クソ媒体
こんなツールがなければ、
わたしはあいつとは違うと、焦燥することもなかったのでしょうか。その感情が嫉妬なのか、憧れなのか。別に知りたくもないけど。抱くべき感情なのかもわからないけど。
その時点で敵は自分ではなく誰かになった。
焦燥は、無駄な焦燥?
その焦燥から自分を強くできたのなら、
自分を好きになる努力ができたのなら、
それは無駄ではないと否定できるけど。
自分を肯定できるけどそれはそれでうざくね?
とも思うのです。かわいくないので。
最近気づきました、自分が異常な天邪鬼なことに。それはどうでもいい。
もしこのクソみたいな長方形がなかったとして、わたしはあなたに巡り合えたのだろうか。
会えない時も、仲を深めることができたのだろうか。簡単に連絡が取れないから、思い焦がれて、待ちわびて、募ったのだろうか。
会いたいと家を飛び出し、このクソ媒体なんかに頼らず、身ひとつであんたが好きだと伝えられたのだろうか。逆に、面と向かって嫌いと言えただろうか。
長方形の「フォローする」ボタンひとつで簡単に繋がれる現代の出会い方に、ときめきはない、抵抗もない、多少ドキドキはする。それが当たり前。そんな自分たちが少し怖くて、安易で、苦労知らず。身体が会わなくても、電波が出会える。それでいいのか?あいだに距離があれば尚更それしかないけど。
ひと手間や苦労が、人と人の距離を近づけるの?現代で考えたら不便だけれど、そんな中で私たちの親は生きてきた。恋をした。恋愛の仕方も時間と共に変化する。惹かれあって、恋に落ちて、最後には一緒になるという事実は変わらないのに、そのロジックはこれからも変わり続けるんだ。それが自然なんですか?
携帯のことを散々言ったわけだけど、それを駆使して生きているのは紛れもない自分であり、いろんなツールで友達と繋がって、仲を深めて、愛まで伝えたりしてる。駆使してるとか言ってるけど、操られているのは私たちの方なんじゃないかと思う。踊らされてる。
もしこのクソみたいな長方形がなかったとしても、わたしはきっとあなたと、嫌いなあいつと、巡り合ってみせる。それはそれでそういう世界。なんらかの形で、絶対に。
だって悔しいから。
この長方形の塊に向き合った時間を換算して、それを映画2時間半に置き換えると、何本見れるんだろう。漫画何巻読めるんだろう。どこまで歩けるんだろう。何時間の睡眠を確保できたんだろう、背伸びたかも。悔しー。
「携帯」を「クソ媒体」にしたのは自分なのに、携帯が全部悪いみたいな言い方してる。悔しー。
恥ずかしいね。
わたしが20歳になった時、姉は言いました。
「他人ではなく、過去の自分と比べるべし」
以上、初手でした。