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ある新聞記者の歩み 36 新開設テレビ局へ勇躍転身、しかしそこで待ち構えていたのは・・・

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリーも終盤にさしかかってきました。佐々木さんは、取締役一歩手前の役員待遇という名古屋の中部本社代表を最後に新聞社での生活を終えて、まったく畑違いのテレビ局に移りました。しかし、荒海に乗り出した小舟のような戦いを強いられました。(聞き手=メディア研究者 校條諭)


◆放送業という異文化の世界へ 定年で退職金をもらったものの

Q.佐々木さんは、2000(平成12)年2月に、毎日新聞中部本社代表を退いて、外部のメガポート放送の専務に就いておられますが、そのときはまだ毎日新聞社の社員だったのですね?
 
そうです。出向の形で行きました。
 
Q.毎日新聞社を退職するのはいつですか?結局どのくらい勤めたことになりますか?
 
メガポート放送に移った翌年、2001(平成13)年10月に定年退職しました。当時は「60才定年」だったんですねえ。東京オリンピックの翌年、大学を卒業して23歳で1965(昭和40)年4月に入社しましたが、還暦を迎えるまで36年半勤めたことになります。
 
Q.すごいですね。私なんか同じ会社にいちばん長く勤めたのが15年ですから(笑)。退職金は出たのですね?
 
もちろん出たのですが、実は毎日新聞社内には「毎日信用組合」という信用組合法に基づく正式な金融機関があって、退職金を担保にかなり借金をしていたんですよ。子供4人をかかえて学費やらなんやら出費が多かったためです。その返済と相殺ですからねえ・・・。退職金の手取りを見て女房もガックリ来ていましたがね(笑)。
 
当時、4人のうち上2人が東京で大学に在学していて、その下二人はまだ甲府の家で高校生、ぼくは東京に勤務にしていたという事情でしたからけっこう大変でしたよ。とはいえ、メガポート放送自体は、給料は毎日新聞の時と同じくらいで、月々のフローの意味ではなんとかだいじょうぶでした。

それで、子供たちも学校に通わなきゃいけないから、 名古屋から東京に転勤してアパートを阿佐ヶ谷駅の近くに借りたんですよ。だから2世帯でホント大変でしたね。でもやっと甲府にいた子供も進学し家族全員東京に集まりました。一家そろって杉並の5LDKの二階建ての家を借りました。でも女房は子供も大きくなったので、あるカトリック系の学校の校長秘書になりました。

それでも家計的にたいへんでした。そんなときに葬式なんかあると、香典を持っていくのが「ヤバかった」。今でも思い出すのは、面倒を見てもらった先輩のそれなりの名士だった父上が亡くなられ、築地本願寺で行われた葬儀の時、香典は一万円が常識でしょう、金がなくて3千円しか包めなかった。恥ずかしかったなあ。その先輩と今でも時々会うんですが、その金額を覚えているんじゃないかと心配になります(笑)

最終的に4人の子供たちはみんな大学や美術系専門学校に行ったんだけども、普通“しし・じゅうろく”(4人×4年)で済むじゃないの。それが、みんな浪人や留年していて1年か2年ぐらい余計に行ったから、“しろく・にじゅうよん”(4人×6年間)くらいになって(笑)・・・。それだけじゃなくて、いったん入学金と1学期のお金も納めたのに、入った直後にこの大学じゃダメだってやめてしまって、 他の大学からやり直したりとか(笑)。学費を納める前にやめりゃいいのに、それから留年はするは。それはもう大変でしたよ。4人分ではなく6人分学費を払った感じです(笑) とにかく4人もいたから身が細るというか、もう女房には、頭上がりませんよ(笑)。

◆角川、電通、エイベックスなどからの若手混成部隊


Q.さて、役員待遇・名古屋本社代表から、取締役にならてもおかしくなかったと思いますが、2000(平成12)年2月に創設されるデジタル放送のメガポート放送に移って専務取締役に就任されるのですね。どんな事情ですか?

まあ周辺は取締役で本社に戻ると思っていたでしょうね。事実、その前に当時の本社幹部から「次は本社に上がってもらうから」といわれたこともあり、自分でもその年の株主総会で取締役になるだろうという、思いはありましたね。


株式会社メガポート放送
東京都千代田区にかつて存在したBS・東経110度CS委託放送事業者。2005年10月1日に日本BS放送に吸収合併された。
設立 2000年2月
放送開始 同年12月
代表取締役社長  竹内宏二  会長 角川歴彦(設立時点)
資本金 30億3000万円
主要株主 毎日新聞社(20%)、角川ホールディングス(20%)、スポーツニッポン新聞東京本社(15%)、電通(10%)、オリエンタルランド(8%)、エイベックス(5%)、セイコーエプソン(5%)、マイクロソフト(5%)ほか
参考記事 アスキー2000年2月22日メガポートのロゴマーク、「竹内社長、角川社長の記者会見」の写真) https://ascii.jp/elem/000/000/307/307870/ 

 注)日本BS放送は2007年以前は日本ビーエス放送が正式社名でしたが、本稿では日本BS放送とします。また、便宜上社名、チャンネル名ともに原則としてBS11を使います。

メガポート放送の番組の画面例(2000年11月)

 
Q.毎日新聞が新設のデジタル放送に進出したのはどういう背景ですか?

毎日新聞は1977(昭和52)年に“新旧分離”という事実上の倒産危機を迎えますが、この中で関連会社でもあったTBS(東京放送)の保有株の売却などもあり、関係が薄くなっていきます。当時、毎日新聞としても総合メディア媒体として、テレビ放送局と関係を持つことは悲願でした。だけど当時、TBSの株は高くなり、とても買い戻せない。

このころの総合メディア事業担当局長は取締役の竹内宏二さん。長くその職にありワープロ、パソコンの時代を潜り抜け、業界にも顔が広く、毎日のメディア行政については、社内的に「竹内が言うのなら間違いないだろう」という感じがあったと思います。ぼくより一年先輩です。

メガポート放送開局の発表(2000年11月)
角川会長(左)と竹内社長


参考記事 メガポート放送、BSデジタル放送の番組を発表(アスキー2000年11月17日)  https://ascii.jp/elem/000/000/318/318343/

地上波の時代からデジタル放送の時代、つまり衛星放送の時代に移りつつあり、竹内さんとしては総務省のBSデジタル放送のワクを募集した時、何とかこのワクを取りたいと思っていたと思います。竹内さんは担当省である総務省にアタックをかけて、このデジタル放送枠の取得に成功します。

そして「メガポート放送」の初代社長になることが決まっていました。かれのリーダーシップで30億円の資本金を集めたわけで、ナンバー2の常勤専務を毎日新聞から出すことになった訳です。そこで「佐々木は編集も長くやっていたし、広告局局長もやっていて適任」だと思ったんでしょうね。この人は吉田茂の実家である高知県宿毛市の「竹内家」にルーツを持つ人で、新聞業界のメディア関係者の間では知らない人はいないくらいという、ガッツのある人でしたね。

Q.取締役寸前に子会社への転身、もしかして不本意ではなかったですか?

基本的に言われた人事は不満を言わないというのが、ぼくのポリシーでもありましたからね。そこは“昭和のサラリーマン”だね(笑)。毎日新聞の社長からメガポート放送に行ってくれと言われた時、即座に受けました。「将来、上場できるように頑張ってくれ!」というので‐‐‐。

Q.エッ!上場ですかか、本気だったんですか?

名古屋本社のお別れの社員総会で「いずれこの会社を上場させて、“毎日新聞の役に立つメディア”にしたいと大風呂敷を広げた挨拶をしたことを記憶しています。まあ、バックには毎日新聞がつき、それに国の免許事業という太鼓判がありますから大丈夫―ということだったと思います。

まさかそれが5年間でポシャルとは思いませんでしたね。ぼくは創業から閉店まで5年間いたことになります。でも楽しかったですよ。

Q.「楽しかった」って、会社の倒産まで付き合われたんですよね。今の朝ドラ「虎と翼」ではないですが、主人公の“寅ちゃん”の決めセリフの「はて?」という感じですが‐‐‐。資料によると、メガポート放送はずいぶんたくさんの会社が出資して設立されたのですね。

出資する方もする方だと思うけど(笑)、アッこれはオフレコ! みんなその頃の上場ブームに浮かれてたということもあって、インターネットの勃興期、携帯電話も普及し、世の中、一億総デジタルの波が押し寄せている感じ。ホント“上場ブーム”という感じでしたね。どれがあたるか分からない時期だった。

身近なテレビのデジタル化!で「双方向で買い物が出来る」なんていうキャッチフレーズを思い出します。うまく行くかもしれないと感じたんでしょうね。まさか今のようにインターネットが全世界を覆うなんて、考えもしなかったでしょう。それが証拠に当時、新聞社はニュースを新聞販売の役に立つ―なんて考えてネットにノーギャラで流していたんですから‐‐‐。もしあそこで新聞社が、それなりの対価をとっていたら新聞社のポジションは、今ほど厳しくなってなかったかもしれませんね。

ちょうど、バブル崩壊の時期からようやく日本経済も立ち直りかけ、IT企業、IPS細胞を使った創薬企業などが上場を競い始めころですね。ライブドア、楽天、ソフトバンクなど次から次へと、アメリカのNASDAQにならってできた新興企業の上場専門の「東証マザーズ」に上場してきましたからね。いまのGAFAといわれる、アメリカというより世界を席巻しているIT企業も、このころのNASDAQに上場ですよね。

証券会社はぼくのところまできて、事業展開の状況を聞きに来ましたよ。さらに新規上場の企業の株購入の応募の勧誘によく来ましたね。

Q.会社の人材はどうやって集めたのですか。

出資会社からの派遣がほとんど。あと技術屋さんは募集をかけて採用したと思います。社長は竹内さんで、会長は毎日新聞と同額出資の角川書店社長の角川歴彦さんがつきました。ぼくが常勤の専務、角川と電通から常務。取締役には出資者の、毎日新聞の広告局次長、スポーツニッポン新聞、マイコミなど毎日新聞グループ各社と、オリエンタルランド、エイベックス、パソコン教室のアビバ、WOWOW、セイコーエプソンなどが顔をそろえました。堂々たる布陣!だよね。まさか5年でドボンとは考えもしなかっただろうな。

人材も電通の営業から2人、 角川書店も2人来ました。それぞれ1人は常務になりました。ディズニ―ランドのオリエンタルランドからも来て、来た人は若い人ばっかりだったし、今まで付き合ったことないような業種の人たちでした。あと、制作担当の音楽会社の、歌手の浜崎あゆみがいる、なんだっけ?あ、エイベックス。エイベックスから来た人は優秀だったねえ。もちろん毎日新聞の広告局、メディア事業局、新規採用した技術者、トータルで20 人位いたかな。そういう人達と仕事するのは、それまでの、毎日新聞の仕事の仕方とも違うし、おもしろかったです。

さらにぼくが頼んだ大手会計事務所の公認会計士さん。色々と相談するうちに「ぼく、メガポートに入れてくれますか?」ということで経営企画部長という事で入社してもらいました。

Q.オフィスはどこのどんなところに入っていたのですか?
 
竹橋の毎日新聞が入っていたパレスサイドビル2階で、皇居の見えない高速道路側でしたね。その方が賃料が安かったと思います。
 

パレスサイドビル

◆テレビ局なのにまともな動画が流せない

Q.BS・東経110度CS委託放送事業者。事業自体はどうだったんですか。
 
ぼくは放送事業の事なんてまったく何も知らないから、これらの放送がデジタル化の中心メディアになるなんて「企画書」を作ってもらい、広告局時代のコネを生かして、通っていた企業に説明に飛び回りましたよ。

それでも2000年11月に放送が開始されます。感激したけど、今考えれば、やっぱり電波の割り当ての帯域が小さかった。2スロット。今のきれいで鮮明な通常のきれいな動画が放映できるテレビ放送の帯域は、確か12スロットか、16スロットなんだよね。だから、2スロットなんてまともな映像が流せないわけで・・・。

地上波テレビはハイビジョン放送が出来る衛星波が自動的に割り当てられ、残りの帯域をデータ放送だけやるところを手を上げさせたわけです。「2スロットでは、ろくな映像も流せない」放送を始めてから、監督官庁の総務省の衛星放送課に文句を言ったら「そんなの初めから分かっていたんでしょう。そこで収益を上げる工夫をするのがあなた方事業者でしょう」といわれて、参ったなあ。

だから、できるのは「イエス」「ノー」かのリモコンを押してやるゲームなどで、本当の電気紙芝居みたいなもんやね。双方向で(片方は電話回線)、動画は画面を2分の1にしたりして、狭い帯域で技術陣は大変でした。

メガポート放送の番組の画面例(2000年2月)
メガポート放送の番組の画面例(2000年11月)


Q.帯域の拡充が必要ですよね高精細のBS放送、CS放送に変わらなくては放送局として勝負出来ないですね。

いやあ、本当にそうです。テレビというのは一定の広い帯域があるほど、よい画面が出来るんだということをしみじみ感じましたね。

高精細の帯域の十分とれる放送に変えなくては、とても2スロットでは勝負にならない、このため新しい通信衛星を使って、5年後に高精細の放送を可能にする7スロットへの拡充を総務省は募集するわけです。その金額は確か毎年衛星の使用料が7億円を超えたと思います。

2004年11月に「CS110度放送認可」を獲得して、やっと動画を放映できるようになりました。BS放送は広告モデル、CS放送は会員収入モデル、という型でした。

映画は角川が大映から継承していたので、それを使いました。倒産した大映の古い時代の映画で、帯域をあまり使わなかったのでよかったのですが、まあ番組編成は苦労しましたよ。角川は、大映が倒産した時(1971年)に徳間書店が買った作品を譲り受けていました。

でもおかげさまで古い映画、勝新太郎の「座頭市シリーズ」をじっくり見られたりして、おもしろかった(笑)。今も映画が好きで見るのはこの時の習慣かもしれないなあ(笑)。それと「囲碁channel」を売り物にしましたね。

他の番組は売れないミュージック・バンドをつかったり、名前を知らないタレントを使ったり、制作費を下げたり、大変でした。今は知る人ぞ知る、作家の池澤夏樹の娘の池澤・・・なんて言ったっけな、最近、おやじと一緒に本を出してますね。今調べたら、毎日新聞出版から2020年に出た池澤夏樹 、池澤春菜『ぜんぶ本の話』です。その彼女が・・・何の番組だったのかな。そういう風な番組をいくつかやってましたね。新聞制作とは、全然違う世界だから制作は大変でした。

しかし収入はそう上がらず、赤字続きとなります。もうその頃、アイフォンはまだですが、インターネットの勢いはとどまるところを知らず、デジタル化でのテレビの“負け”は明確になってきました。毎日新聞として、将来性を考え「メガポート放送」を手放さざるを得なくなるわけです。ビックカメラのBS11(ビーエス・イレブン、社名日本BS放送)に、身売り同然、合併するわけです(2005年10月)。

Q.データ放送って今でもやっているんですか?
メディア評論家も知らないんだ(笑)。番組欄を見るためなんかに使うんで、いまでは「データ放送」を示す「dボタン」のプッシュボタンがついているんだけど―――。ぼくなんか見たい局のチャンネルボタン押すだけで使っていないけど、娘なんかなスイスイ使いこなしているね(笑)。

◆テレビなのに名刺広告って?!

Q.普通のテレビ局みたいにドラマやバラエテーィー番組があるわけでもないんじゃ大変でしょう。

もちろん電通にも稼いでもらいましたが。ぼくがやったので記憶にあるのは、新聞で言う正月とか、創刊記念号などでやる、名刺広告みたいなのをテレビなのにやったんですよ。
 
Q.名刺広告って正月の新聞によく載るやつですね?

そうそう。広告用語で言う三八(さんやつ=三段八つ切り)とか、ああいう感じのです。あれのテレビ版をやろうって、出向社員を出している会社に 割り当てたんです。一口何万円だったか忘れましたが「明けましておめでとうございます」とか言って(笑)。緊急放送のテロップみたいなもんだな。全然緊急じゃないけど!(笑)

Q.新聞の名刺広告って、なんかお付き合いっていう感じがしますが・・・。テレビでそれをやって、いったいどれだけの人が見るんでしょう?

そうそう、お付き合い。見る人なんていないよね(笑)。まあ、関連の印刷会社とか、インク会社、紙パルプとか、おもに新聞社からお金を払っている関係者、“前広告局長をやっていた佐々木さんへのご苦労賃”という感じかな。これも毎日新聞ニュースの放送提供料と相殺しました。メガポートの経費の中で、とにかく衛星放送料っていうのはでかいんですよ。年間、何億かなんかこちらから払います。で、それを仕切っていたのがNHKアイテックって会社です。
 
Q.NHKアイテックですか。知りませんでした。検索すると、現在はNHKメディアテクノロジーと統合して、今の社名はNHKテクノロジーズですね。NHKのグループ会社のようで、常勤役員は全員NHK出身です。
 
そうそう、そこがそういう事業をやってるんですよ。で、そこに乗り込んでいって、名刺広告料取った覚えがありますよ。20万か30万だったか・・・。 あの頃デジタルデータ放送会社は何社かあったけど、「うちにお金を取りに来たのは、お宅だけです」って言われましたよ(笑)。

当時、各放送局、一応 データ放送の枠は取っていましたが親会社の裁量で、赤字は出ずに済んでいたはずです。 CS放送の枠の中で1局単位でやっていたというのはうちと当初は「知求チャンネル」の名前でスタートしたBS11だけだったと思います。ビックカメラが大元の出資会社です。ビックカメラは創業社長の新井さんが、デジタルテレビ受信機の売り上げ増を狙っての進出だったと思います。メガポートの社長の竹内さんは、以前から新井社長と親しく放送経営の指南役でした。
 
うちもそうだったけど、新井さんは悲願として、将来的に放送に出てくんだっていうことを想定していました。それで、CS放送の枠の開放があって、BS11も取ったんです。
 

◆放送業界は、新聞で言えば、紙とインクを役所からもらうようなもの

Q.その頃、BS放送を視聴する人はまだ少なかったですよね。CS放送はもっと少なかったのでは?

まだデジタル受信機が普及していなかった状況ですから、シャープのデジタル薄型テレビ“亀山ブランド”などが牽引車となってぐんぐん伸びていきます。そういう状況ですから、囲碁チャンネルとか、将棋チャンネルとかを企画して、実際、将棋連盟とか囲碁連盟にも行った覚えがあります。 なんかやりませんかとか言った覚えがありますよ。だから、まあ今みたいなBS放送とかCS放送の全盛期、いや全盛期なのか 、SNS時代で斜陽なのかわからんけども、そういう時代の夜が明けた直後ぐらいの話でした。

この前、小学一年生の男の孫に「テレビを見るかい」と聞いたら、「いや見ない。アイパッドでゲームする方が楽しいもん」といっていたけど、テレビも危うい時代入りつつありますね。
 
当時、衛星放送協会っていうのがあって、月1回会合がありました。デジタル放送は、総務省情報流通行政局の「衛星放送課(現衛星・地域放送課)」が担当してました。衛星放送協会は衛星放送課の通達機関のようでした。そこに、なんか知らないけど、今でもそうなのかな、若い課長補佐は警察庁の出向者のポストなんですよ。戦前の特高(特別高等警察)などを仕切っていた内務省の流れなのでしょう。ホント放送業界の生殺与奪の権力を握っているようでした。

新聞業界には基本的には監督官庁はいないわけですが、放送業界を吉原の売春宿を仕切るみたいに仕切ってました。今騒がれている兵庫県の斎藤元彦知事、元総務官僚でしょう。ああいう感じよくわかるなあ。

Q.売春宿を仕切るってどういうニュアンスですか?
 
警察だから言うことをきくの当然だ、「きかなければ、事業免許取り上げだ」みたいな感じです。BS放送局と 地上波の各局と、それから我々みたいなCSの人間は何人ぐらい並んだのかな。その課長補佐が、えらそうな顔していろいろと通達を言うのを聞きましたよ。

Q.通達してくるわけですか。
 
そうなんです。その協議会の当時の会長はテレ朝の広瀬(道貞)さんっていうテレ朝の社長やってた人だと思います。もともと朝日から来てた人です。経済部長時代一緒だった君和田君の前の社長じゃないかな。
 
そういうのがあって、 放送業界と新聞業界っていうのは、ことほど左様に違うもんだなと思いました。

メガポート放送は、地上波のれっきとした放送局ではなく、末端の末端みたいなところでしたが、規制の強さには驚きましたね。言ってみれば、新聞で言えば、用紙とインクを お役所からいただくようなものなわけですよね。その用紙代、インク代は衛星の管理会社に行くわけです。 それがまず違いますね。

そういう規制の中でやるから、言論の自由だとかなんかっていうのとは二の次で、やっぱり新聞とは違う世界。「きつい政府批判なんて、とてもできない」となんとなく感じましたね。硬派のことをやっててもお客さんはつかないわけ。そんなこと考える余裕はなかったですけどね。
 
そういえば、スカパーが持ってる衛星を使ってたのかな。だから、それがまず違うよね。そういう規制の中でやるから、言論の自由だとかなんかっていうのとはやっぱり違う世界だなっていうのを、なんとなく感じましたね。硬派のことをやっててもお客さんはつかないわけ。そんなこと考える余裕はなかったけどね。
 
大手になると今でも言論の自由とか独立に関する問題が報じられることがいろいろありますが・・・。NHKの問題、それから民放の問題。今、日本には新聞紙法っていうのはないわけでしょ。それに対して、民放には放送法ってのがありますからね。

だから、そこんところはやっぱり、放送側にしてみれば行政に盾突けば――いざとなると首は飛ぶでしょうし、国の管理下にあるわけで、やっぱり 怖いところがありますよ。そういうことを考えると、新聞は、自分たちの持ってる 言論の自由だとか、そういうのを本当に大切にしていかないといけないなっていうことを感じます。

Q.佐々木さん、そういう業界の会合でよくおとなしくしてましたね(笑)。
まあいろいろありましたがね、ノーコメントにしておきましょう(笑)。

◆時代はインターネットになだれを打って


そんなこんなで、2004年、CS放送の拡大枠は一応取ったんですよ。7スロットだったかな。さあこれで本格的な標準放送が出来るぞ、と思っていたんですが、おおもとの毎日新聞が本格的放送事業の初期投資、衛星代金の支払いに耐えきれるか、懸念が生じてきました。

 当時のぼくと同期の北村社長に、ある夜、本郷だったか小料理屋に呼ばれてサシで“事情聴取”されたこともあります。なにせ当初の事業計画では、「5年で単年度黒字、7年で累積債務解消、2004年度では、広告が9億円、そのほかダウンロード収入などで3億円、あわせて12億円の売り上げ」と想定してたのに、年間で7~9億円の経常損失を抱えることになっていました。手元にある2003(平成15)年の損益を見ると、その年の売上高約5億4千万円、営業費用は13億8千万円、29億円の繰越損失を出しています。そりや上場どころの騒ぎではないよね。

ただそのころぼく自身も「上場は難しい」と思い始めたことも事実ですね。バックの中心である毎日新聞の経営不振が続いていること。上場するならほかの大手民放をバックに持つ会社がCS110度放送で先行するはずで、毎日新聞がバックではとても無理という感じを持ち始めました。それにデータ放送単体の視聴者が増えてこず、インターネットにどんどんシフトしていく状況が明確になり始めましたからね。竹内社長にこのことを率直に話したこともありますが、「そんな弱気でどうする」と怒られましたから、社内的には強気の姿勢を崩していませんでしたがね。

毎月一回、月次の報告に行っていた角川会長も、その前途に不安を持たれていたことも事実です。時代はインターネットや携帯電話で何でもできる時代に完全移行して行きつつあり、データ放送なんて見向きもされない時代に入りつつありました。アイフォンなどスマホの登場はまだでしたが・・・

だけど基本的には、毎日新聞は「メガポート放送」への番組提供するけど、その本紙への広告の提供で相殺する仕組み。ところがBS11はビックカメラなどからの支援もあり、キャッシュの面ではこちらは相当見劣りしました。「メガポート放送」支援・継続には、経営不振が続く毎日新聞には無理があったと思います。

◆ビックカメラが大株主のBS11がメガポート放送を吸収合併

2005(平成16)年にメガポート放送はBS11に吸収合併されてしまいます。これの時に大変だったのは株の権利を放棄してもらい、これをBS11に買収してもらわなければならない。ぼくはどういうやり方だったのか、よく覚えていないんだけど、入社していた専門家の公認会計士が考えてくれて、うまく行きましたが、個人株主はチャラにするわけで、だから、ぼくは株主の間を全部回って頭を下げて了解取らなきゃいけない。

Q.出資金額はゼロにして合併するわけですね。それはきついですね。

きつかったのと、やっぱりね、その 発足当時、毎日新聞の社員からも株購入を呼び掛けたんだね。よせばいいのに。それで、ぼく自身百万単位の出資をしているわけだけど、いずれ上場だと色気を出して、みんななけなしの10万とか20万とか30万の金を出して、買った人がけっこういたんですよ。主に広告局だったかな。それでね、確か20万円出資した広告局の人が最後まで抵抗しました。そんなのおかしいって、最初に話した時とは違うじゃないかって。それは正論だよね。

でも合併による存続会社は「日本BS放送」の方ですから、メガポート放送は会社としては消滅しました。ぼくも含めて個人株主は、合併後に「BS11」の株を割り当てられることもなかったですから、ぼくもなけなしの金を出していましたが、アワと消えました。

Q.上場をねらうような企業は小口の個人株主が入ることを嫌いますから。
角川とかエイベックスなどは、個人でなく法人が出してるのですよね?


そうです。法人株主にもあきらめてもらいました。確か合併を承認できないという株主には、毎日新聞が10分1の価格で買い取ったと思います。いろいろ各方面に投資をしていて角川は捨て金も慣れてるなんて言ったら失礼だけど、わりとすんなり了解してもらいました。

あと、エイベックスの社長だとか。みんなそれぞれ癖のある人なんだよね(笑)。角川さんはもちろんそうだし、エイベックスの当時の社長の依田さん(依田巽)。例の 有名なアニメじゃなくて、なんだっけ、アメリカの映画の宇宙ものヨーダてのが出てくるのがあるじゃないの。

Q.スターウォーズですか?
 
そうそう監督のスピルバーグがモデルにしたと言われていました(笑)。エイベックスは浜崎あゆみで大ブレイクしたけど、ちょうどその頃だったですね。

そういえばメガポート放送は、CSをとるときに 増資をしました。そのあと2年経って減資して合併じゃないですか。それは株主としては怒るわな。合併承認総会をやるんですが、紙の上でやったのかな。委任状を取ってやるわけで、合併条件こうで、合併会社は、被合併会社はこうなるっていう風なことで、いろいろ書いてあって。で、被合併会社、つまり「メガポート放送」は役員は退任するので、わずかな退職金を一応払ったんですよ。その株主総会の議決権に退職金支払いについて、 〇✕がついてんだけども。バツをつけた株主もいましたよ。無理もないと思います。

「BS11」はさすが大手の電化製品の販売・流通会社の大手ビックカメラっていうバックがいて、総務省からも天下りを引き取ったりなんかして。あっという間に、いつだったっけな、たしか2014(平成26)年上場したですよね。その時の初値が1940円(2023年8月末現在ビックカメラの持分約61%)、今は890円(2024年9月4日)です。でも頑張って上場したんですからえらいよね。「インサイド・アウトサイド」」などニュース報道番組などで、それなり頑張っていますよね。やはりバックに資金のある会社がついていないと出来ないと思いました。
 
Q.そうですか!どの市場ですか?

最初は東証二部、その後すぐ東証一部、いまは東証スタンダードに上場してますね。

Q.メガポートの方の法人株主は、BS11の株を割り当てられたんじゃないでしょうか?

うーん、そうだったかなあ・・・。もうよく覚えてないなあ。そうだとしたら、上場で儲かったのかな。日本BS放送の最近の資料を見ると、毎日新聞、毎日映画社が合わせて1%程度保有していますね。でも角川書店、エイベックスは株主に入っていないな。

Q.10分の1だとしても、株を持てて上場したんなら、 むしろ儲かったかもしれないという風に思ったわけですけど。

こっちは全然メリット無し。その当時、2005年だからぼくは64歳だったのかね。まだ子供たちが大学行っててお金がかかったしねえ。

Q.そうですね。経営陣はしようがないと思うんですけど。

冷たいこと言いなさんな(笑)。

Q.一般法則ですよ(笑)そういえば、従業員はどうなったんですか?出向元に帰ったとか?あるいはBS11に移籍できた人もいたんですか?

従業員についてはほとんど問題なかったです。毎日新聞はじめ出向会社からきていた人は、元の会社に戻り、技術・制作関係の人達はほとんどBS11の技術現場に引き取ってくれましたから。ぼくが引っ張った公認会計士もビックカメラに入りましたね。労務問題でもめることは無かったですね。その意味ではBS11に感謝していますよ。
 
社長だった竹内さんは退任、会社整理のあとビックカメラの関係会社の社長になられたようです。

ぼくは毎日新聞の特別室で特別嘱託として、BS11に行かなかったメンバー2名と2005(平成17)年10月から2006(平成18)年3月までメガポート放送の会社清算業務を行いました。合併により会社が消滅しても消滅会社の税務申告、新会社への財産引継等複数の残務整理があります。狭い部屋で残務整理をさせられたなあ。

最後まで残ってくれたメンバーについてですが、ぼくが引っ張った公認会計士さんは残務整理後毎日新聞からビックカメラに転職(ちょうどビックカメラの上場準備中でした)、もう一人の技術者(園田くんといったかな)、彼は4月から北海道で農業をするために転職しました。
(以上第36回完)