転職の魔女は、会社員をやめます(最終話)
「日本社会は”しがらみ”社会である」
わたしはこの本当の意味を知るまで、半世紀近くかかってしまった。
仕方ないじゃないですか。。。
だって人生一度キリ。
自分で痛い目にあったこと以外、影響を受けたことなんてなかったもの。
「はっきり言う!」なんて、本当に本気で本心を話すほどおバカなことなんてないって、やっとわかった。
もともと賢い人間は、幼い頃に偉人伝などを読んで、実際に自分で痛い目に合う前にわかってたのかな、なんていまさら気づいても遅いけれども。
そういえば、癌ステージⅣで本を出版されたT.M氏は、死を覚悟して本当のことを言いたかったのではないでしょうか。
そのお気持ち、今更ながらよくわかります。
振り返れば、転職の魔女の人生を縦軸に「年収」、横軸に「年齢」をとりグラフ化すると、客観的には右肩上がりで大変ありがたいものでした。
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しかし、だからといって、私はたぶん幸せではありませんでした。
生き方はきっと間違いではなかったし、むしろ王道の会社員という生き方をしてきたはずなのに。
結果、こういうわたしみたいな人生も選択肢のひとつとして”あった”というだけのことでした。
いやはや、もちろん大切なのは、現在から未来へつながるストーリーなのは間違いありません。
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結論から言えば、人生には3つの資本(金融、人的、社会)とその組み合わせによりいくつかのパターンがあるということです。どれを選ぶかは自分次第です。
とはいえ、人間生まれながらにして環境が違います。
家庭環境はもちろんのこと、どこの国に生まれるかによっても大きく異なります。
そういう意味では、私は現代の日本に生まれて超幸運だったと感じています。自分の親世代は高度成長期で景気は良かったかもしれないけれど、その時代に生きたかったとはわたしは到底思うことができません。
そんなわたしは平均的な家庭で育ち、平凡のまま社会人になり、今に至ります。
有名人だったら、きっともっと何も言えなかった。
だって本当の気持ちを話せば、たぶん知らない誰かを傷つけてしまって、その相手から嫌悪感を伴った言葉を投げ返されるところでした。
「本当のことは、きっと話してはいけない。」
老婆心ながら・・・何て言いながら、良かれと思って本人(例えば、職場の上司や部下など)に話したところで、ランチか飲み会のネタぐらいにしかされません。
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ところで、「プア充」ってご存じでしょうか。
これまでわたしは言語化できなかったのですが、ようやく「プア充」の説明を聞いて幸せの形を理解できたのです。
以前、わたしは「LIFE SHIFT」人生100年時代を読んで、なんとなくわかったつもりになっていたけれど、確信まで至っていませんでした。
わたしが幸せでなかった理由は、地元の共同体としての絆を失い、自己実現を追いかけ、自由と多少の金融資産を手に入れたためでした。
いまでも地元の小学校、中学校、高校時代の友達で連絡が取れるのは、2人ぐらい。
年賀状は数年前にやり取りはなくなりました。(毎年、まめな前職の同僚から1枚だけ年賀はがきをいただいています)
たぶん、地元を離れて数十年、このつながりがあるだけでもありがたいと思わないといけないと思います。
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さて、転職の魔女として最終話は、「天職にたどりついた、めでたし!」というハッピーエンドとして物語をしめくくりたいところです。
しかしながら、そうは問屋が卸しません。
どうやら幸福とはその一時点ではなく、その過程にあるというところがポイントらしいのです。
つまり、「幸せになりたいなぁ」と夢や目標を追いかけている過程がもっとも幸せだということみたいです。
だとしたら、まさしく今わたしは幸せであるという状態といえます。
冒頭に書いたT.M氏のように、わたしもこれまで被った怒りや悲しみを大勢の前に公表したい気持ちがあるにはあるのですが、それを読んだ第三者に行動変容を与えるほどのインパクトはありません。
ならば、わたしの体験談はさておき、会社員であれば40歳から50歳のあたりで、残りの人生の過ごし方を考えた方が”より自分らしく生きる”上では大切になるということだけは言わせてください。
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ここで話は変わりますが、日本は超少子高齢化社会であり、希少性の高い若者の意見に左右されがちになっています。一方高齢者の数は増えるばかりですが、数は圧倒的に多い割には大切にされていません。
「若者の意見を聞こう」という風潮があっても、「高齢者の意見を聞こう」という風潮は前世紀のものになってしまった感がいなめません。
しかし、最近では、わたしは高齢者の意見は聞いた方がいいなと思うようになりました。話すテンポが0.25倍速でも、ウケるところでウケないと何度も話がリピートするとしても、それでもあえて聴きます。
なぜなら「体験談として一理ある」というポイントが探せばどこかにあるからです。
わたしは、これらの体験談を実例として集め、これらの実例から帰納法的に仮説を立てます。そして、抽象的な仮説をもとに演繹法的にさらに抽象度をあげていくと人間の根源的な欲求に行きつく(原理原則)と考えています。
現代では、それらの人間の欲求のほとんどは商品やサービスとして貨幣価値を伴い提供されています。
それらの商品やサービスは本物じゃなかったとしても、ちょっとだけ借りればいいし、もしくはシェアすればいい。
ただし、最悪でも自分だけは代替できません。個性という属人性が所与のものとしてある。奇跡的にこの世に生まれて、たまたま生きている。たまたまの連続の毎日がある。
もし、「何のために働くのか意味がわからなくなった」としたら、次の扉を開くタイミングかもしれないと思いました。
聞いた話によると、食うために働く”RICE WORK”ではなく、自分らしい”LIFE WORK”を見つけたほうが建設的な人生が送れるとのこと。たぶん、RICEとLIFEをかけた昭和世代のだじゃれだと思うのですが、このネタは世界でも通用するのかなぁなんて思いながらも(笑)
いまのところ、何の根拠も自信もありませんが会社員をやめることにしました!
これまで会社という看板の庇護の下、数々の経験をさせていただいたことを感謝すると同時に、やはり何かの形でお返ししたいと思う今日この頃です。
拝