今までの放送人生を振り返る
人によっては閲覧注意?
小学校〜中学校
かねてからものづくりには興味があった人生だと思います。
小学低学年のときに超短編小説みたいなものを2~3本書いた覚えがありますし、3年生ではミニカーをコマドリで動かしてドラマを作るという動画を制作してました。
5~6年では放送委員会に入って、多数の放送事故を起こした記憶もあります。
ただ、中学に入ると、部活はサッカー部を選ぶことに。
もともとスポーツをやりたかったので、文化部はあまり候補にありませんでした(そもそも放送部はなかったですが)。
しかし、中学に入っても映像編集は度々触ってました。AviUtlを触りだしたのが3年生だった気がします(それまではWindows Movie Makerでした、あれはあれで良ソフト)。
また、受験終了後、音madに触れ、音mad作りを始めることになります。(音mad知らない方は調べてね)
音madの話を深くはしませんが、今後の放送人生に大きく関わる趣味になります。
高校
1年生
中学サッカー部が苦痛だったので、別の部活に入ることを決意。
しかし、ここでも放送部は当初選ぶつもりはなく、卓球、弓道、吹奏楽、茶道の四択でした。
卓球は見学しましたが、みんな上手すぎて萎え萎え。
吹奏楽はいつのまにかパート決めをし始めていました。
茶道は女子しか歓迎してない空気だったので断念。
弓道は…弓道場が遠くて見学だるくなっちゃいました…。
そんななか、僕の目を引いたのは放送部でした。
新歓で流された「ビフォーアフター」のパロディ映像は、再現度がとても高く、こんな高クオリティな編集ができる部活があるのか、と一気に興味津々に。
音madの編集技術を活かせるかもしれない。
逆に音madの方に活かせるかもしれない。
そんな相互作用をしながら、放送部特有の厚い扉を恐る恐る開けたのです。
放送部の空気も気に入り、放送部にそのまま入ることになったのですが、同級生の性格がほんとによかった。
中学時代までかなり立場が弱い人間だったため、立場を対等に付き合ってくれることにものすごい感動しました。そして中学時代の友達との関係を大体切りました。
放送部の大会、高校Nコン。
1年生の時は(部員数も多く、(番組部門は)一校につき一作品しか出せなかったのもあり)少し演者をしただけでしたが、ここでの作品鑑賞が今後の僕の放送人生に大きな影響を与えました。
それは、ラジオドラマでした。
あえて作品名を挙げちゃいますね。
札幌国際情報「マスカレード」
この作品に大きく大きく感銘を受けました。めちゃくちゃ面白かった。今でも好きです。
大まかなあらすじを言うと、主人公は顔を可愛くできるお面を怪しげな店で購入。そのお面を付け過ごしていたが、お面を付けていたほかの友達が次々と行方不明に。そして主人公もお面の餌食になります。実はお面は、生き(てい)た人間から取ったお面だった、という話です。
ホラー系ですね。
結果は(なぜか)地区落ちだったわけですが、僕はこの作品を聴いて、ラジオドラマを作ろうと決意しました。
2年生
少し話は飛んで、高校2年のNコン。
私の高校では、3年生が各部門のチーフをすることがほとんどでしたが、ラジオドラマを作るはずだった先輩が部活を辞め、僕に何故かチーフが回ってきました。
しかしまあ上手くいかなかった。
自分で脚本を書いても上手くいかず、部員との連携も上手くいかず、半ば分裂状態に。
提出した「春を想ひ、君を詠む」(通称:はるきみ)は、地区18位(26作品?中)となり、散々たる結果におわったのです。
この悔しさをバネに僕が始めたのは番組研究でした。
大会に提出された作品をたくさん聞き、何が良かったのか、何が悪かったのかを考え、インプットを繰り返しました。
この試みは今でも大事にしていることです。
話が脱線するんですけど、この時同じ地区から、全国優勝と準優勝が出ました。困ります。
秋の大会は、他の部員に助けられました。
途中までは(はるきみと同じく)地区18位レベルじゃないかと言われてましたが、チーフが一晩でとてつもなくいいドキュにしあげてくれました。
3年生
さて、高3のNコン。
結果から言うと、地区5位、全道18位でした。
しかも、全道ベスト6は私と同じ地区で埋め尽くされる結果に。
地区を突破できたのは良かったものの、全道ではなかなかの屈辱だったとおもいます。
この大会の作品「青春☆ラブゲッチュ」は今後も僕の前に立ちはだかります。
あらは確かにありますが、当時部員と協力し、満足するドラマとして自信を持って提出出来ました。
その自信と挫折が今後の僕を動かすことにはなるのですが…
大学
入学〜38回大会
大学では放送研究会に入ることになります。
とはいえ、最初は「サークル入っとかんと(友達いないし彼女も欲しいし)まずいから…得意な放送入っとこうかな」ぐらいの感じだった気がします。
高三の時は放送を大学でもやるつもりでしたが、受験終わってからは少しトーンダウンしてたかもしれません。その間音madいっぱい作ってたし、編集欲求は充分満たされるんですよね。
コロナ禍ということもあるので、初年度(38回大会です)は活動をどうしても制限される格好に。
サークルとしては朗読3人、音声CMと映像CM1本ずつを提出し、2本のCMの制作代表をつとめました。
作品については過去のnoteを読んで欲しいのですが、結果的には2本とも決勝進出。
当時は大学Nコンの傾向も何も分かってなかったので、かなり運が良かったかなと。映像CMについては脚本撮影を僕がしていないので、サークルメンバーが凄かったです。
この大会での本戦進出は本当に大きかった。
本選で作品を見れたこと、その刺激を受けたこと、講評を貰えたこと、本当に良かったと思います。
ただし、入賞はならず。
今考えると別に奨励賞で十分すぎる結果だろとは思いますが、当時はほんとに悔しかったです。
なぜ入賞できなかったのか。
なぜCMしか作らなかったのか。
ほかの部門も出せば入賞できたのではないか。
ということで、これから3年にわたる大量提出人生が幕を開けるわけです。
若干余談ですが、この年の夏ごろから放送研究会会長を務めることになります。
が、正直めちゃくちゃしんどかった。
ほんとに辞めようか考えてた時もありました。
ただ、4月頃には少し精神も落ち着き、仕事もしっかり割振ることができるようになったので、だいぶマシになりました。
まあその後39回大会終了直後に会長の座を渡すことにはなるんですが。
2年目(39回大会)
9作品提出。
前年やらなかった、ラジオ番組、映像番組に加え、アナウンス部門にまで手を出しました。
アナウンスはほぼ記念提出ですけど。
結果としては音声CM2位、映像番組奨励賞、映像CM準決勝進出でした。
予選結果直後はかなり病んだかなぁと思います。前年は2本中2本とも決勝に進出したのに対し、この時は9本中3本と、割合だけ見ると大幅な悪化。
今みるとめちゃくちゃ尖った作品ばっかりなので…仕方ないんですけど…。
でも、この尖りも大事にしたいなぁと今は思ってます。
決勝直後はかなり精神的に良かったです。
大会で2位表彰台は、数字的に今までで一番いい数字ですし、黒い筒と大きい賞状を貰えたことが大きな喜びに繋がりました。
とはいえ、結構大変だったので、翌年は「大量提出しない!」と心に決めた訳ですが…。
3年目(40回大会)
7作品提出。
あんまり減りませんでした。
結果としては音声CMで1位と2位。団体初優勝をもぎとりました。
ここでも5作品は予選落ちしたのが病む原因を作りました。
特に映像番組。昨年より大幅に制作時間を使ったにもかかわらず、予選落ちしたのは心に響きました。今でも決勝進出相当の作品だと思っています。
とはいえ、音声CMワンツーは相当な快挙。優勝したし勝ち逃げしよっかな〜と最初は考えていました(多くの人はここで勝ち逃げするんだと思いますが)。が、やはりほかの部門で振るわなかったのが気になってしまいました。
映像番組は39で決勝行ったのに予選落ち。
映像CMは38で決勝行ったのに2年連続決勝を逃す。
ラジオ番組は高校で最も携わったのに、そもそも準決勝にすら進んでいません。
段々と、今の自分なら他部門も制覇できるのでは?そう考えるようになり、どうせなら4冠したいな〜、伝説になりたいな〜と思うようになりました。
そして、
4年目(41回大会)
音声CM4作品、ラジオ番組2作品、映像CM6作品、映像番組2作品、朗読の計15作品を提出しました。
もしかしたら大学Nコン史上最多かも?
エントリーを決めた時、大変なことになるかもなとは思いましたが、早め早めに動けばどうにかなるとも思いました。
早めに脚本を仕上げ、撮影を少しずつ行い、日頃から編集を進めることで、比較的余裕のある制作ができた…訳でもないんですが、まあ何とか提出し終わりました。
「一寸先は闇」とかは最後の2日ぐらいで編集してます。
結果としては、音声CMと映像番組で優勝。映像CMは3位。ラジオ番組は奨励賞でした。
最終結果だけ見ればかなり満足の行く結果でした。
やりたいことの多くをやることができたし、4部門で決勝進出できたし、2冠できたし。
まあ全く悔いがない訳では無いんですが。
「カーラジオ」はラジドラでは無い(LIVE部門的な番組)という気持ちなので、ラジドラで決勝行きたかったなとか、ラジドキュ作らずじまいだったなとか、テレドラも作りたかったな(39でひとつ作ってますが)とか。
まあでもネタが無いのでしかたない。
ここまで取ってきた表彰状とか盾を並べると結構壮観です。
丸めた賞状はどうしよう。
いままでの放送人生を振り返って
高校時代は結果にあまりならなかったですが、大学時代は恵まれた結果をたくさんいただけたなとおもってます。
大学Nコンの歴史に少しでも名を刻めていたらうれしいです。
これからも視聴勢として大学Nコン見続けるので、これからの作品にも期待しています。