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日曜日の本棚#46『日本資本主義の精神』山本七平(PHP文庫)【プロテスタンティズムを持たない日本人が資本主義社会で成功した理由とその後の凋落を予言した市井の思想家の論考】

日曜日は、読書感想をUPしています。

前回はこちら

今回は、資本主義と日本人の思考について論じた山本七平さんの『日本資本主義の精神』です。資本主義とは何かというテーマをここのところ大事にしていますが、その一環として読んでみました。資本主義と精神性という点は、これまで視点のないところでもありましたので、山本七平さんらしい丁寧な論考から得るものが多かった本でした。

山本七平さんの著作については、こちらでも紹介しています。

作品紹介(PHP文庫 作品紹介より)

日本の企業が「機能集団=共同体」という強固な結束のもとに成り立つ世界でも類を見ない組織であることが、日本経済の強みであった点を説く。さらにその根幹には、江戸時代に培われたピューリタン思想にも似た日本独特の資本思想があったとする。いずれも刺激的な議論で、明治維新や戦後の日本経済の復興・成長を欧米の資本主義を教えてくれる。

所感(ネタバレを含みます)

◆新自由主義者が解雇自由化に固執する背景

竹中平蔵氏ら新自由主義者が熱心に主張していることがある。それは、「解雇の自由化」である。彼らはこのような表現を使わず、「雇用の流動化」などの婉曲な言い回しをするが、ようは企業が自由に解雇できる権利を持つことは、経済界にとって「悲願」とされる。

では、逆に言えば、これまで解雇が自由に「できなかった」のはなぜかという疑問も生じる。そこまで自由にクビにしたいのであれば、お好きなようにやればいいのではと思うが、そうできない理由がどうやらあるらしい。

もちろん、法律の問題ではない。この国では脱法も法の拡大解釈も問題にならない。司法も随分と権力者にやさしくなった。やれない理由を法に求めることは現実的ではない。
また、今の時代なら、メディアを黙らせることなど造作もないはずである。

その点について山本は本書で、会社は共同体であることを前提にこう指摘する。

会社が機能すれば、そこに会社共同体が生ずるし、会社を機能させるには、会社を共同体にしなければならない。(中略)新入社員もまた新たに「会社種族」にならねばらない。(中略)(共同体に)加入すれば追放されない限り、終生そこにとどまるのも、また当然である。
(中略)
共同体に加入すると、(中略)機能集団としての会社の役割が与えられる。(中略)日本の場合は、まず会社という共同体に加入し、それから機能集団の一員としてのトレーニングを受けるという形になるのだ。

ここにクビを切る側の複雑な心理状態を理解させられる。たとえ経団連企業のような、すべての労働者など吹けば飛ぶ存在として、あしらうことができる資本の力を以てしても、解雇が共同体からの追放を意味する以上、解雇権の濫用は、「ご法度」なのだとする精神性があるように見受けられる。

それは、会社が共同体であることを強く内面化していることに他ならない。正社員として受け入れた共同体の一員を追放するリスクは大きすぎる。会社は、「会社村」という共同体の一員でもあり、うっかりと共同体の一員を放逐すれば、逆に会社村からの追放という返り血を浴びる危険があるからであろう。ここに見えない入れ子構造が存在していることを理解させられる。

だったら、「国」が「法律」が解雇の正当性を「保証」してくれないと困るという事情があるのだろう。

一方で、彼らが非正規雇用を血眼になって増やし続けてきたこと、更に非正規労働者を自社で雇わず、人材派遣会社に頼るの構造があるのも、山本はこう説明している。

だが、会社所属でないものは血縁社会における非血縁者のように、そこに何年いようと、生涯をそこで 送ろうと 何の権利も認められない

非正規雇用は、働き方の問題ではなく、「会社という共同体の内と外を峻別する機能」として運用されてきたのである。

それは、労働組合の連合が、非正規労働者にあまりに冷淡であったのも当然のことなのかもしれない。労働組合であっても、それは会社共同体の一部であり、その一員の証しての組織であるからだ。共同体の「外」である非正規労働者は、労働組合であっても「外」の存在なのだ。

であるならば、彼らから支持を受ける立憲民主党に、国民民主党に労働者が期待するのは、根本的に誤りとも言える。彼らが守ろうとする権利は、会社共同体内労働者の権利のみだからだ。

そのような精神的な基盤がこの国にある以上、西洋諸国当たり前に導入されている同一労働、同一賃金など、実現は100%不可能であろう。
共同体の内と外では、地球人と宇宙人ほどの違いがあるからだ。

◆プロテスタンティズムを持たない日本人がなぜ資本主義社会で成功したのか。そして、その後なぜ凋落しているのかを説明する論考。

資本主義と宗教については、山本も紹介しているが、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(プロ倫)は、山本の論考の基盤となっているようだ。

急ごしらえの知識を仕入れ、プロ倫も数章読んで、本書に戻ってみると、資本主義を成功させた要因としてヴェーバーが分析したプロテスタンティズムを日本人は当然持たないことは、日本人と資本主義を考える上で、大きな前提条件となる。

しかしながら、日本人は自国の思想家のバトンの受け渡しによって、プロテスタンティズムの代替思想を得ていた。それを山本は、鈴木正三と石田梅岩、そして梅岩の弟子たちの論考に求める。

梅岩のいう倹約とは、自制の倫理であり、同時に斉家、すなわち商家という企業体の秩序の基本であるという考え方である。いわば、利益追求という欲心を自制して、ひたすら消費者に奉仕するという発想は、対外的自制だが、それはいや応なく合理性の追求となり、その追及は対内的自制すなわち倹約になっていく。

この考え方は、戦後復興を遂げた経済人の考え方に通底していたことは間違いないと思われる。その象徴が石川島播磨重工業、東芝で経営に携わった土光敏夫であろう。

質素な食事、バス・電車での通勤・・・

当然、土光はこの梅岩の考え方を知っていたと思われるし、それを実行することが、「資本主義社会で勝つこと」として理解していたのだろうと思われる。

残念ながら、土光のこれらの行動と思想を引き継いだ経営者は誰もいないと言い切っていいだろう。このころは、大企業のトップであっても現在の貨幣価値でも数千万円程度の報酬だったと聞く。今は、億の金額をもらっているようだが、誰一人として、土光の仕事の足元も及ばないのは明らかである。

そして、業績の雲行きが怪しくなったら、「法人税を下げろ、消費税を上げろ」というのだから、こんな思考で勝てるわけもない。今の経営者の考えている常識は、必敗の思考なのだと痛感させられる。

◆社会が失ったあまりに大きな代償は、「資本の論理」への理解か。

日本の凋落の発端となったのは、冷戦の終結という点であることは、衆目の一致するところであろう。

そして、このころ日本人は、冷戦の終結をもって、あることを捨てたとみていいのではと思う。それは、マルクスの思想である。

革命を企図するマルクスの思想は、社会主義国家の終焉とともに、放逐されて問題なかったと思う。

しかし、資本主義の分析という業績は別に扱われるべきだった。斎藤幸平や白井聡といった若手研究者が声を上げ、マルクス復権に尽力したのは幸いであったが、その間に私たちが失ったのは、マルクスの業績からも得ることができたと思われる、山本の言う「資本の論理」への理解であろう。

いうまでもなく、(資本の)論理は、その底に、それを基本とする一つの公理が数式のごとく厳然と横たわっている。では、この公理とは何か。一語でいえば、「資本だけが利潤を生む」であろう。

この指摘は重い。

なぜなら、カネと資本は別であるからである。

例えば、法人税は、企業の「利潤」にかけられる税である。そのため、人件費や研究開発費は控除できる。高い法人税の時代、企業は必死になって「利益」を減らしていた。
従業員の給料だけなく、福利厚生も手厚くしていた。また、研究開発にも費用を回していた。それは、利益を減らすための苦肉の策であった。

企業にとって、不本意であったであろうが、これは資本として、企業に循環していたのではないか。優秀な従業員に高い帰属意識を持たせ、イノベーションに対応できるだけの研究開発環境を整えていたとも言える。

これらは、広義の資本として機能した。

資本主義の理解として、資本だけが利益を生むのだから、企業は、得た利益を資本として活用することに可能な限り使うことが、生き残るための定石となる。そのことへの理解が今の経営者にどの程度あるのだろうか。

企業の内部留保が積みあがっても、それは資本として還流しなければ、何の意味も持たない。今、大企業がやっていることは、収益を資本に繰り入れず、単なるカネ、もっと端的に言えば、単なる数字として内部留保を積み上げているだけではないのか。

半導体で負けたのも、ITで負けたのも、究極的に言えば、資本不足で負けたのだ。カネはあっても、それを資本として使わない限り、資本主義の社会では勝てない。

HUAWEIは、従業員にも研究開発にも潤沢な資金を投じている。彼らは、「資本だけが利潤を生む」ことをよく知っており、そう解するしか彼らの行動を説明することはできない。彼らは理にかなった行動をしているにすぎないのだ。

もし、資本の論理への理解があれば、法人税減税を求め、その穴埋めとして消費税を導入するという愚策は絶対になかったのではないかと思う。

◆今の日本の凋落を予言した山本の危惧

山本は、最後に今後の日本の将来について、危惧している。それは、「資本の論理」の上位概念であるとする「資本の倫理」の崩壊である。

いわば「資本の論理」を厳格に実施しつつも、(経営者)本人は、無私・無欲であらねばならぬという倫理である。これはおそらく、かつてピューリタンが持っていた倫理とともに、人類史においてきわめてユニークなものであろう。
(中略)
非倫理性への糾弾は、もちろん当然であり、それを失えば日本の資本主義は崩壊する。

土光以降の経団連企業のトップにこのような倫理観は壊滅したと言っていいだろう。時代が豊かになり、質素な生活と高い倫理観を求める思想など、抹香臭い戯言としか思えなかったのではないか。バブル経済が間に挟まれたことで、このような思想は完全に一掃されたと言えよう。

今後、このような価値観を日本人が取り戻すことは難しいのではと思う。

ただ、「資本主義社会で勝ち抜くために、倫理観は必要不可欠である」という考え方は何らかの形で次の世代に引き継がれることを願わざるをえない。

山本の予言通り、倫理観を失った経営者たちによって、日本経済は順当に力を失っている。

これは私の目には自滅であると見える。自分たちの長所を理解できず、資本主義への理解も不徹底であり、先人たちの知恵を無視した。

それを総合して、実力不足とすれば、この凋落は、実力不足で引き起こされたのだと言えるのであろう。それこそ、自己責任である。

(文中敬称略)








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