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一緒に逃げよう。

私は「女に学問は必要ない」とは言われなかったけど、「大学に行ってもいいけど、実家から通えるところで、そんなすごいところには行かなくていいからね」とゆるふわパターナリズムの中にいた。そこから飛び出したくて勉強して、飛び出していろんなところにぶつかりながら生きてきた。

私はそうやって、逃げ出して、連れ戻されないために逃げ回る中でフェミニズムに出会って、女として生きることをやっと肯定できるようになった。

今、論文とも似つかないほとんど妄想が連なっただけの"論考"を頼りにして、自らの主張を感情的なものではなく論理的に矛盾もしていない、と言いながらトランス差別を助長し擁護している"女性"たちが、そもそも「女に学問は必要ない」という社会の中で本当に抑圧されて生きてきたことを、そのものの体現として、突き付けられているのだと思う。

悲しい。

「トランスジェンダリズムが…」と訳知り顔で吹聴する奴らは、家父長的な抑圧の状態を維持するために、感情を手玉に取って彼女たちの"地頭の良さ"を利用している。ハリボテの"深い学び"を提供し、やたら専門用語を使って一体感を醸成し、考え続けるという行為を搾取している。

これ以上、悲しい仕組みを再生産したくない。女性は守られて当然なのだ、というところに帰って来てしまうと、「だから女性を自認する身体男性は、女性のスペースから排除しなくてはいけない」という明らかな差別を、差別だと認知することができなくなってしまう。


私は保育をしていて、自分がパターナルな関わりをしていないかを常に点検している。

「弱いから守ってあげなきゃ」
「わからないから教えてあげなきゃ」

大人がそういうところから出発してしまうと、

・先回りして危険を除け続けてしまい、子どもが自分で危険を回避するための方法を学ぶ機会を奪う

・子どもなりの考えを持って試行錯誤している途中で、「こうしたらいいよ」などと答えを押し付ける

というようなことが起きてくる。

大人の言うことを聞いて正解を求める生活を続けていくと、「自分には力がある」「自分は自分の力を使って問題を解決できる」という意識が子どもの中に育たない。

だからそうではないかかわりを、学びと実践を繰り返す中で蓄積していく必要があるし、保育の現場は研究側と常に連携をしながら蓄積してきた。


女性は守られて当然なんかじゃない。
生きる力を持った人間である。

犯罪に巻き込まれやすいのは、私たちが女の身体をしているからではない。
犯罪を犯すやつの認知が歪んでいるだけだ。

緊急避妊薬が薬局で買えないのは、風俗が乱れるからじゃない。
妊娠を盾に関係性をコントロールすることにこだわるやつがいるからだ。

押さえつけてくる、狭い檻に閉じ込めてくるやつの言うことなんて、聞く必要ない。

一緒に逃げよう?
あなたは大事にされる。
あなたはそんなところにいる必要がない。
あなたは、幸せに生きることができる。
怖がらせて脅してくるやつの言うことなんか、一ミリも聞く必要はない。
あなたは、自分で色々と試しながら、触れるかどうか、食べられるかどうか、いいことか悪いことか、自分で考えて判断することができる。
だから、大丈夫。


私は女性として生まれ育ち、今を生きている。
私は日本で生まれ育ち、日本で暮らしている。
私は焦げ茶に近い黒髪で、焦げ茶色の瞳で、肌は黄色く、五体満足で生まれて今までそのまま生きてきた。

アイデンティティ。

今「性自認」と訳されている「ジェンダーアイデンティティ」も、私が私であることのうち、大きな割合を占める属性の一つだ。

他人の中にあるジェンダーアイデンティティを、外から見てわからないからと否定したり、決めつけることなんて、誰にもできない。

やってはいけないのではない。

誰にもできないことだよ。

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