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ある新聞記者の歩み 28 記者から不動産業へ?! 大阪本社ビル建設計画に取り組みながら、大阪の食文化を堪能

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー第28回です。今回は、佐々木さんが47歳のときの1989(平成元)年に、記者職を離れ編集局とは異質な経営中枢の経営企画室に配属になります。かつて2年ほど組合委員長を務めたことがあるので、2度目の記者以外の職です。そこでは、大阪本社ビルなどの建設計画を担当、また「新聞革命」をめざした、題字変更、紙面デザインの改革を行うCI(コーポレートアイデンティティ)プロジェクトに取り組みました。記者稼業からの“寄り道”は思ったよりおもしろかったようです。なお、CIについては、次回お聞きします。(聞き手-校條諭・メディア研究者)
 

◆大阪本社ビルの建設計画 過去、鹿島に入れた一札とは?

 
Q.経営企画室の人材として見込まれたのはどういう背景だと思われましたか?
ぼくが目をつけられたのは、想像ですが甲府支局長時代に開催された国体、選抜高校野球、NHKの大河ドラマ「武田信玄」などの放映に合わせた、別刷り発行、販売拡張、広告社の売り上げ増につながることなどを一生懸命やったことで、「あいつは新聞記者より、経営の道を歩んだ方がいい」という事で目を付けられたんだと思いますね。その時は、筆一本で生きる道は断たれたと思っていました。
 
ぼくは甲府支局のあと、証券業界担当の兜町記者倶楽部、経済部デスクに2年近くいて、1989(平成元)年の3月に経営企画室委員になりました。経営企画室長はジャカルタ特派員、大阪経済部部長・編集局長などを歴任した7才年長で常務の秋山哲さんでした。東京の経済部におられたこともあり、よく知っていました。

経営企画室長だった秋山哲さん

秋山さんは面白い人で、毎日新聞退職後、奈良産業大学の教授になり2003年には今のSNS時代を予見した『本と新聞の情報革命―文字メディアの限界と未来』(ミネルバ書房刊)を出版されています。さらに現在90近い年齢で、自分一人でデジタル出版の作業をして、ルーツである京都の商家の物語、さらにジャカルタ特派員時代の記憶を生かした小説などを「檜 節郎」のペンネームで相次いで出版されています。人生百年時代を体現しているような人ですね。けっこう、面白い小説ですよ!
 
Q.経営企画室赴任後、担当されたのはどういうお仕事ですか?
 ぼくが秋山さんから命じられたのは、「不動産担当」という事でした。編集局にいては絶対経験のできない“実業の世界”でしたから、これはこれで面白かったです。

当時・大阪駅に近いメインストリートの堂島にあった、70年前に建てられ手狭になっていた大阪本社ビル。この旧本社から歩いて10分程度離れたJR大阪駅西側の旧国鉄梅田貨物駅跡地再開発(現・オオサカガーデンシティ)によって発生する土地を取得し、ここに新本社をたてるというプロジェクトでした。当初、旧本社は商業ビルに建て直し、地上43階建ての超高層ビル・大規模ホールもある”大阪一のビル”にしようと、土地の半分を日本生命、第一生命に売却して、ビルのコンセプトを決めるために、この三社協議が月一度大阪で開かれました。大阪本社の担当者と東京本社の経営企画室の不動産担当者ということで、出席していたわけです。

ただ事実上の倒産である新旧分離(1977(昭和52)年)を経て、9年後、新旧分離を解消、新生「毎日新聞社」が生まれたばかり。だけどぼくの行った頃は“イケイケどんどん”のバブル経済の真っ最中。それがあっという間にバブルは崩壊、不動産ブームは鎮静化、堂島ビル計画も地上23階のオフィスビル計画に代わりました。
 
Q.経営企画室って、社内的にはどういう位置づけのポジションなんですか?
 経営企画室というのは役員会直属の組織で、基本的には役員会で討議する四本社一支社(東京、大阪、中部、西部本社、北海道支社)の経営に関係するテーマに関する資料作り、経営企画室としてはこう考える―という意見を室内で議論して添付したケースもあったと思います。室員には各本社からのそれなりの人材が派遣され、東京本社からは編集、販売、広告、人事・総務関係の人が配置されていた思います。ここに席をおくと全社の問題点、毎日新聞の弱み・強みが本当によくわかりました。

(大阪本社新ビル、『毎日の3世紀 新聞が見つめた激流130年』下、2002年2月)

いろいろ紆余曲折ありましたけど、経済記者として記憶に残っているのは、建設会社選定の問題です。毎日新聞社は、大きな建設は同じ大阪生まれのゼネコン「大林組」なんですね。しかし今回は「鹿島建設」が入っているんです。
 
Q.鹿島が取ったのは、何かいきさつがあるのですか?
 なるほどこういうのが建設業界なんだなあと思うことがありました。戦後、毎日の大阪本社裏の駐車場の工事を、たまたま鹿島に頼んだのです。当時の大阪代表が一札入れていたようですね。「本社ビルを建設するときには鹿島を入れます」と。今回、本社ビル建設の話を聞きつけた鹿島が。それは何十年前のも前のことなんだけど、ビル建築業者選定の時に、鹿島が金庫の奥から取り出したのが、この「証文」です。建設主体はやはり大林組でしたが、鹿島もジョイントベンチャーとして食い込むわけです。これはすごい世界だなあと思いましたよ。
 

◆うまい! はじめて触れた大阪の食文化

この建設検討委員会出席の時に、毎月必ず大阪に行って一泊します。その帰りに京都や奈良に行った覚えもあります。何せ議論の中心は大阪本社のこと、当方はお目付け役のようなもんで、こんなこというと秋山さんに怒られそうですが、気楽なポジションでした(笑)。議論の内容を東京に帰って、文書にして秋山室長に報告するだけですから。でも大阪本社のこのプロジェクト担当者のTさんは、大阪本社の社会部出身。府庁、市役所にも顔が聞き、シャープで頼りになる存在でした。「議論は彼に任せておけば大丈夫」という感じで、助かりました。
 
Q.細かい話ですが、大阪に泊まるときのホテルはどこですか?あと、大阪本社には経営企画室員として、立ち寄ったり、デスクワークをしたりする場所はあったのですか?
 ホテルは堂島の本社前の確か「堂島ホテル」というビジネスホテルを定宿にしていました。会社の目の前ですし便利でした。値段も安かったような気がします。いやいや大阪本社内にデスクなんかはありませんでした。その意味で気楽でしたね。
 
Q.出張ならではの楽しみなんかもありましたか?
 仕事が終わると飲みに行くわけですが、組合委員長時代の大阪支部の仲間なんかと、久しぶりに会いましたね。それとエネルギー記者時代の東京で付き合った関西電力の人達とも久しぶりに会いました。そういう連中と会って、美味いところを紹介してもらい、大阪の食文化に初めて触れました。

今でも覚えているののは「キタは行ってもいいけど、ミナミは一人では絶対に行かないでくだいさい」と注意を受けたことですね。ミナミは暴力団関係の店などが多いので気をつけろーというようなことでしたね。まあ東京なら新宿歌舞伎町にお上りさんが一人で行くようなものかなあ。だからミナミはほとんど行かなかったなあ。

東京とは町の匂いとか質感とかが違う街だと思いました。すごくおもしろいと思いました。まず行ってビックリしたのは、旧本社の堂島の地下街の店で食べた“うどん”の美味さ。とにかく透き通った色のその汁の美味さ、どんなに小さい店に行っても同じなんですね。大阪と東京の食文化の違いにショックを受けましたね。大阪の人が東京に来てうどんを見て「なんだこの真っ黒い醤油の汁は⋯⋯」といったのが分かりました(笑)。ぼくは親父が広島なので関西の味のことは聞いてはいたんですが⋯⋯。
 

◆不動産のプロ生命保険会社とタッグを組んで

肝心の生命保険会社との交渉、かれらもサラリーマンだけどサラリーマンなりに根性見せる必要があるんですよね。言うべき時には自社の利益を優先してキチンと主張しますよね。なにせ向こうは百戦錬磨の不動産のプロですから。でも、何となく相手が“新聞社”ということで、世間一般もそうでしたが、「寄らば切るぞ!」じゃないけど、「寄らば書くぞ!」見たいな気分があって、。今じゃ“マスごみ”呼ばわりされることもあるんだから、ちょっと想像できない感じだけど。遠慮してたような気がするけど、いうべき時にはぴしゃりと言いましたね。

そのとき、第一生命の担当者、息子さんが新宿で無差別殺人の犠牲になり殺されて新聞ネタになったんですね。どういう事件だったかちょっと思い出せないですが・・・。でも、そんなことおくびにも出さなかったなあ。あらためて思うのですが、日本生命、第一生命という日本を代表とする優良企業と、一つのテーブルで合いまみえるというのも貴重な経験でした。
 
Q.交渉とは何をどうするのですか?
 ビル全体のコンセプトを考えて、収益の上がるものにいかにするか、そのための家賃設定をどうするか、設計をどうするかなどを話し合うわけです。土地の税制上の処理があるので、近畿財務局の了承を得たうえで、東京の大蔵省、国税庁と折衝する部分があるんですね。うっかりすると税金をたくさん取られるから、何とか特例の指定をしてくれとか、そういうのがけっこうあるんですね。それを東京に持ち帰って、ぼくと室長の秋山さんが大蔵省に行って、昔取ったきねづかで主税局、理財局の担当官にお願いするわけです。
 
Q.今風に言えば、モリカケ問題みたいな側面というか・・・。
 
そこまではいきませんが⋯⋯(笑)。ああいう巨大な建物を建てる際の税の仕組みというのは、新聞社だから国有地を払い下げてもらってメリットを得たと言われるけど、ほかの業界のことはよくわからないですが、基準通りに適用してもらうと、何億円か出ていくんですよ。これを法に触れない範囲で、役人の裁量で基準を柔軟に解釈しもらうわけです。勉強になりました。
 
特に毎日の場合は1970年代に大阪城に近い、法円坂の国有地の払い下げを受けたんですが、第一次オイルショック(1973年)以降の不況と毎日新聞の経営不振もあり、建設計画は頓挫していきます。そこに大阪市からの斡旋で、法円坂と西梅田のJR大阪駅西側の旧国鉄梅田貨物駅の土地との等価交換を持ちかけられ、これに乗るわけです。この作業の間には複雑な土地税制の適用があります。もう忘れましたが、その税金を負けてもらえるグレーゾーンを見つけて、大蔵省と交渉するのです。大蔵省側もかなり好意的に対応してくれましたね。だけどかつて取材に夜回りなどで押しかけていた課長補佐なんかが、審議官、局次長となって相対するわけです。なんか変な感じでしたね。
 
Q.日本生命とか第一生命は何を収入として見込むんですか?
 まあ、保険会社はお客から預かった保険料を長期運用して、利益を上げ万一の時の保険金支払に備えなくてはならないわけです。日本生命、第一生命、共に毎日の堂島ビルの底地を25%ずつ購入したわけで、そこにコンスタントに長期にわたる相応の家賃収益を、上げなくてはならないわけです。ですから全国のオフィス街のビルの再開発に参入したいわけです。生保会社がイコール不動産会社であることを始めて認識しました。
 
だからいかに“収益の上がるビル”にするか、生保二社と貧乏会社の毎日側も知恵をしぼり合うわけです。医療機関を入れた方がいいか、地下は全部商店街にした方がいいかとか。メインのテナントはどこがいいか、それをどこが引っ張ってくるかとか。集客力がアップして家賃収益が上がるか、そういうことを話し合わなくてはいけない。一区画いくらで売るかと、大阪市内のオフィスビルの基準値は、現在どうなっているか。オープンは何年後かになるので、その頃の価格はどうなっているかとか。信頼ある不動産コンサルタントに調べてもらわなければならない。それをもとに詰めて決めていく“実業の世界”です。
 
毎日新聞大阪本社が堂島から西梅田に移ったあと、堂島に新ビルを建てるんですが、今「堂島アバンザ」という23階建てのオフィス・店舗複合ビルになっています。当初は43階建ての超高層ビルを作る計画でした。毎日新聞の新旧分離、バブル崩壊、その後の不況などで縮小されました。いろいろ激論があったことを思い出します。2年前だったか大阪の阿倍野のカトリック教会に呼ばれて講演に行った際、「堂島アバンザ」に寄ったことがるんですが、にぎやかでいいビルなんでうれしかったな。
 
Q.形になってあとに記念碑みたいになって残るわけで、それを計画してたということですね。
 まさにそういうことで、不動産業のだいご味なんでしょうね。だから勉強になったし、おもしろかった。でも東京本社、大阪本社、中部本社といい、その土地、土地の一等地に本社ビルを建てる力が当時の新聞社にはあったということだよね。いかに戦前・戦後の往年の新聞社が財政的にも力があったかという証左だと思うな。その不動産の力でここまで生きてこられたという側面もあると思います。経営企画室の不動産担当になってしみじみそれを感じたなあ。でも毎日新聞は不動産を次から次へと手放していると聞いています。それに比べると、朝日新聞、読売新聞はまだまだ耐久性があると思っているんだけど⋯⋯。

◆名古屋の中部本社ビル、九州の西部本社ビルも

名古屋もあったんですよ。それも建て直すという計画がありました。JR東海が名古屋駅の上に47階のJRゲートタワーズ、51階のセントラルタワーズを建て始めました。毎日新聞中部本社は文字通りその名古屋駅正面にあり、戦後まもなく作られた古いビルです。その後、一部の底地をトヨタ自動車に売り、「毎日・トヨタビル」と言っていました。トヨタ自動車といっしょに建てるのですが、どうするかという計画をつくる必要があります。建設資金を捻出するために、50対50がいいのか、40対60がいいのかとか、どこまで底地をトヨタに毎日が売るかという話なので⋯⋯⋯。名古屋の話は経営企画室当時はまだボンヤリした話でした。
 

(中部本社旧ビル、『毎日の3世紀 新聞が見つめた激流130年』下、2002年2月)

Q.名古屋も同じ時期に検討されていたのですか?
 大阪の次が名古屋ということです。ぼくは、あとで名古屋の中部本社の代表になるけど、まだ前段階のトヨタとやりとりをしていました。その場合、トヨタは東京で交渉できるので、名古屋でなく東京で主としてやってたと思います。
 
Q.トヨタ自動車は東京支社が飯田橋あたりにありますよね。
 そうそう、飯田橋です。大阪でも名古屋でも何十億の単位の話ですからね。そう簡単にはいかないわね、トヨタと毎日ではスケールが違うから。名古屋が片付いたあと、九州もあったかな。でも名古屋は今では46建ての駅前のオフィスビル「ミッドランドスクエア」として威容を誇っています。
 
Q.西部本社もですか?
 西部本社をどうするかという話もありました。
 

◆東京本社の立て直しも視野に お台場移転案も?!

それと東京本社です。パレスサイドビルを建てたのが1966(昭和41)年かな、パレスサイドに移転してますね。ぼくが入社した年が1965(昭和45)年だから、ぼくは有楽町駅前にあった旧本社時代に入社した最後の世代、ビルの屋上には遠隔地の事件現場から本社に原稿を繰るために使う、伝書バトの鳩小屋があったんだから・・・。新人記者を終わり東京に戻ってきた1975年にはパレスサイドビルでした。

毎日新聞東京本社が入っているパレスサイドビル(2023年2月、校條諭撮影)

Q.わあ、もう50年越えてますね。
 驚かないでよ(笑)。あの周辺の大手町、丸の内界隈のビルは、ほとんど建て替わっていますよね。とくに経済部時代取材で歩いた大手町ビル街は様変わり。経団連、日本経済新聞社、農林中金は近くの国有地に移転、経団連、日経のあいだにあった道路は無くなり―迷子になりそうですよ。

ですからぼくのいた経営企画室時代で、パレスサイドビルは25年くらい経ってるわけだから、毎日新聞の本社の建て直しということも考えなければいけないという話をして、東京都が造成したフジテレビのあるお台場のあたりを視野に入れようというプランもありました。いろいろ検討した覚えがあります。20年後ということで。その各本社の再開発計画を合わせて全部まとめて、「本社長期不動産計画」みたいのを作りました。ぼくがほとんどやった覚えがあるけど、年ごとの不動産収支を計算して、東京本社はこれこれのときに建て直してというような計画を、巻物状の長いものを作りました。
 
Q.どうしてそんな巻物にするんですか?
 だって、年次ごとの数字を年表のように入れるのでA3の紙を横長にして、何枚も張り合わせて印刷しました。「不動産については役員はド素人集団なんだからわかりやすくしなければダメだ」なんて言って(笑)。こちらも素人なんだから、よく言うよ!だな(笑)。それを役員会に出して説明するわけです。あとで当時の社長の渡辺襄さんに、「佐々木君、あんなものよく作れるなあ」なんてお褒めにあずかりましたよ。そういう風なことをよくやったんです。けっこうおもしろかったです。
 
そのほか都内の販売店なんかの金になりそうなところを売却して利用できないだろうかとか。販売店だとか広告だとかの収益の上げ方とかも検討しました。
 
Q.お台場プランというのはその後も生きてるんですか?
 いやいや、机上プランですから。だって20年後、30年後なんてわからないじゃないですか。その証拠に、あれから30年、その後何もできてないんだから(大笑)。
 

◆地下6階まであるパレスサイドビル 「毎日温泉」も

あのビルは都心にあるんだけど、地下6階まであるんですよ。そんなビル、都心にはほとんど無いですよ。まあ、なかなか建て替えは難しいビルなんです。ぼくは今車イス利用者なんだけど、いまどきのビルと違ってバリアフリーでは無いので、往生します。ビル直結の地下鉄もエレベーターがなく、だからOB会なんて行けないんですよ(笑)。
 
Q.地下6階まであるのは、当時新聞印刷をしていたため地下に輪転機が置かれていた関係ですよね。輪転機がある頃、高校生だったか、見学したことがあります。見学を申し込まなくても、一部ならガラス越しにいつでも見ることができました。今、B1は商店街と毎日ホールになってますよね。それより下はどうなってるんですか?
 
おお!輪転機のある頃を知ってるんですか。今は地方での分散印刷(サテライト工場)、地方新聞に委託印刷となり、新聞は印刷していませんが、地下の元の工場跡地には印刷会社が入っています。
 
Q.新聞印刷の輪転機は撤退したけど、別の印刷会社が入っているということですか?
 
そうですね。あと、“毎日温泉“と称するお風呂が地下5階だったかにありました。今でもあるんじゃないかな?なかなか立派な風呂ですよ。
 
Q.“毎日温泉”に入ったことあるんですか?
 
ありますよ。でもわれわれは通常は遠慮してましたけどね。基本的には印刷など現業部門の人が入っていました。印刷インクで体がよごれるわけなんで。組合事務局も地下3階か4階じゃなかったかな。
 
Q.組合は地下に潜っているわけですね(笑)。
 
そうそう、地下活動(笑)。
 

◆皇居一望のパレスサイドビル屋上には「毎日神社」

Q.私は、ときどき屋上に行きましたよ。皇居方面の景色をながめに。
 ああ、そうですか。屋上はなかなかいいですよね。目の前が遮るものがなく皇居なんですから、あそこに毎日神社というのがありますね。
 
Q.知ってます(笑)。
 そうですか。あそこ、毎年大祭があるんですよ。赤坂の日枝神社から神主さん呼んできて、祝詞あげてお祓いするんです。社運隆盛を祈るわけだ(笑)。あんまり隆盛になってないみたいだけど(笑)
 
あのビルは、戦後のビジネス・ビルの名建築として、トップ・テンの中に必ず載るビルなんです。ユニークというだけでなくて、廊下が広く使い勝手がよかったです。いいビルですよ。日建設計の林昌二さんというチーフ建築家が作ったビルです。いろいろな建築関係の賞を取っているはずです。外観がユニークだし。皇居を眺める景色はなかなかのものですが、国有地を買ったわけですが、当時の毎日新聞の“力”を思い起こさせる土地と思いますよ。
 
Q.両側のエレベーターホールの塔なんかユニークですよね。
 そうそう。できた当時、日比谷のプレスセンタービルから見ると、日比谷公園をはさんで、よく見えました。口の悪いやつは、二つの塔の真ん中にパレスサイドビルの後ろにある住友商事が当時入居していた高層ビルが、墓石に見えるっていうんですよ。確かにそうだなあって言って笑ってましたが(笑)。「だから事実上の倒産の新旧分離なんて目に合うんだ」と冷やかされました(笑)。今は周辺に立派なビルが増えたから目立たなくなってしまいましたが・・・。
 
Q.地下鉄が真下に直結していますね。
 あれは、本当に便利ですねえ。ぼくが新人のとき配属された水戸支局の二代目支局長が、運輸相の国鉄担当の社会部のKさん。新潟出身で、ホント小型・田中角栄みたいな突破力のある人で、国鉄とか運輸省にものすごく食い込んでいた人なんです。お堀端の道路っていうのは地下鉄なんか、万一の時を考えて水に近いから、あんなところに作ってはいけないそうです。伝え聞いている話ですが、本来は現在の本社裏の共立女子学園の方から、㈱丸紅のビルの裏を通って大手町に抜けるっていう構想のはずだったと聞いています。それを曲げて引っ張ってきちゃったわけです(笑)。“我田引鉄“だね!今ならネットで炎上騒ぎだろうな(笑)。
 

◆ペルシャ語の領収書? 今だから言える話

ビルの一番上の9階には皇居のお堀と緑を見下ろすアラスカ(レストラン)が入っていて、接待に使うのにちょうどよかったです。下には中華とか安いところもあるし。赤坂飯店とか寿司屋の「いろは」とかね。
 
Q.「いろは」は大衆的な寿司屋でしたね。コロナの頃、閉店してしまったのは残念です。
 残念ですよね。「いろは」で思い出しました。当時の逸話だけど、月末の経費精算で「官房長官「『いろは』接待、5000円」とか書いて経費で落としたというんです。官房長官が「いろは」で食うわけないだろ、なんていう笑い話を政治部時代聞いたことがありました(笑)。まあ、官邸キャップなんかがポケットマネーで部下に飲ませたりするときに経費で落とすことがあるんですね。
 
Q.もうちょっとほどほどのところはなかったんですか?!(笑)
 ねえ!何枚も出てくるっていうんですよ(笑)デスクも分かっているけど通してくれていたようですね。
 
領収書といえば、経済部時代も金額の頭の数字の1にひと筆書き足して、4にしたことがあったんですよ。1500円が4500円に変身―というわけです。本来なら“業務上横領”で罪になっても文句は言えないね(笑)。まあ時効だから⋯⋯(笑)。でもいいわけじゃないけど、当時、朝日、読売なんかと比べて当時毎日新聞の給料はかなり安く、役人や政治家を囲んでの飲み会のワリカン費用の捻出などに回していたと思う。取材活動に消えていたと思います。

それから、ぼくじゃないけど九州に出張に行って、タクシーを乗り回して数万円の経費請求をしたら、経理の人が、そんなにかかるのはおかしいと思ってタクシー会社に問い合わせたんですね。それでバレちゃったとか(笑)。
 
ぼくもまあ、人のこと言えないです(笑)・・・。1973(昭和48)年の第一次石油ショックの際、当時通産大臣だった中曽根さんとサウジアラビアなど中東に出張で行ったことがあります。イラン、サウジ、クエートとか回りました。タクシーに乗っても「レシート・プリーズ!」といっても通じないんだよな(笑)。自腹で払うんだけど、東京に戻って経費精算に困って、産経の記者といっしょになってクラブのソファーに座ってお互いの会社向けの領収書を作ったことがありました。現地に行くと、大使館員とか商社の人と会うから名刺をもらいますよね。その名刺にお互いに「○○リヤル、タクシー代として立て替え」とか書きました(笑)。デスクが見慣れた字ならバレそうだから、アラビア数字の難しいのを、2人で書き合いましたよ(笑)。
 
テヘランのバザールかなんかで珍しい時計を買ったことがあります。あちこちの地域に対応した時差時計みたいなやつでした。すぐ壊れちゃったけど・・・(笑)。その保証書を添付して会食費を請求したりしました。保証書は社内には読める人はいない、わけわからんペルシャ語で書かれているので、外信部の記者だってペルシャ語、読めるわけないだろうって(笑)。ま、そういうバカなことやってましたよ。
 
まだ新旧分離前ののどかな時代、ハイヤーなんて呼び出し放題。こんなことやっていたんだから⋯⋯⋯⋯(笑)。