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【短編小説】マイナス残業

「仕事が終わんねー!」

 小畑(こはた)は断末魔の雄叫びのように叫んだ。この会社において、小畑は中堅どころの社員である。

「マズイ、マズイ、マズイ!」

 小畑はあせりまくっていた。
 周りはシーンとしていた。誰も小畑に手を貸そうという者はいなかった。自分のことは自分でやってくれという空気が流れていた。

 時刻は午後の5時。
 定時は午後5時半終了であることを考えると、タイムリミットはあと30分。
 その様子を見ていた新入社員の香下(かした)は先輩女性社員の鈴木(すずき)に小声で聞いてみた。

「何で、あんなにあせってるんですか? 残業すれば済む話じゃないですか」

 香下は当然の疑問を投げかけた。

「香下さん、知らないの?」

「何がです?」

「うちは残業すると、マイナスになるんだよ」

「は、はい?」

「残業すればするほど、お給料がマイナスになるの。残業代がマイナスってこと」

「マジっすか!」

 あまりの大声に、香下の声は部屋中に鳴り響いた。

「あ、すみません。え? ほんとに残業代がつかないんですか?」

「つかないんじゃなくて、マイナス。お給料がドンドン減らされていくってこと」

「マジっすか!」

「大マジよ。だから、終業時間が近づくと、みんな戦々恐々としてるでしょ」

「ああ、どおりで。そういうことだったんですか」

「だから、残業なんてしちゃだめよ。お給料が減っちゃうんだから」

「うちの会社って、そんな斬新な会社だったんですね」

「社長が非効率的な人間はいらないって考えだからね。残業する人間は仕事に無駄があるからだって」

「それはある意味、恐怖ですね~」

「だから1分も無駄にできないのよ」

「その分、給料は高いですけどね。新卒の初任給が50らしいですから」

「残業してごらんなさいよ。高いって、言ってらんなくなるから」

「ひえ~、頑張って仕事しよ」

「ほら見て。誰も手伝わないでしょ。他の人の仕事までしてたら、自分が残業する羽目になるから」

「それって、どうなんすかね?」

「みんな、自分に火の粉が降りかからないようにしてるのよ」

 香下には疑問が湧いていた。
 残業代がマイナスになるため、チームワークが乱れるような会社のシステムってどうなの? という疑問だ。
 だが、香下自身も給料が減らされてはかなわない。火の粉が降りかからないことを願うばかりだった。

「新人くん!」

 すると、小畑がわらをもすがる思いで、香下の方を向いて叫んだ。
 この会社で新人といったら、香下しかいない。今年度の新入社員は香下だけなのだ。新人といえば、ただ一人、泣く子も黙る香下のことである。

「な、な、何でしょう?」

 香下は動揺のあまり震えていた。人生初の初任給が今、減らされようとしている。この小畑という大して話したこともない先輩社員から、鉄槌を打たれようとしている!

 オーマイガッ! そんなアホな!

 他の社員には頼めないのを見込んで、頼みやすい新入社員の香下に白羽の矢を立てたのは間違いない。

「香下ちゃん、手伝っておくれ」

 キターッ!
 顔がひきつりまくった作り笑顔で小畑は言った。香下にはその顔がものすごく醜くみえた。
 なんてこと言うんだ、この人は!

 だが、ここでは所詮、新人という最弱のキャラである。大学では上級生として、威張ってもきたが、ここでは新キャラに逆戻りだ。

「よ、よ・・・」

 喜んで、と言おうとしたが、それ以上、口をついて出なかった。思ってもいないことは口から出てこない。

「・・・はい」

 ものすごく小さな声で、ものすごくイヤだけどね、という意味を込めて、返事をした。
 鈴木先輩の方を見てみると、憐れみの表情で見つめていた。口を開けば、ご愁傷様と言われそうだった。

 そうなのだ。
 香下は選ばれてしまったのだ。
 残業という断頭台に上がらなければならない。
 周りは気の毒な表情で見つめている。
 今、香下は断頭台で首をちょん切られようとしている!
 そんな気分だった。

 せっかくの初任給。
 あれも欲しい、これも欲しい、いや、両親にプレゼントしようかな、皮算用していろいろ頭を巡らせていた。

 そんな想像をガラガラと打ち砕く、マイナス残業への御招待。
 ぬわにいー!
 香下の顔もひきつっていた。

「な、何をやれば、よ、よろしいでしょうか?」

 動揺でろれつも回らない。一体、何をやらされるというのか。定時を目前にして!

「簡単、簡単。簡単なことだよ」

 笑顔で小畑は言った。目は踊っており、ものすごく早口だった。
 だったら、自分でやってくれい! 
 香下は、そう言いたいのをぐっと我慢した。

「アンケート集計だよ。お客様アンケートをまとめてちょ」

 笑いながら小畑は指示してきた。
 笑い事じゃねえ。
 香下は表向きは笑顔だったが、内心では怒り狂っていた。

 ここは社員200名規模の中小企業。
 家庭用品を主に作って販売している。
 主力製品は水筒。USB接続でパソコンなどを使って保温もできる水筒が一番の売れ筋商品だった。

 おそらく、そのお客様アンケートのことであろう。
 ただ、問題はアンケートが何通あるかだ。この期に及んで、100通ものアンケートを集計しろとか言われても、たまったものではない。

「簡単、簡単。ほんの1000通ほどさ」

 0が一つ、多いです!

「それをさ、まとめてほしいんだ。集計してさ」

「は、はあ、でも、もう定時ですし、いつまでに完了すればよろしいですか?」

 香下は何とか言い返した。何せ定時はすぐそこだ。定時を過ぎてやることなど、あってはならない。何せ、残業はマイナスだ。人の仕事をやってまで、残業することなどあり得ない。

「ん? 明日までだけど」

 アホかい!
 明日って言いました? 明日まで?
 ウソでしょ? 冗談は顔だけにしてくださいよ。

「急ぎなんだ。明日までにまとめてくれって、社長から直々に言われててね」

 知らんわ、そんなこと!

「は、はあ、でも明日までってのは・・・」

「俺も手伝うからさ」

 どの口が言う!
 おどれの仕事をこっちが手伝うんじゃい!

「では、私はどれをやればいいですか?」

「とりあえず、全部。今の仕事が終わったら、俺も合流するから」

「は、はあ・・・」

 小畑はどさっと香下の机の上にアンケートの束を置いた。
 くらっ。
 香下はめまいを覚えた。定時を目前にして、1000通ものアンケート集計を明日まで。しかも、やればやるほど給料がマイナスになるという、この状況。

 なめとんのか!
 他に誰も手伝おうとはしない。見て見ぬふりをしている。
 香下は鈴木先輩の方をチラリと見た。鈴木先輩はすぐに目をそらすと、サッと自分のパソコン画面を見つめた。

 わざとらしい、実にわざとらしい。

 だが、それもやむを得ない。
 もし、逆の立場だったら、香下自身もそうするだろう。
 香下は覚悟を決めた。
 いくら残業でマイナスになるとはいえ、給料がゼロになるわけではない。基本給まで下がるだけだ。

 基本給?
 基本給って、いくらだろう?
 初任給と同額かな?
 なら、これ以上減らないってことか。
 よし、よし。
 だったら、残業でも何でもやってやろうじゃないの。
 矢でも棒でも持って来いってんだ。
 鉄砲でもいい。何でもござれだ。

「やります! 頑張ります!」

 香下は自分自身に気合いを入れるために言い放った。

「おっ、いいねー。その意気だ。ありがとよ」

 小畑は香下の肩を笑顔でバシバシと叩いた。
 いてーよ。
 音楽が流れてきた。
 終業の音楽だ。これが鳴ると、みんなの行動は早い。瞬時に片付けを終えると、すぐに席を立って、去って行く。素早い行動だ。

「お疲れしたー」

 脇目も振らずに帰っていく。これぞまさに、残業マイナス効果だ。しかも、今日はとばっちりを受けないように、まさにチャイムが鳴ったと同時に席を立ち始めた。

「お先~」

「お疲れ~」

 続々と帰っていく。
 鈴木先輩も席を立った。

「お先に~、失礼しまーす」

 鈴木先輩は帰ろうとしたが、何か言い忘れたのか、振り返って言った。

「あ、香下さん?」

 おっ! 手伝ってくれるんですか、鈴木先輩!

「何でしょうか?」

 つとめて明るく香下は聞いた。

「うちの会社の基本給は15だからね。よろしく~」

 そう言うと、鈴木先輩は片手を上げて帰っていった。
 は、はい? 今、なんと?
 初任給は50だから、えっと、えっと、3分の1?
 さ、さ、3分の1?
 帰りまーす!

「よし! 香下くん、やるか!」

 やるかじゃねーよ!

 その後も残業を重ねた結果、香下の初任給は基本給まで見事に落ち込んだことは言うまでもない。

 しかし、社長からねぎらいの特別ボーナスというのが出た。
 新任早々、先輩社員から残業に付き合わされて、気の毒だと思われたのだろう。
 立派でぶ厚い封筒だった。
 香下は喜んだ。

 社長もいいところある! さすが、社長!
 この会社に入って良かった!

 香下は社長を拝みたいくらいだった。他の社員のいるところで華々しく贈呈式までしてくれた。何とありがたいことだろう!
 これで、50万から15万に減ってしまった初任給を、少なからずカバーできる。
 フフフ、この封筒の分厚さからすると、最低10万だね。
 封筒の中身を覗いてみた。


 千円札、一枚だった。


 しかも、ご丁寧にかさ増しの新聞紙まで入れて。


 クソだ、こんな会社!



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