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ある新聞記者の歩み 18 誰も首相になると思ってなかった中曽根康弘の実像(下) それでも首相になれた秘密とは?

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第18回は、中曽根康弘さんを取り上げた後半です。佐々木さんは、政治家には国民受けする人気の面でドーナツタイプとあんパンタイプがあると言います。中にあん(餡)があるあんパンと異なり、中央の官僚や永田町の政治家には敬遠されましたが、そこを離れれば離れるほど人気があるドーナツ型だったのが中曽根さんだというのです。そういう人が首相になれたのはなぜか。
佐々木さんは今回で4年半の政治部生活を終えて経済部に復帰することになります。(聞き手--校條諭・メディア研究者)

 

◇遊説先で記者をたたき起こして・・・

Q.もう少し中曽根さんのことについて教えてください。

 選挙になると遊説で各地を回る政治家に同行取材をします。数社いっしょに回ります。中曽根派の代議士のいる選挙区、今日は札幌と旭川、明日は秋田、山形とか・・・。遊説で何を打ち上げるかが、ニュースになるわけです。そうやって同行する中で政治家と仲良くなったりします、地方における自民党の政治地図も分かるわけです。

(中曽根康弘元首相)

お陰様で僕も中曾根さんについて日本全国を回りましたね。遊説では、政治家は地方なのでつい気をゆるして演説などで放言などをすることなどがありますから。それが時々ニュースになります。でも、中曽根さんはそういうことはありませんでしたけど・・・。気はゆるせません。

 どこの駅だったか、駅長室で列車を待っているとき、寒い時期でストーブに当たりながら僕が経済部出身という事で、経済人の人となりなんかをサシで聞かれたことがあります。それがトップ経済人ではなく、正統派の大手企業の経済界の人たちには嫌われている“政商”、小佐野賢治(国際興業会長)、萩原吉太郎(北海道炭鉱汽船会長)なんて人の評判を聞くんですが、ぼくも会ったことありませんし、答えられなくて困りました。彼は頼りにならない元経済部出身記者と思ったでしょうね。こんなところからも、当時、中曽根さんの経済界での主流派との付き合いが薄かったことを感じ取りましたね。

面白い話があります。私は行かなかったのですが、中曽根さんが北陸地方への遊説に行ったときのことです。毎日の松田喬和君(のち特別編集委員)と、のちに産経の社長・会長になる熊坂隆光記者、日経の常務、テレビ東京メディアネット社長などを歴任した岡崎守恭記者の3人が同行したんです。中曽根さんと同じ旅館で寝ていたところに、夜明け頃、彼らの部屋の障子を開けて中曽根さんが入ってきて「オイ起きろ!大平が死んだ」と言ったというのです。

 中曽根さんは重要なニュースを自分から記者に漏らすような政治家ではない。さすがにこの時は動揺したんでしょうね。「まだ本社に連絡するなよ」とくぎを刺したといいいますが、3人は中曽根さんが去ったのを確かめて、その頃携帯電話なんてありませんから3人で電話の取り合いになり(笑)、部屋や帳場の電話で本社に連絡、この連絡が政治部の中ではいちばん早かったといいます。この話は同僚の松田君から直接聞きましたが、日経の岡崎守恭記者の「自民党秘史」(講談社現代新、2018年刊)にも詳しく書いてあります。 

(大平正芳元首相)
                                                                                                                                                                                             

 注)大平正芳首相在職中の総選挙中の、1980(昭和55)年6月12日急死した。70歳。死因は心筋梗塞による心不全と発表された。

Q.政治家の遊説に記者がついていくというのは、政治家と記者それぞれにとってどういう意味があるんですか?

 政治家の遊説などに何人ついていくかというのは、政治家の評価のバロメーターでもあるんです。政治家はできるだけ多く記者についてきてほしいんです。そこの選挙区選出の政治家も地元の人に「おれの派閥の親分は、マスコミをこんなに連れてくるすごい実力者なんだ!」という姿を見せたいというわけです。

 遊説ではその時々の政治情勢に触れますから、日々状況の変化する選挙中の演説は要注意です。前の日の演説とのニュアンスの相違を聞き分けるわけです。政治家もリップサービスで口を滑らすこともあります。それを電話でキャップに送るわけです。例えばこの前の総選挙では立憲民主党と共産党の連携が話題になりましたが、これに与党幹部が演説でどう触れるか、また消費税の引き下げ、コロナ対策などについてどう演説が変化するか、演説終了後、同行記者とメモを確認しながら、見極めるわけです。

Q. 中曽根さんの北陸遊説に佐々木さんご自身が行っておられないとのことですが、「3人で寝ていた」と言われました。遊説についていくようなときは、ホテルでなく日本旅館に泊まるのでしょうか?私自身のことを思い出すと、会社に入った70年代は、先輩といっしょに出張に行くときはホテルでもツインにいっしょに泊まりました。

 それはいろいろですね。特にそこの選挙区の代議士は、自分の後援者である地元有力者が旅館のオーナーなどだと、どうしても古い和式旅館が多くなりますね。他の記者とツインの部屋に泊まることはなかったなあ。

 ◇「カーライルって知ってるか?」

Q.中曽根さんのエピソードで印象に残ることはなんですか?

 印象に残るのは、特に吉田茂を評価していたことですね。確か遊説で羽田から飛行機で出かける際、中曽根さんの車に同乗し高速道路を走っていた時のことだったと思います。

 「吉田茂はすごい人だ。日本の政治家ではじめて衣裳が政治的発信力を持つということを気づいた人だ」と言うのです。吉田茂は白足袋にソフト帽に葉巻がトレードマークでした。そういうように“衣裳”の特徴がはっきりしているほうが漫画家も描きやすいし、政治家として発信力があると言ってました。

(郷里高知県南国市にある吉田茂の銅像)

 中曽根さんはぼくに「カーライルって知ってるか」と聞くんです。知らないと答えると、軽蔑したような顔をして「衣裳哲学っていうのがあるんだよ」というわけです。つまり吉田茂はカーライルの「衣裳哲学」を実践しているんだ―というわけです。

(カーライル著「衣服哲学」(岩波文庫、1946年刊) https://amzn.to/3epiVRn 
他の訳書は「衣裳」としているものあり)

あと中曽根さんで思い出すのは、車の中でFEN(駐留軍放送)をよく聴いてましたねえ。ほとんど欠かさずという感じでした。実際、ニクソン、フォード大統領の特別補佐官で日本の頭越しに“米中国交回復”の秘密交渉に成功したヘンリー・キッシンジャーなんかとは英語でやりとりできてました。政治家としてはよく勉強しているというイメージでしたね。

 前にも話しましたが、中曽根担当のときは、毎朝ほとんど目白の中曽根邸に朝駆けをしました。朝日の中曽根番の山下靖典記者と交代で中曽根さんのハイヤーに乗りました。ハイヤーでは中曽根さんの隣に坐って、前日夜の各派の夜回り情報を受けて「大平派の会合でこういう話がありましたけど、どう思われますか?」とか尋ねると、「まあ、〇〇君ならそう言うかもしれないな」なんて答えが返ってきたりするわけです。

 で、中曽根事務所のある麹町の砂防会館(下の写真参照)に着くと山下君が待っていて、ぼくが一問一答のメモを起こして山下君と共有するんです。それをぼくも山下君も平河のキャップに上げます。そして、翌日は山下君がハイヤーに乗って、ぼくが砂防会館で待っているという具合にやっていくわけです。

(砂防会館)

中曽根情報は、政治部でも“窓際派閥”と見られていたこともあるんでしょうが、重要視されてなかったので、山下君とは「どうせ上げたって使われるわけないよな」などとぼやきながら情報交換をしていました。そのお陰で山下君とは仲良くなり、今でもfacebookの友だちでやり取りしています。

 ◇勉強家だが“ドーナツタイプ”

 でも、こういう中で中曽根さんはすごく勉強してました。「いつか首相の座が回ってくるかもしれない」という気持ちがあったんでしょうね。アメリカの国務長官キッシンジャーの論文を原文で読んで評価したり、政治学・安全保障論の保守派の論客だった東大教授・佐藤誠三郎、国際政治学の京大教授・高坂正堯なんていう、当時知識人にも評判の良かった著名で良質な政治学の学者などとの勉強会もやっていたようです。

(佐藤誠三郎と高坂正堯の著書)

 さらに浅利慶太などという劇団四季を主宰する文化人とも付き合い、自分のウィングを広げようとしていました。カラオケでも当時はやりの歌をうたいましたね。特に「神田川」なんて売れ始めたばかりの、南こうせつ・かぐや姫のフォークを歌ったのが記憶に残っています。だけど〽ただ あなたのやさしが こわかった〽なんて唄われるとゾッとしなかったな―(笑)

(浅利慶太著述集)

 Q.中曽根さんって、とっつきにくいとか、つき合いにくいとかいうことはなかったですか?

 それはありました。担当記者で本当に肝胆相照らす関係になる記者なんて、あまりなかったんじゃないかなあ。自分の知性の殻をキチンと持っていて、他人にはそこに入らせない―という面があったと思います。読売新聞のドンの渡辺恒雄さん、朝日の三浦甲子二さん(元テレビ朝日専務)、毎日の小池唯夫さん(のちに毎日新聞社長)なんかはその中に入り込んだ記者だと思うし、尊敬しますね。僕なんかはそこまで行かなかったなあ。さっきの吉田茂のカーライルの「衣装哲学」ではないけど、「なんだそんな事も知らないのか!勉強して顔を洗って出直してこい!」という何となく軽蔑したような雰囲気を醸し出すんですよね。こっちのひがみなんだろうねえ(笑)。

以前ぼくは政治家には“ドーナツ”タイプと“あんパン”タイプがあるといいましたが、

中曽根さんは完全にドーナツタイプですね。つまりあんパンは外にはあんこ(人気)がなくて、中に入れば入るほどあんこ、つまり身近な官僚・政治家などに人気がある。福田赳夫首相がその典型。世論的には「なんだあのシミだらけの老人くさいの」といわれる。

 ドーナツ型は中にはあんこ(人気)がない。つまり身近な人には人気がないけど、外に出ていくほど人気がある政治家。昔の美濃部亮吉都知事がその典型。中曽根さんはホント、東京からはなれて地方などにいくと人気がありましたね。でも霞が関の中央官僚、他派の政治家などには、“キザ”、“スタンドプレー”が多い―と嫌われていましたね。

 ◇聴衆が涙を流す中曽根演説

Q.衣服哲学に関してですが、中曽根さん自身は何か実践されていたんですか?

 それについてはびっくりしたことがあります。テレビのインタビューを受けるとき、慣れないわれわれだったらインタビューアーの方を見て話しますよね。ところが、中曽根さんは始まった瞬間からテレビカメラの真正面を向いて話すんですよ。その変わり身の早さには感心しましたし、驚きました。

 あとで聞いたことがあります。「どうしてテレビカメラ見てしゃべるんですか?」と。すると劇団四季の浅利慶太さんから指導を受けたというのですね。「インタビューを受ける際は、横向きだと視聴者に訴える力が無いのでカメラを見てしゃべりなさい」と言われたそうです。なるほどねえーと感心しましたよ。

 一般国民に訴えるとか、庶民受けするというのは意識していましたね。演説させると非常にうまいですよ。会場ですすり泣く人を何人も見ましたよ。自分自身の海軍主計中尉の経験を踏まえ、特攻隊の話だったかなあ。出撃して行くときの話をして、遺書に、「私は一命を捧げるけど、平和な日本をつくってくれ」とあって、「私は非常に感動した・・・」という話だったと思います。そのときは確か北海道でした。北方領土返還についての話で、「こういった亡くなった戦友達の思いを汲んで実現しなくてはいけない」というような訴えでした。そうするとみんなジーンときちゃうんですよ。恥ずかしながら聞いてる記者も、最初はジーンときちゃうんですよね。でも毎日同行して、同じ演説内容を何回も聞くと「またか・・・」という感じにはなりましたが・・・(笑)。

 でも中曽根さんは、政治における言葉の強さをよく知っている人といえるんではないでしょうか。「政治家は演説がうまくなければダメだ」。ボクもお世話になった岩見隆夫さん(故人。元毎日新聞政治部記者、論説委員。コラム「近聞遠見」筆者)もそういうことを書いてましたね。今は演説のうまい政治家っていうのはいるのかなあ。大衆にメリハリきかせて引き込んでいく力というのは、修羅場を経てきて何回もそういう体験を踏んできているということだと思います。

 同僚の松田喬和記者のオヤジさんは高崎の出身で五・一五事件とか二・二六事件に関係した戦前の右翼活動家でした。戦後、戦地から帰国した中曽根さんが選挙区内を自転車で回った選挙の時から、応援しているんです。自宅が中曽根さんの選挙事務所と近いところにありました。松田記者の家に行くと、五・一五事件に参加した三上卓(元海軍軍人)の色紙が飾ってあったことを思い出します。中曽根さんに演説の仕方などを伝授したと思います。

 そういう意味では、松田君は中曽根さんにとっては恩人の息子だから頭があがらないわけです。まあ、いろいろおもしろかったなあ―と当時のことを思い出します。

 ◇大志と時の運で首相に

 Q.中曽根さんが首相になるのは、佐々木さんが政治部を離れて経済部に戻ってからなんですね。経済部に戻って大蔵省記者クラブに配属されたのが1981(昭和56)年7月で、中曽根内閣成立が翌82年11月と年表にあります。中曽根さんが首相になったとき、佐々木さんとして感じたことや、何か思い出すことはありますか?

 やはり政治家って野心、言い換えれば“大志”を持つこと、時の運を上手く使う事、この二つがホントに必要と思いました。だって大平さんが倒れて鈴木善幸内閣になって、中曽根さんは、通産相、運輸相や幹事長を経験している派閥の長としてはある意味でありえない、初入閣の新人のポストと見られていた行政管理庁長官になるわけですよ。派閥内部からは「中曽根派をバカにしている。受けるべきではないという」という声が出たことも確かです。でもそれが総理へのスプリングボードになるわけです。

そのころ中曽根さんに会うと、「今は行革三昧!政局には興味ないよ!」といって煙に巻いていました。確かに戦後三十年経って制度疲労を起こしていた、国鉄、電電公社などの分割民営化などの戦後最大の行政改革に手を付け、着々と“総理への道”を準備して行くんですね。財界の経団連会長だった土光敏夫さん、旧陸軍の参謀で伊藤忠商事会長の瀬島隆三さんなどを使って、作戦を練り上げ実績を上げていきます。ポスト鈴木首相のNO1にのし上がるんですね。その政治手腕はすごいと思いました。

「オレの目の黒い内に中曽根は総理にしない」といっていた、中曽根嫌いで有名だった田中派の金丸信さんが、田中角栄元首相が中曽根後継にゴーサインを出したことを受けて、反対する田中派議員に「反対だった俺が親分のいうことを聞いたんだ。いやなら俺と刺し違えて出ていけ」という状況までにいくんですね。

 Q.中曽根さんというと日本で初めて大統領型の総理といわれていますが、振り付けはだれかいるんですか。

 その一人は劇団四季の浅利慶太さんだったと思います。世論の動きなどを捉えて浅利慶太さんなどの振り付けで、戦後初の大統領型の首相とイメージを確立していきます。やはり外交関係で世界の首脳と、サシで渡り合うというイメージを作り出したのが大きかったのではないですかね。

 特に1983年5月のウイリアムズバーグのサミットで、レーガン大統領とサッチャー英国首相の間に割り込んで談笑する写真。世界における日本のポジションを国民に実感させたんではないでしょうか。中曽根さんがそれまで培ってきた英語力でできたことで、今までのFEN放送を聞いてきた勉強が実った瞬間だったと思いましたね。

 そして側近の官房長官に内務官僚の5年先輩の後藤田正晴氏を起用した。政治的にはこの起用が成功の一番の理由ではないかと思いますね。靖国神社参拝、防衛費の予算の1%突破など、タカ派のイメージの強い中曽根さんとしては、1980~88年のイラン・イラク戦争での海上封鎖に自衛隊の派遣を、米軍から要請されたことに対し前向きだったと思います。しかしタカ派ともハト派とも言われた後藤田官房長官は、自らの台湾での5年間の陸軍士官としての植民地・戦争体験を踏まえて「憲法9条のもと、海外の紛争地帯に自衛隊は送れない」と中曾根さんをいさめてやめさせた。この辺の緩急自在な手法が5年間の長期政権につながったのではないでしょうかね。

(毎日新聞社史「毎日の3世紀(下)」(2002年刊)より)

◇政治部での4年半を振り返って

 Q.政治部には偶然とはいえ、佐々木さんは三木武夫首相退陣後(1977年12月)の福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸という1981年7月までの三代の首相の時代でした。この間、これまでにない福田VS大平の40日抗争、大平首相の在任中の死去を経て戦後の自民党政治の転換期に立ち会ったことになります。政治部での体験は佐々木さんの記者人生にどんな影響を与えたと思いますか?

 権力への凄まじい政治家の執念、金権政治の弊害などをいやというほど目にしました。しかしその中で日本の戦後復興から、高度経済成長、ジャパン・アズ・ナンバー1の時代を官僚とタッグで作り上げた明治・大正生まれの政治家たちは、太平洋戦争での無残な日本の敗戦を踏まえて、中曽根さんの口癖でしたが「政治家は国家・国民のためにある」という志(こころざし)を持っていたと思います。今の政治家にはそういう迫力を感じられませんね。

 Q.経済部記者から政治部に行かれて後悔はありませんでしたか?

 それは全然ありませんね。むしろ記者人生の幅を広げてくれたことに感謝しています。ただ経済部における当方のライフワークになった、エネルギー問題のようなテーマを持てなかったことは、後悔が残りますね。

 政治部が当時党内少数派だった三木内閣誕生(1974(昭和49)年)の政局の裏面を描いた「政変」、岩見隆夫デスクが中心となってまとめられたもので、レベルが高いものだったと思います。岩見さんはこの連載で政治記者としてのポジションを不動なものにしたと思います。

 ただ安保問題―日米安全保障問題はキチンとやりたかったですね。ちょうど、ぼくが経済部に戻る寸前の5月に、「ライシャワー元大使の核持ち込み報道」で政治部は新聞協会賞をもらう大スクープを出しました。これは後に社長になる斎藤明さんがキャップになり、「安保と非核-灰色の領域」という長期企画の中で生まれたものでした。本当に政治部の優秀な記者がチームを作ってやっていました。

 日米安保問題は今もって日本のビビットな問題で、米・中・露・韓と渡り合わなくてはならない日本の基本問題をキチンと押さえられなかったのは今もって残念だったと思います。当時、何となく僕も憧れて「安保問題を理解するには、英語が出来なくては・・・」と思い込んで、女房の知り合いの吉祥寺の成蹊学園前のカトリック女子修道院「ナミュール・ノートルダム修道院」の、アメリカ・ボストン出身のシスター・マリーに英語を毎週土曜日、習いに行っていました。でもモノになりませんでしたね(笑)。発想のレベルが低いなあ(笑)

 ◇経済部に戻って気をつけたこと

 Q.政治部でドラマチックな人間くさい場を経験したあと経済部に戻ったわけですが、以前に経済部にいたときと何か違いがありましたか?

 そこはねえ、あんまり感じないというか、わりと考え方がフラットというか、考えなかったですね。できるだけ政治部色を出さないで、ブランクの長い経済部になじもうとしていました。あまり政治部風をふかせないように気を付けていたと思います。いわば“経済部ファースト”だった思います。

 むしろ失われた政治部時代の4年半を、取り戻すという感じだったんじゃないかなあ。それがあるから、政治部の時代のことっていうのは、そんなに記憶してないです。サラリーマン一般にそうだと思うのですが、一緒に働いていた当時の記憶って、その後の何年も続く同期会などの飲み会で繰り返し話すから、記憶に残るだと思うんですよ。政治部の連中とのつきあいは、会社では顔を合わせましたがそれほど続かなかったのです。ぼくもあえて議員会館とかにあまり行かなかったですね。それに議員って「当選」「落選」があるじゃないですか、落選すれば付き合わなくなりますからね、特に地方出身議員とは。

 また当時の取材先の経済人は、サラリーマンからの成り上がりの人たちに世代替わりしてきましたから。そう言う人たちは、「政治資金をせびられるだけ」という感じで政治家とつきあうのはきらいなんですね。中山素平とか、今里広記とか、永野重雄だとか、という時代の人たちと違って、その次の時代のサラリーマン経営者の時代の人たちですから。また官僚も政治家に国会答弁で夜遅くまで、こき使われ、頭を下げなくてはいけない存在なわけで、それを身近に見ている政治部記者は煙たいでしょうし・・・。経済部の取材先で政治部風をふかしてもいいことないですね。