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エピソード.2「巨腕のショッピングセンター」第二十二話 大企業の地盤戦略①

 記録的な猛暑が続いた夏がようやく過ぎ、秋の風が神戸の下町にも吹き込んでいた。朝晩はひんやりとした空気が漂い、過ごしやすくほっとできる季節がやってきた。そんな中、空本は支店内でデスクに向かい、清水が取ってくれた「食堂 まる山」のアポイントの報告を聞いていた。

「空本さん、先日お願いされた『食堂 まる山』のアポイント、決まりましたよ。来週の火曜日の午後4時です」清水は笑顔で伝えた。

「ありがとう、清水。助かるよ」空本は資料を手に取ると、日程を確認しながら思案にふけった。「ちょうど結も誘って、打ち合わせの後そこで食事でもしようかな」

 彼の頭の中に浮かんだのは、結の笑顔だった。彼女の実家は商店街のそばにある老舗の銭湯「くすのき湯」。ケアマネージャーの仕事終わりに今でも時々手伝いながら、商店街の様子を常に見守っている存在だ。

 食堂 まる山への訪問を、彼女にとっても意味ある機会にできればと思い、空本はスマホを取り出し、彼女に連絡を取ることにした。

 その瞬間、偶然にもスマホの画面に結からの着信が表示された。空本は心の中が弾むような嬉しい気持ちを感じながら、電話に出た。

「結、どうした?」

「勇人、良かった。ちょっとお願いがあるんだけど、家に来てほしいの。急なんだけど、今日でもいい?」結の声は冷静で、緊張感を帯びているように感じられた。

「家に?分かった、すぐ行くよ」空本は早口で答えた。

 空本にとって「くすのき湯」は幼いころからの思い出が詰まった場所だ。湯之元家とは家族同然のような関係であり、今でも気軽に訪れる銭湯だ。彼女の父、湯之元 学のことは「おっちゃん」と呼び、まるで実の家族のように親しんでいる。急な呼び出しが、空本の胸の中で少しの不安を募らせた。


 湊山商店街のアーケードを抜けて、道路を一つ渡った場所にあるくすのき湯は、その周りの古びた木造の建物と相まって、ノスタルジックな雰囲気を持っている。銭湯の入り口に足を踏み入れると、学の低い笑い声が聞こえてきた。

「おっちゃん、どうかしたん?急に結から呼び出しがあって…」

「おお、勇人か。ちょうど来てくれて助かったよ」学は頭を掻きながら、カウンターから顔を出した。

 空本は奥のテーブルに案内され、座ると結がすぐに話を切り出した。
 
「さっきね、不動産屋さんが来て、お父さんに土地を売ってほしいって話を持ちかけてきたの」

「土地を?」空本は驚いた顔で学に視線を移すと、学は苦笑いを浮かべた。

「そうなんや。坪単価100万円って、それなりに高い価格で提示してきたよ。どうしても売ってほしいってな。なんなら金額もまだ上げるってさ」学は淡々と言ったが、その目にはわずかな戸惑いが浮かんでいた。

 空本はすぐに思い浮かべた。「これは…阪栄グループのショッピングセンター計画と関係してるんじゃないか?」

「勇人…これって…」結の唇がかすかに震える。

 くすのき湯の土地が、商業開発のターゲットにされていることを考えると、湊山商店街全体が強大な脅威にさらされているように思えた。

 学は首を振りながら続けた。「もちろん断ったよ。この銭湯は、ただの風呂屋じゃない。地元のみんなに愛されてる場所やからな。ただ、正直に言えばな…最近、客足は減ってる。みんな歳を取って、なかなか銭湯に来る元気もなくなってるんだよ」

 結は父の言葉を黙って聞いていたが、不安な気持ちを隠せていない表情をしている。それもそのはず。結にとって大切な実家であり、自分を育ててくれた父と銭湯だ。

「時代は変わって来てるしな。続けていくのも難しいんだってことは分かってる。いずれその時が来るかもな。でもな、勇人。この銭湯を失くしてしまうってのも…どうにも心が痛むんだよな」学は力なく笑った。

 空本は真剣な顔で学を見つめ、ゆっくりと口を開いた。「おっちゃん、まだ何も決まってないし、俺たちもできることを考えていきます。湊山商店街も、くすのき湯も、まだまだ地域に必要な場所だと思う。ショッピングセンターがどうだとか、土地の買収が進んでいるとか、そんなことで簡単に諦められるような場所じゃない」

 その言葉に、結は少しだけ目を潤ませた。その瞳には、不安だけでなく、幼い頃から慣れ親しんできた銭湯の思い出が浮かんでいるように見えた。父と一緒にここで過ごした日々、商店街の人々との交流、湯気に包まれた温かな時間が彼女の心を満たしている。それを失うかもしれないという恐れが、今の結には強くのしかかっていた。

「勇人、ありがとう…」

 空本は彼女のその表情を見て、改めて湊山商店街とくすのき湯が持つ価値を守ることの大切さを強く感じた。土地の買収が動き出し、湊山商店街と周辺が変わりつつある今でも空本の心は変わらない。

「何としてでも、この場所を守るために、動かなければならない」

 くすのき湯は、彼自身にとっても大事な場所だ。結と一緒に過ごした思い出、学から教えてもらったこと、そして地元の人々との繋がり。空本にとって根っことも言えるものだ。それを失うわけにはいかない。結の手をそっと握りながら誓いを立てた空本。彼には守るべき理由がたくさんある。

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