見出し画像

なんとなく。

5月3日、憲法記念日。
毎年この日だけでも、憲法を読んだりしてみるってのは、いい考えだと思う。

私のお気に入り条文は、第13条。
『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』

権利と義務

 杉並の区議会でも子どもの権利とか多文化共生とかが話題になることが増えてきて、人権がそもそも何なのかが問われる場面がある。その中で、「権利と義務はセットです」みたいな話を始める議員がいたりするんだけど、それってどうなんだろう?

義務=「○○しなければならない」
  =絶対にそうしないとダメなもの

権利=「○○することができる」
  =やるかやらないかも含め自分で決めるもの

この定義からすると、この二つはセットじゃなきゃ成り立たないもの、とは言えないよね。

強引にセットにした場合、「義務を果たさないと権利はありませんよ」と全部の権利が条件付きになっちゃったりして、全然自由じゃないな。

憲法の中にも、権利と義務が同時に書いてある条文があるけど、それぞれ主語が違う。

例えば第25条。
"すべての人"が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を持っているよとあり、その後に、"国"は人々の生きる権利を保障するためにあらゆる努力をする義務がある、と書いてある。

例えば第26条。
"すべての人"には教育を受ける権利がありますよ、ということと、"保護者の立場にある人"には教育を受けさせる義務がありますよ、ということが書いてある。

こうしてみると、権利はいつも"すべての人"が対象で、義務はいつも"権力を持っている人"が対象なのかな。

でも、そうするとちょっと引っかかるところもあって、例えば第12条には、憲法が保障する自由や幸せは、ひとりひとりが常に努力をして維持するようにしなければならない義務がある、と書いてある。

この場合は、私たちひとりひとりが"権力を持っている"ということなんだろうか?

立憲主義

憲法ってそもそもどういう位置付けなんだっけ、と考えてみると、答えは前文の中に書いてあった。

まずこの憲法は、太平洋戦争で日本が負けた後、1946年にできた。

明治以後の戦争で何度も勝って調子に乗っていた日本は中国と戦争を始めたんだけど、「日本あんま調子乗んなよ」と言わんばかりになぜかアメリカとかイギリスが入ってきて、中国に加勢して、どんどん戦争が長引いていったんだよね。

で、アメリカとイギリスはアジアに植民地を作っていったんだけど、日本はそこで「ヨーロッパの支配から解放してアジアの人をみんな幸せにするんだ」とか言いながらどんどんそこに住む人の営みを壊して日本の植民地にしていった。

挙句自分たちが負けている時もそれを認めないで、人の命をたくさん犠牲にして、最後まで意地を張っている間に、原爆を落とされてしまった。

「本当に馬鹿なことをした。戦争なんて、やってはいけない。」

そういう反省の上に、今の日本国憲法はできた。
だから、二度と戦争を起こさないためにはどうすればいいの?ということを考えて作られたんだよね。

前文にはこうある。
『日本国民は………政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存ずることを宣言し、この憲法を確定する。』

戦争を始める前に、「私たちは戦争をしますか?戦争はやめておいて違う方法を考えますか?」とご丁寧に国民投票をやったりすることは、まずない。「向こうが攻めてきたからやり返しました」とか何とか、政府や軍が勝手に始めちゃってから事後報告されるもんだから、市井の人はやるかやらないかなんて選ぶことができないまま、巻き込まれていってしまう。

つまり「二度と戦争を起こさせない」ためには、国民が主権者なんだから勝手なことをするなよ!!と政府がやることを市井の人々が縛る必要があるってことだ。

市井の人々が、自分たちの国の政府がやることを縛るために、憲法を作り、使う。そのことを立憲主義って言う。

だから憲法は、法律とは違う。

市井の人々は主権者として、自分たちの代表はこの人だっていう人を議会(立法府)に送る。議会の中では、どんな法律を作ったらいいかが話し合われる。その時に憲法は、直接意見が出せない市井の人々に代わって「憲法に書いてあることに反するような法律は、作ってはいけない」と目を光らせる。

政府(行政府)は法律や制度を実際に運営していく立場だから、もちろん憲法に反することをやることができない。もしそんなことしたら、内閣を総辞職させたり、選挙で落として国の運営に関われないようにしなくちゃいけないんだけど、それをできる力を持っているのが、この国で生きるひとりひとりの主権者だ。

さっきの12条はつまり、この国に生きるひとりひとりの主権者が、ちゃんとその力を使い続けないと大変なことになるからね!!という、日本国憲法が制定された時代を生きた人々からの、未来へのメッセージなんだと思う。

「これから先を生きる人たちには、幸せに、自由に生きてほしいから、これだけはどうしてもサボっちゃダメ!!」というのは、歴史の上に立っているからこそ、未来の人たちに課した義務だよね。

個人の尊重

政府の行為を縛ることによって「二度と戦争を起こさせない」ための努力。サボっちゃダメだからね、と書いた直後にあるのが、冒頭の第13条だ。

第13条には、たった1人のあなたが大事にされる、と書いてある。あなたの存在、あなたの思い、あなたの生活、そういう個人的なことを、法律や制度を作るときには最大限大切に扱わないといけないんだ、と読める。

12条には主権者ひとりひとりの義務が書いてあって、13条には国がそのひとりひとりを大切にしなきゃいけないっていう義務が書いてある。

憲法を書いた人たちは、何でこの順序で、どうしてこの二つを並べて書いたんだろう?

戦争をすると、人は人として扱われなくなるよね。「この飛行機に乗ってぶつかってこい」という命令は、そこに乗っている人を人ではなく「武器」だと思わなければできないと思う。泣きながらであれなんであれ、そういうふうに扱ってしまっていることは間違いない。

だから、すべての人がひとりひとり大事にされる環境を整えることを国に義務付け、普段から個人を人間として大切に扱うことを続けなさい、ということを一緒に書く必要があったのかもしれない。

13条には同時に、たった一つ、個人の自由が制限される理由が挙げられている。

「公共の福祉に反しない限り」というのはどういう意味なんだろうか。

例えばコロナパンデミックでは、世界中で政府が自国の人々に対して外出を制限する事態が起きた。ロックダウンと呼ばれた、かなり強い制限だ。個人が何よりも優先されるなら、そんな制限はできない。でも、世界中で首相や大統領が「みなさんの自由を制限することは本当に苦しいが、どうか耐えてほしい」と頭を下げていた。
日本の首相は、そんな説明もなく突然学校を休校にしたりしてたけど…。

コロナ禍では、個人の自由を追求することが、公共の福祉に反する事態だった、ということになる。ここでいう公共の福祉とは何だろう?

それは、生きる権利の保障だ。

治療薬のない新しい感染症が流行して、どうすれば感染を防げるのかもわからなかった最初の頃。
私たちは不安がありながらも、普段通りに生活をしようとしていた。
でも、持病がある人や高齢者、乳幼児が感染し、重症化して死んでしまうことがわかって、少しずつ自分の行動を自分で制限するようになっていったよね。

私たちは誰にでも、生きる権利がある。
だからお互いにお互いの命を削らないために、外出を控えたり、マスクを付けたりして、自分の自由を制限した。
(この制限によって仕事を失ったり心身の健康を害したりした人もたくさんいて、本当は国がその保障をもっとちゃんとしないといけなかったんだけど、その辺の話はまた別の機会に…)

公共の福祉は、お互いの権利を最大限守るためにどうしたらいいかを考えるってことなんだね。

そして公共の福祉に反するっていうのは、自分の自由だけを優先して誰かの権利を削ったり、酷ければ命を奪ったりするってことだ。

小さい人たち

「日本人すごい!こんな大変な時でもきちんと列に並んで秩序を保っている!」みたいな話がたまに聞こえてくる。秩序を保つことと公共の福祉っていうのは、何が違うの?という人もいる。

私は保育園で働いていた時、毎日この自由と公共の福祉と秩序について、考えていたと思う。
なぜなら毎日目の前で、お互いの自由のぶつかり合いが起こるからだ。

例えば玩具の取り合いが起きた時、どんな対処をするだろうか。
2人が同時に同じものに手を伸ばしたのか、それとも、人が先に使っていたものをもう一人が取ろうとしているのか。

その場にいる大人は、まず、絶大な権力を持っている。
どんな権力かというと、取り合っている玩具を強引に取り上げて「喧嘩するならもう貸さない」と子どもたちの遊ぶ自由を奪ったり、人が使っていたものに手を伸ばした人に「泥棒だよ」と断罪したりすることもできる、とてつもない権力だ。

そんな権力を持ちながら、それを行使せずに子ども同士の成長を促す関わりを実践するのが、保育の仕事だ。

秩序

秩序あるやりとりとは何だろうか。

同じものに同時に手が伸びた場合、「お先にどうぞ」と譲り合ったり、「後で貸すから先にいい?」と交渉したりする。

人が使っているものが気になった時「ちょっと見せて」「貸して」と声をかけて触れたり、「それ、いいね」と褒めて相手が自ら差し出してくれるのを待ったりする。

秩序を保つことだけが大切なら、大人は「順番に使いなさい」「ごめんねと言いなさい」と、その"正しい"対処を頭ごなしに押し付けて、子どもを従わせることで解決することができるし、力の強い方が勝ち取った場合、それで解決したと見なすことだってできる。

でもそれでは、権力者が権力を行使して秩序を保っただけだったり、一方がもう一方の自由を侵害したままになってしまったりして、子どもたちはそれぞれを尊重されたことにはならない。

個人の尊重が何よりも大切なら、取り合っていたどちらもが「自分が尊重された」と思っている必要がある。

公共の福祉

では、公共の福祉とはなんだろう。

子どもたちが物を取り合っている場面には、いろんな理由がある。特に、思いを言葉にすることがまだ難しく、伝えたいことがあって開いた口がそのままガブッと相手の身体に歯形を残してしまうような時期の人たちほど、単純に取り合っているわけではなかったりする。

お互い単純にその"物"が使いたい場合。
一方は"物"に興味があり、もう一方はそれを"使う"という行為や使っている"人"に興味がある場合。
面白そうだからやりたいと思ったけれど、「かして」「いれて」と声をかけられず形として強引に奪うようなことになってしまっている場合。
一緒に遊びたい、という気持ちの表現の仕方がわからず、相手には「物を奪いにきた」と思われてしまっている場合。
などなど。。。

その一つ一つの個人の思いを紐解き、思いに沿った表現の仕方を一緒に考え、その人が他者との関わり方を自分で身につけていくために、保育士は、小さな人と対話を試みる。

対話を通して掴んだ本当の思いが伝わり合うように、やりとりを助けながら見守っていく。

そうして「自分が尊重された」という経験を積んできた人たちは、自分と他者についての認識が深まってくると、「相手も尊重する」という必要性に気がついてくる。

そうやって自分と他者のどちらも大切にする必要性を感じている中で、「でもこのままじゃお互いに削りあってしまう」という場合に、お互いの自由を守るために譲り合う、分け合うこと。

それが、個人の尊重と公共の福祉の関係性ではないだろうか。


おままごとコーナーで、ちゃぶ台に肘をついてちょこんと座り、こちらを見つめている人がいる。
私はインターホンを押す真似をして、おままごとコーナーに入っていく。

「ピンポーン、お邪魔しまーす!」
「はーい!どうぞー、ここにすわって!いまねー、おみかんたべるところ!いっこしかないけど!」
「えー、いいなぁ、私も食べたいなぁ…」

だめよ、あげない、と言われるかなぁ、いいよ、どうぞ、と言われるかなぁ、と考えていると、その人は鼻唄を歌いながら、みかんの皮をむく真似をし始めた。そして皮を一周むき終わると、

「はんぶんこ」

と言って実を割る動作をして、ニコッと笑って私の手を取って手のひらを上に向け、そこに半分にしたみかんを乗せる真似をした。

「いいの?ありがとう!」
「うんー!はんぶんこ!おいしいよ」
「いただきます!もぐもぐ…本当だ、おいしいねぇ」
「あまくて、すっぱくて、おいしーい!」


2年半くらいしか生きていない小さな人も、お互いの権利を守るために分け合うことを知っている。

自分を尊重してほしいという思いを素直に出してぶつけてみることで対話が生まれ、お互いを尊重する方法を考えることが始まる。

だから、権力を行使して強制的に誰かの行動を制限することがあってはならない、ということも憲法には書いてあるけど、公共の福祉に反する場合、つまり、どう頑張ってもお互い削り合うことにしかならなくてどうにもならないから一旦ストップ!と言わなければいけない場合に初めて、個人の自由に権力が立ち入ることができるんだよ、ということを決めたのが、第13条だ。

憲法記念日

憲法ができて公布されたのが1946年11月3日。
憲法が実際に施行されたのが1947年5月3日。

どうして前者は「文化の日」で、後者が「憲法記念日」になったんだろう。

公布というのは、できましたよ〜とお知らせをすることだ。
施行というのは、実際に効力を発揮し始める、ということだ。

11月3日は元々明治天皇の誕生日だったからその日を祝日として残したかった、という話もあるけれど、国民の祝日に関する法律の中で、文化の日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日と説明されている。
憲法が公布された日の意味づけとしては悪くない。

11月に憲法が公布されてから、『あたらしい憲法のはなし』という副読本が作られ始めた。
戦争に向かっていく世の中で考えられていたこととはだいぶ違うことが書いてある憲法だからこそ、国民が自分で憲法を使えるように、解説が必要だった。

だから施行されて実質的に効力を発揮し出した日を憲法記念日にした、というところだと思う。(いろんな人のいろんな思惑が言われていたので、私の中での落とし所はこう)

そんな日に、憲法を読んでみるっていうのは、結構いい考えだと思うよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?