メディアあれこれ 12 未完の日本版“コーヒーハウス” 明治初期、つかのま輝いた読者コミュニティ
◇明治維新をまたいだマルチタレント仮名垣魯文が開いた“カフェ”
仮名垣魯文(かながきろぶん、1829年=文政12年生)という人はもっと注目されてよいのではなかろうか。戯作者(げさくしゃ)といういわば大衆小説家出身の新聞記者で、ゴシップ記事をたくさん書いた人となれば、メディア史やジャーナリズム史の主流には登場しにくいのかもしれない。しかし、明治維新をはさんで、幕末と明治をまたいで活躍した魯文の波瀾万丈の生涯は、変動期の日本社会を舞台に、メディアの変化も反映していてなかなかエキサイティングである。
現在の銀座7丁目あたりにあった酒販店で奉公をしつつ、山東京伝、十返舎一九、式亭三馬などの戯作本に読みふけったのが文筆に生きる魯文の原点だった。その後、経済的には厳しい時期が多かったが、戯作者としての地位を徐々に確立していった。
維新後の明治4年に、魯文は『安愚楽鍋(あぐらなべ)』という戯作本で出世作の評価を得た。牛鍋をつつく人の描写を通じて文明開化という時代の空気が伝わってくる。この本は、岩波文庫で今も読むことができる。「牛肉はたいそう美味で、いちど味を知ったら猪や鹿は食えない。わが国も文明開化と言ってひらけてきたから、我々まで食うようになったのは実にありがたいことです。」などと登場人物に語らせている。(岩波文庫『安愚楽鍋』から筆者が現代語調に直して引用) ついでながら、『安愚楽鍋』の中には「ひらける」という言葉が頻繁に出てきて、文明開化をめざす明治初期の時代の雰囲気を感じさせる。
その魯文が、『横浜毎日新聞』に入社して記者になったのは45歳のときだった。『横浜毎日新聞』は、旧暦明治3年12月(1871年1月)に、初の日刊新聞として横浜で創刊された新聞である。フィクションの作家から報道記者への転身である。記者魯文は、江藤新平の処刑で決着した「佐賀の乱」のルポルタージュを紙面で連載し、それをまとめたものを出版して人気を博した。(明治7年)
しかし、『横浜毎日新聞』自体は漢文調の堅苦しい文体が基本の新聞だった。魯文が佐賀の乱のルポを出版した明治7年(1874年)、日本初の大衆紙『読売新聞』が創刊された。読売の記事の文章は口語体で、漢字にはすべてふりがなが振られていた。それに刺激されて、魯文は横浜毎日の会社に在籍のまま、翌明治8年(1875年)、新しい大衆紙『仮名読新聞』を発刊した。
注)読売新聞を筆頭とする大衆紙は「小新聞(こしんぶん)」と呼ばれ、先行した横浜毎日新聞などは漢文調で書かれており「大新聞(おおしんぶん)」と呼ばれた。
魯文が横浜の野毛山に「諸新聞縦覧(しょしんぶんじゅうらん)茶亭(ちゃみせ)窟螻蟻(くつろぎ)」という“カフェ”を開いたのは、さらにその翌年、明治9年(1876年)7月のことである。「お日様とお月様は本牧の岬から出て、野毛の山端に入り、行き交う帆影は、浦賀の浦に帰り・・・」というような眺望のよい場所に開業した。(明治9年6月26日の『仮名読新聞』記事から現代語調に直して引用)
茶店では、一服一銭で客に茶を出して新聞を閲覧させた。現在の電子書籍の「定額読み放題」の元祖のようなものである。『仮名読新聞』はもちろん、『東京日日新聞』、『郵便報知新聞』、『横浜毎日新聞』、『読売新聞』などが置かれていた。魯文は、紙の新聞を発行するだけでなく、その読者が集い、読者の顔の見える場、読者と交流のできる場を作ったのである。
ただし、仮に今、魯文のカフェの“再現ドラマ”を作ろうとしてもかなりむずかしい。いったいどのような人がどのくらい来て、黙って新聞を読んでいたのか、それとも音読したのか、客同士のやりとりはあったのか、など細部の情報がほとんど残っていないからだ。そもそも魯文自身はどのくらい顔を出していたのだろうか。また、客同士が交流できるような促進役(ファシリテーター)まで担うことがあったのだろうか、などについての記録はない。作家から記者へという経歴から想像すると、“演説”は得意でも、第三者同士の会話をとりもつのは必ずしも得意ではなかったかもしれないなどと想像したくなるが、早計に決めつけることはできない。
ほかの各地の縦覧所や類似の施設(新聞解話会など)に関する記録を総合すると、客は主として男性であったと思われる。当然ながら、オールふりがな付きの「仮名読新聞」を中心にいくつかの新聞が置かれていたのだろうが、それでも客層は士族中心なのか、それとも平民もまざっていたのか、など謎が多い。(士族の割合は、当時の人口の5%台だった。)
当時、このような新聞縦覧所は全国各地に設けられていた。これらの施設が、一種のたまり場として新聞を囲んで情報や意見を交換する場となっていたかもしれないなどと想像していると連想するのがイギリスのコーヒーハウスである。
◇マスメディアを生んだイギリスのコーヒーハウス
コーヒーハウスというのは、イギリスにおいて、17世紀半ばから100年以上続いたたまり場である。イギリスと言えば紅茶をまず連想するが、コーヒーの時代が先行していた。コーヒーハウスは、最盛期にはロンドンだけで2000軒以上あったと言われている。今日まで残っている絵を見ると、そこに置かれている新聞を読んだり、お互いに意見を交換したりしている様が見てとれる。いわば、メディアを軸にした読者コミュニティが形成されていたのがコーヒーハウスである。ただし、17世紀半ば頃においては、文字を読める人が半数以下だったということもあり、記事を読める人が音読して聞かせることが普通に行われていたようである。
有名な例としては、「ロイズ」という、貿易商のたまり場になっていたコーヒーハウスがある。そこから『ロイズニュース』という船舶情報をまとめた新聞が生まれた。(1696年) その後、ロイズは発展して、世界的な船舶保険会社に発展した。また、初の日刊紙『デイリークーラント』(1702年)や日刊のエッセイペーパー『スペクテーター』(1711年)がコーヒーハウスの利用者をターゲットに発刊された。このように、コーヒーハウスはジャーナリズムを生み出し、また保険システムと保険会社を生んだ。松岡正剛さんは「コーヒーハウスや茶の湯は、経済と文化をひとつにしたことにめざましい特徴がある。」(松岡正剛『知の編集工学』朝日新聞社、1996年刊)として、マルチメディア時代の〈経済文化〉を考えるための重要な歴史モデルだと語っている。
コーヒーハウスは、そこに集う人同士が情報を交換する場であり、同時に新聞記者も立ち寄ってニュース源として活用していた。参加していた階層は「財産と教養」のある人たちとされ、身分によるうるさい制限はなかったという。とはいえ、事実上男性に限られていたし、労働者階級が参加できるようになったのは、ずっとあとになってからである。
◇民の参入で活発になった明治の“コーヒーハウス”新聞縦覧所
日本に話題を戻す。明治新政府は国民教化策として新聞を活用しようとした。日本国の国民という概念がまだ一般個人に薄かった当時、文明開化を進め、富国強兵路線に国民こぞって協力する意識を広めようとしたのだった。いわば上からの開明政策であり、国民教化策だった。「明治の初年ほど読み書き能力の習得が美徳として肯定された時代も稀である。」(前田愛『近代読者の成立』岩波同時代ライブラリー、1993年刊)
仮名垣魯文による「諸新聞縦覧(しょしんぶんじゅうらん)茶亭(ちゃみせ)窟螻蟻(くつろぎ)」開業より数年さかのぼる、明治維新からまだ日が浅い頃から全国主要都市に「新聞縦覧所」とか「新聞解話会」と呼ばれる施設が開設されるようになった。新聞解話会は、学校や役場などに住民男女を集め、「神官、僧侶、役人などが、村費で購入した新聞をやさしく読み聞かせる光景は珍しくなかった。」(山本武利『新聞記者の誕生』新曜社、1990年刊) 新聞縦覧所は政府の後押しで全国各地に設けられ、創刊間もない『横浜毎日新聞』や『東京日日新聞』を政府が買い上げて送り込んだ。住民は自由に立ち寄って無料で新聞を読むことができたが、初期の新聞は漢文調の硬い表現だったため、利用者はごく一部に限られたようだ。
のちに、大衆向けの読みやすい新聞が登場してからは、先に紹介した仮名垣魯文の「諸新聞縦覧茶亭」のようにお茶を飲みながら新聞を読める有料の施設も登場した。上野・浅草の盛り場にできた縦覧所はなかなか人気だったようである。(前田愛、前掲書)そのほか、上野の偕楽亭、北海道函館、滋賀県見附駅などの例がいくつかの文献に出てくる。「新聞解話会」という名称で作られた例も各地に見られる。(参考文献参照)
しかし、魯文の「諸新聞縦覧茶亭」のところで述べたように、比較的にぎわった縦覧所について、実際の光景を再現しようとしても、その考証は難航しそうである。当時はまだ、書物を黙読するという習慣はなく、音読する、あるいは他人が語るのを聞くというのが一般的だったから、ひとりひとりが単に黙読して帰るというだけのイメージではないことは推定できる。しかし、真の実態は謎である。
いずれにせよ、先に見たイギリスのコーヒーハウスのように、そこから新たなメディアが生まれたり、ビジネスが生まれたりというような経済文化的な波及効果はなかったし、短命に終わったのも確かである。しかし、国を開いて、新しい社会の建設に夢を抱いて、内外の新しい情報を渇望した明治初期の人々にとって、その入口になったのは確かであろう。
◇記者、読者、投書家の三位一体のコミュニケーション
この時期の新聞は、記者、読者、投書家の三者が三位一体となって作られる様相を呈していた。新聞縦覧所はそうした人たちがお互いに顔を合わせることができた場所だった。各紙にはさきほどの仮名垣魯文のほか、柳河春三、福地源一郎、岸田吟香、成島柳北など著名な人気記者が輩出した。また、明治前期の新聞においては、読者による投書がおおいに奨励され、紙面で大きく扱われていた。当時は、取材力に限りがあって、今風に言えば、コンテンツ不足だったので、読者による情報提供や意見の表明が歓迎されたのである。特に熱心な人は投書家と呼ばれており、中にはその中から選ばれて記者となった人も出た。(山本武利『近代日本の新聞読者層』法政大学出版局、1981年刊)
仮名垣魯文が興した『仮名読新聞』は明治11年(1878年)に、横浜から現在の銀座8丁目の煉瓦づくりの社屋に移転した。「そこへ投書家や文人、芸者、商人、茶屋の経営者、待合の女将や幇間まで、さまざまな人が菓子などを持って押しかけては話をしてゆき記者たちはその相手をしながら原稿を書き続けた。」(土屋礼子『近代日本メディア人物誌 創始者・経営者編』ミネルヴァ書房、2009年刊)
新聞というメディアを軸に、記者、読者、投書家三位一体のコミュニケーションが回るこのような様は、今日のソーシャルメディア全盛の時代を彷彿とさせる。
しかし、それは長続きせず、明治のごく初期の数年、線香花火のようなソーシャルメディアの光をつかのま放ったのだった。それ以降は、アメリカでの大衆的商業新聞の発達ともシンクロしつつ、多数の読者に一方向に情報を流す大部数の新聞が次第に成長していった。日本におけるマスメディアのはじまりである。
17~18世紀のイギリスと違って、19世紀後半という当時の日本の場合、欧米においてすでに発達しつつあったマスメディアとしての新聞が手本としてあったことから、急速に新聞が成長し始めた。そのため、以上で紹介したような新聞というメディアを囲む対話型コミュニティの広がりは未完に終わった。その“続き”は、インターネット登場によって、21世紀の課題として模索が続いている。
参考文献
松本三之介、山室新一校注『日本近代思想体系11 言論とメディア』岩波書店、1990年刊
興津要『仮名垣魯文 文明開化の戯作者』有隣新書、1993年刊
山室清『横浜から新聞を創った人々』神奈川新聞社、2000年刊
前田愛『近代読者の成立』岩波同時代ライブラリー、1993年刊
山田俊治『大衆新聞がつくる明治の〈日本〉』NHKブックス、2002年刊
週刊朝日百科日本の歴史101『漫画と新聞・瓦版』1988年
<『ニュースメディア進化論』(2019年、インプレスR&D)より>