さんに「電力料金の値上げは、関電と四国電は遅れて認可、残りの7電力を先行認可する2段階方式で行うか、9電力一斉に行うのか?」聞いたんです。そしたらかなり明確に「それは2段階だよ」といったんです。「これは1面トップ頂き!」とはやる心を押さえて経済部に電話し、会社に上がって原稿を書きました。
「通産省首脳によると、電力料金の値上げは2段階で行うことを明らかにした。」見事に翌日の紙面の1面トップになりました。
ところがその3週間後、発表されたのは9電力一斉認可でした。当方の特ダネは完全な誤報だったわけです。「こん畜生!」と思ったんですけど、途中経過だし、通産大臣の発言なんだからしょうがないかと納得していたんです。ところがその年の暮れの頃か、親しかった関西電力の“政治部長”といわれたある役員と会うことがありました。だいぶ石油ショックの騒ぎも落ち着いたころでした。
彼が言うには「佐々木さんの二段階認可の原稿、あれは高くついたんですよ」
「どういうこと?」
「とにかく一月でも認可が遅れればこちらは数十億円の赤字、必死でしたよ。」
「中曽根さんにかなりのことをしたわけですか?」
「うん、まあ、そういうことですかね」
「やられた!」という感じでしたね。僕が書いた記事をめぐって巨額な政治資金のやり取りがあったことを示唆されたわけですから、ショックでしたね。新聞記者、その書く記事はすごい影響力があるんだ、また、はやる若い記者の特ダネ意識をくすぐって書かせた記事が、政治資金のネタになるんだ。ホント目からウロコでしたね。新聞記者って本当に怖い仕事だって思いましたね。政治家が大臣を目指すはずだと納得しました。
まさか、それほど度胸ありませんよ(笑)。担当した直後の挨拶で「通産省担当の頃、石油ショックの際、一緒に中東に同行させてもらいました。」くらいの話はしました。中曽根さんもさるもので「そうだったかなあ」ととぼけていましたけどね。
でも担当中、中曽根さん本人とはよく遊説に同行したり、その際の演説を聞いたりしました。二人きりでよく話もしましたよ。FEN(駐留軍放送)の外国語放送を一生懸命聞いたりしてましたし、勉強家で世論の動向、人の意見をよく聞くなど政治家として優れた人物と思いました。あの当時、中選挙区で選挙は派閥応援の選挙でしたから、金はかかるわけで、その中である意味で役職を利用したぶきっちょな金の集め方をしていたんではないですかね。中曽根さんというと、若い時の“政界の青年将校”、“政界の風見鶏”などといわれ、金銭面での話は、土地ころがしで巨額な政治資金をひねり出す田中角栄さんの陰で聞こえませんしたけど、数十人の代議士を抱えての政治資金をかき集めるには、それなりの苦労があったと思います。その一面をぼくが垣間見たという事かもしれませんね。
でもちょうど、次男が生まれた時で新宿・落合の聖母病院に入院中の女房に大きく名前を書いた胡蝶蘭が届けられたのは、ここまで気を使うのかと、ビックリしたなー。看護婦さんも驚いていたようです(笑)。
◇グスタフレーションとは? 中曾根派担当の奇人
1970年代の終わり頃のことですが、中田章さんと言って、大阪の社会部出身だった人です。僕より3年先輩かな。後で地方部長、編集局次長などを歴任します。彼が中曽根派のキャップで、僕と三年後輩の中曽根さんと同郷で、群馬県高崎市出身の、後に特別編集委員になる松田喬和君と3人で持ってました。
あと鈴木棟一(とういち)さんという僕より1年先輩の、早稲田出の体の大きな人も遊軍で担当していました。鈴木さんは退職後、政治評論家として活躍、サンデー毎日、週刊ダイヤモンドなどに政局の連載を持って「永田町の暗闘」というシリーズ本を確か8冊も書かれています。
憎めない、面白い人で、“スズキのトウさん”と呼ばれていました。中曽根さんに言わせると「トウさんは、昔の政治記者の雰囲気を持っている」と評されていました。鈴木さんは、中曽根派の代議士の議員会館の事務所に電話する時「スズキだ」というんです。「どちらのスズキ様ですか?」と秘書がいうと、「誰だ?オレの声を知らんのか!」と怒鳴って名前を売っていました。まあとにかく名物記者でしたね。
そうそう思い出した。トウさんのエピソードですが、40年前の話ですからバラしてもいいでしょう。第2次石油ショック(1979年)の頃、鈴木さんが大平番で、自宅懇談の時に「最近、日本経済はグスタフレーションでたいへんだっていう話ですがどうなんですか?」と質問したそうで、それに対して大蔵省出身で経済問題に見識のある大平さんが、少し黙って「トウサン、それってもしかしてスタグフレーション(不況下の物価高)のこと?」と答えると「そうとも言いますね」とシャアシャアと答えたというのですね(笑)。そういう笑い話っていうのがゴロゴロありましたね。政治家の方にもあるし、新聞記者にもありました。
中田さんと、僕は政治部のいわば外様で、ほかの福田派とか大平派、田中派なんてのは5人くらいで持っていて、他の福田派、田中派、大平派は支局から直接政治部にきた生きのいい記者がほとんど。キャップもそれぞれ政治部のエース、政治部長候補という感じでしたね。
こういう人事配置を見ても、当時の自民党内での中曽根派のポジションが想像できると思います。当時サラリーマン社会では、55才定年間際のおっさん社員を“窓際族”と呼ぶことが流行っていました。密かに僕は、中曽根派なんてのは“窓際派閥”だなんて言ってました。田中派の重鎮の金丸信さんなんて「オレの目の黒いうちは、あんなキザナ奴は総理として官邸入りさせない」と公言していたほどですからね。だから、喜んで担当する記者はいなかったんじゃないかなあ。若い頃の中曽根さんに深く食い込んでいたのは、読売のナベツネさん(渡辺恒雄氏)と一緒に担当していた、後に毎日の政治部長、社長になる小池唯夫さん位しかいなかったかもしれません。朝日新聞ではテレビ朝日の専務になる三浦甲子二さんでしたかね。小池さんが中曽根派の毎日新聞での窓口だったように思います。
でも僕はいわば外様で、あまりそういう政治部の複雑な背景を知らなかったから、取材は楽しくて、おもしろかったですね。
◇政治家にとって大きい秘書の役割
それは全然無いです(笑)。彼がなるかもしれないという予感があったら、ぼくは政治部に残ってたかもしれません、中曽根首相時代の官邸キャップになっていたりして(笑)。やはり政治の中心は“三角大福”(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)の四大派閥で回っていたので、弱小派閥の中曾根派が天下を取るなんて考えられなかったですね。それだけに政治部の取材の中心は、この四大派閥、特に田中、大平、福田派を中心に回っていたように思います。
それこそ“窓際派閥”だなんて、さすがに中曽根氏本人には言ったことないけど、秘書さんたちと飲んでるときだったか、筆頭秘書の同じ群馬県人で若い時からずっと中曽根さんを支えてきた、だいぶ前に亡くなられましたが、上和田義彦さんに向かって「どうせ中曽根派は自民党の窓際派閥だから」と言ったことがあります。そうしたら、そのときは何も言わなかったですが、当時、政治部長だった小池さんに「あんなことを言わせないでほしい、困る」と頼んだらしいのです。それで、小池さんから直接だったか、気をつけてくれと言われました。
そのころ、政治の流れは現職の大平正芳首相の総選挙中の突残死(1980年6月)で、鈴木善幸後継首相の時代です。鈴木首相は明らかに首相の器ではないとみられ、いずれ三角大福時代から“安竹宮”(安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一)に移るというような時代が来そうとささやかれ始めたころでした。上和田さんにしてみたら“安竹宮”時代のつなぎとして中曽根さんの時代を期待していたと思います。「親分の中曽根を外されては困る」という想いだったんでしょうね。そういう意味ではひどいことを言ったと思います。
上和田さんは、なんか田中角栄のような人で中曽根さんとは全く違う肌合いの人でした。でも常々「中曽根を支えるのがオレの天命だ」といっていたようです。中曽根派担当記者はあまり政局の情報を教えてくれない、というより情報の集まらない中曽根さんへの不満を受け止めて「オヤジ(中曽根さんのこと)はそういう人間なんだ、政局情報より政治家として日本国をどういう方向に持ってくかに関心のある人間なんだ。理解してくれ」と説得されましたね。
あの人を見て、政治家にとって秘書の役割は大きいなあ、と思いました。中曽根さんが首相になれたのも、上和田さんの縁の下の支えがあってのことだったと思います。首相時代、首席の総理大臣秘書官になりました。うれしかったでしょうね。地元の選挙民の陳情、金集めなどのダーティーな部分は、ほとんど上和田さん一人で背負っていたんじゃないかな。文字通り中曽根派の “金庫番”でしたね。冒頭に話した石油ショックの時の関西電力との実務的なやり取りは、上和田さんがやられたと思いますよ。
◇新聞社の社長になるのは政治部出身者向き?
こう話しをしていると政治部と経済部は、いまさらながら文化がかなり違うと言えますね。社会部もかなり違うでしょうが・・・。そういう意味ではこの前の東京高検検事長の黒川さんの担当記者が、記者の自宅でマージャンを囲んだなんていう事件は、取材先とべったりという意味では政治部と似てますね。
僕はやりませんでしたけど、政治家とのマージャンなんてレートや賭ける金額のケタが違いますから、とても貧乏会社の毎日の記者の財布では参加できないですよね。でもテレビなどの民放の記者は、時々参加していたようですね。
とにかく政治部は取材先の政治家との人間関係を重視して、そのフトコロに入って行けばいずれ政局で内閣の替わる時などに役に立つという感じですね。担当の政治家が偉くなればなるほど、それがまた政治部内での自分のポジションをアップするのに役立つという感じかな。政策論の取材もその裏にあるんですけど、それも政治家対政治家の派閥の論理という“色メガネ”を通して見る、むしろそちらの方を中心にしているんで、政策の本当の意義というのはあまり重要視していなかった感じがします。でも官庁、特に外務省担当などは、純粋に日本の安全保障をどう保つか、という真っ当な観点で取材をしていたと思います。
経済部の場合は、その時々の事件で付き合う官僚、民間会社の役員、人間が変わっていきますから、ある意味で取材先との関係はクールな面がありますね。人間関係より政策重視といった方がいいかもしれません。そのため原稿のうまいへた、分析のうまいへたが、記者の評価基準のウエイトの重さにかかってくるように思います。
以前、東京の中央区長を通算8期(1987~2020年)やって引退した共同通信政治部出身で官邸キャップまでやられた矢田美英(81)さんと飲んだ時、「新聞社の社長には政治部出身者が向いている」と言われたことがあります。つまり僕なりに解釈すると、経済部みたいにキチンとした理詰めの原稿を書くより、政治部のように人間関係を重視して付き合いを深めて政策を理解していく方が、経営をやっていく上で社長などには向いていると言いたかったんだと思います。自分の33年間の区長としての区政運営の体験を踏まえていわれたんでしょうね。
(下に続く)